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第4話 あいは名前が欲しい。



 お父さんがあいに会うのは一年ぶり。彼は、彼の目的のため、世界を飛び回っていました。



 その目的が何なのか、家政婦さんや家庭教師の先生は、"仕事"だと言っていました。



 あいは、仕事が一体どういうものなのか、よく分かりませんでした。



 彼らが言うには、それはあいを育てる為に必要な事だそうです。



 しかし、あいは、お父さんが自分のそばに居てくれることのほうがずっと大事だと思いました。



 それを、子どものわがままと言えるのでしょうか。



 ただ、自分の名前を呼んでくれるだけでいいのに。





         ◇





 夜。あいはいつものように独りでダイニングの席に着いていました。



 今日の献立は、ローストした牛肉、野菜のスープ、チーズ、白パン、ぶどう酒です。



「デザートは?」



 テーブルの上に置かれた皿を眺め、あいは家政婦に訊ねました。いつもなら、夕食にはデザートが付いてくるからです。



「今日はありません」



 彼女の無情な答えに、あいは絶望の面持ちで目を見開きました。



「ど、どうして……?」



「お嬢様は、お昼にケーキを召したのでしょう?私達に"無断"で」



 表情こそ穏やかでしたが、あいには、彼女がまだお昼の事を怒っているのがはっきりと分かりした。



「勝手に家出をして、私達に心配をかけた罰です」



 あいは、ここにきてやっと、自分の勝手を家政婦に謝りました。



「ごめんなさい。もうしないから」



「当然です」



 結局、今日のデザートは抜きになりました。家政婦も流石にそこまで甘くはありません。



 あいがいつもより少し味気ない夕食を取っている途中、家政婦の携帯電話に着信が入りました。



 電話口に出た彼女は、二言三言話した後、電話を切って、あいにその内容を伝えました。



「お嬢様、只今、旦那様がお戻りになられたと、他の使用人から連絡がございました」



 それを聞いた途端、あいがテーブルを立とうとしたところで、家政婦はそれを止めました。



「旦那様は、『夕食の後』、書斎に来るようにと、仰っていたそうです」



「でも」



「お行儀がよくありませんよ」



 そう言って、家政婦はあいを再び席に着かせました。



「同じ家に居るのです。急がなくても良いでしょう」



 淡々とそう答える家政婦を、あいは恨めしげに横目で見てぼやきました。



「でも、同じ卓には着けないのね」



「旦那様は、あまりお食事が好きではありませんので」



 あいは、しぶしぶパンをちぎって口の中に放り込みました。





         ◇





 あいがお父さんの書斎に入るのは、本当に久しぶりのことでした。



 あいが記憶しているお父さんの書斎は、白を基調とした簡素な部屋。



 曰く、白とは心を落ち着かせる色。



 また、その部屋には、奇妙なことに、椅子一つしかありませんでした。



 それも、木製の白い椅子です。



 曰く、それが彼が持てるだけの空間。



 少し緊張気味であいが部屋に入ると、そこには黒いスーツの男性が、椅子に座って本を読んでいました。



 その肌は不健康に白く、無造作に長く伸びた髪もあいと同じように、雪のように真っ白です。



 彼は、あいに気づくと、少し驚いたように口を開きました。



「大きくなったね」



 彼こそ、あいのお父さんでした。



 彼は椅子から立ち上がると、あいの前に膝を付き、彼女を抱きしめました。



「会いたかったよ」



「どっちも、真っ先に自分の子どもに言う言葉じゃないわ、パパ」



 あいは、しかし、お父さんに会えた嬉しさを顔に出す前に、素っ気なく返事をしました。



「……なら、なんて言葉が?」



 お父さんは不器用な人で、娘の指摘にどうしたら良いか、訊ねました。



 困惑する彼に対し、あいはふふんと鼻で笑うと、言いました。



「おかえり」



「あぁ……ただいま」



 あいは、今度こそ、満面の笑みで、お父さんを抱きしめ返します。



「不甲斐な父親ですまない。家に居てやれなくて、寂しかっただろう」



「謝らないで。私のためなんでしょう?」



 そう言って父を労るあい。お父さんは、娘の成長に思わず頬を緩ませました。



「そうだ、お土産があるんだ。海の向こうの国の、甘いお菓子だ。好きだろう?」



 お父さんは、椅子の横に置かれた、土産の入った紙袋を取ろうと立ち上がりました。



 しかし、あいは彼のスーツの裾を掴んで、それを止めました。



「ええ、ありがとう。だけど、それよりずっと欲しい物があるの」



「なんだい?何でも言ってくれ」



「私ね、名前が欲しいの」



 その言葉に、お父さんの全身は、一気に石のように固まりました。しかし、あいは続けます。



「今日ね、家の外を歩き回って、色んな人とおしゃべりしたの。でも、誰も私に名前を付けてはくれなかったわ。だから、ねぇパパ、私の名前を呼んでくれないかしら?」



 あいの無垢な瞳が、お父さんの目と会いました。



 見つめ合う内に、彼の顔は段々と、悲痛な面持ちへと変わっていくのでした。



 彼はとっさに俯き、その顔を娘に見られないよう隠して、掠れたような声で言いました。



「……本当に、すまない。私も未だ"知らない"んだよ」






         ◇






「名前を知らないって、どういう事?」



 あいは、怪訝な表情になりお父さんに訊ねました。



「言葉通りだ……すまない、薬を」



 お父さんは、懐から何錠かの薬を取り出すと、それを一気に飲み込みました。



 そうして、心を落ち着かせるように深く呼吸をすると、部屋の真ん中にある椅子に座るのでした。



 あいは酷く弱った父親の姿を心配そうに、ただ見ることしかできませんでした。



「大丈夫?」



 お父さんは呼吸を整えて「ああ」とだけ生返事をして、膝の上に彼女を座らせると、おもむろに話し始めました。



「名前を知っているのは、名前を付けた妻だけだ」



「妻……ママのこと?」



 お父さんが言う通り、あいの名前を決めたのは、お母さんでした。



 しかし、お母さんはもう既に亡くなっています。それは、あいが生まれた日のことでした。



「でも、ママから聞いていなかったの?」



「私と彼女は、名前をずっと悩んでいてね……彼女が、名前の"呼び方"を決めて、そうして私が"書き方"を決めよう。そう約束をしていたんだ」



 彼は、話す内に当時のことを思い出したのか、ところどころ言葉をつまらせながら続けました。



「……だが、出産予定日の数週間前……それまで、健康だったのに」



「事故だって聞いたわ」



 彼は小さく頷きます。あいは父の目に浮かんだ涙をハンカチで拭いました。



「あの日、私は仕事で家を出て、遠くへ行っていたんだ。行かなければよかったのに」



 彼は再び、ぽつぽつと語りました。



「朝、いつものように妻から電話がかかってきた。開口一番、彼女は"名前が決まった"と喜んでいたよ。だが、私が"教えて欲しい"と言うと、彼女は"大事なことだから、直接会って伝えたい"と答えた。だから、その日中に帰って聞くつもりだった」



 そこまで言って、彼はもう一度、深く息を吐いた。



 きっとそれは、彼にとってこの記憶が、思い出したくない心の傷だからでしょう。



「次に彼女に会ったのは、病院だった。彼女は、何度呼んでも、もう起きなかった。もう名前を教えて貰えなかった」



 あいがお父さんの手を握ると、彼は、震える声で言いました。



「お腹に居た"彼女の子ども"が助かったのは、まさに奇蹟で、唯一の希望だった」



 あいはその話を聞いて、少し考えて訊ねました。



「パパが、私の名前を付けるのは?」



 しかし、お父さんは食い気味で「ダメだ」と言い切りました。



「妻が、彼女が決めた名前を無視して、別の名前で呼ぶなど、私にはできない」



 あいは、「何故?」と聞き返したく思いましたが、彼の真っ黒な瞳を見て、思いとどまりました。



 お父さんはまだ、お母さんとの約束を守り続けているのです。彼は不器用な人でした。



「私は、必死に名前を探したよ。だが、彼女は結局それを残せなかったようだ」



「じゃあ、もう、どうしようもないじゃない」



 あいは眉を顰めました。自分に名前が無い理由は分かりましたが、問題はそこではありません。



 あいは、名前が欲しいのです。



 しかし、そんなあいに対しお父さんは、鼻を鳴らして笑いました。



「実は、世界を回っている間、私は名前を見つける"手段"を探していたんだ。そして今日この街に戻ってきたのは、その手段を手に入れる為でもあった」



「手段?」



「そうだ」と頷いて彼は続けました。



「非常に希少で高価な、とある宝石に、"死者を生き返らせる"奇蹟の力が在ると言う……」



 しかし、そこまで言って、彼は唖然としたあいに気付き、恥ずかしそうに咳払いをしました。



「いや、まぁ、私も半信半疑ではあるが……"無い"とは言い切れないだろう?」



 あいのその表情は、決して彼の理解を超えた行動に呆れている訳ではありませんでした。



 しかし、彼はその事には気付いておらず、そのまま話を続けました。



「それで、それを扱う宝石商とさっきまで商談をして居たんだが……断られてしまった。だが、私は諦めない。きっと名前を見つけ出してやるぞ」



「ちょっとまって!」



 あいがそう言ってお父さんの話を止めると、彼は「す、すまない……」ときまり悪そうにうなじを掻きました。



 しかし、彼女はそんな彼には目もくれず、懐から紅い玉を取り出しました。



「それって、これのことでしょ?」



 あいが見せた宝石を目にして、お父さんの目の色が変わりました。



 なぜなら、それこそ彼が求めていた宝石、"紅瞳"だったからです。



 驚きで言葉が出ない彼に、あいは、偶然"紅瞳"を貰ったこと、そして宝石商のD、Eと出会った時のことを話しました。



 お父さんは、嬉しそうに話す彼女の話をじっと静かに聞いていましたが、やがて話が終わると、呟くように言いました。



「明日、汽車に乗って、お母さんのお墓参りに行こうか」



「会いに行くの?」



 あいは、汽車に乗れるなんて楽しそう、と喜びました。



 彼は、あいの顔を見て、微笑み、頷きました。



「あぁ。山と谷を越えて……ずっとずっと向こうだ」


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