第3話 あいは名前が欲しい。
「ほう、お嬢さんは名前を持っていないのですか」
老紳士は机の上の"紅瞳"を鞄に戻し、物珍しそうにあいを見つめました。
「貴方のお父さんやお母さんは?」
ショートケーキの甘さを楽しんでいたあいは、Dに訊ねられると、それを飲み込んで言いました。
「パパは、ずっと忙しくて、もう数年間会っていないわ……ママは、居ない」
あいの答えにDはあわてて口を噤みました。
「いや、弟子が失礼。しかし、家にはお嬢さんが独り、という訳ではなさそうですがな?」
「家政婦さんが居るわ」
「その方々は、お嬢さんの名前を知らないのかね?」
「知らないわ。でも、私を呼ぶ時はアナタとほとんど一緒よ」
あいが不満げに口を曲げた時、喫茶店の鈴がチリンチリンと慌ただしく鳴り、一人の女性が入ってきました。
ツカツカとヒールの音を立てながら歩く彼女は、あい達の座る席の前で立ち止まると、言いました。
「お嬢様」
純白のキャップとエプロン、そしてヴィクトリア調の黒いロングドレス。まさしく"メイド"と言った装いの彼女は、落ち着いた口調で、しかし毅然とした態度で、あいを呼びました。
「あら、なんでこんなところに?」
「それは私の台詞ですわ、お嬢様。誰に断りもなく屋敷を抜け出すなんて」
「言ったら、外出を許してくれるわけじゃないでしょう?」
「当然です」
「なら、言うわけないじゃない」
減らず口をたたくあいに構うこともなく、家政婦は彼女の向かいに座る老紳士にお辞儀をしました。
「すいません。この度はお嬢様がお世話になりまして……」
「いや、むしろお嬢さんにはお礼を言いたいところで」
Eは、微笑みながら家政婦に"紅瞳"の事を簡単に伝え、あいにお礼を言いました。
「私は何もしていないわ?」と戸惑うあいをよそに、彼はおもむろにカップをソーサに置き、帽子を被りました。
「まぁしかし、"家族"の方が迎えに来られたのだ。私達もそろそろ出るとするか……D」
「あ、はい!」
老紳士に呼ばれたDが、伝票を持ってカウンターの方に向かい、老紳士も席を立ちました。
「さよなら。コーヒーとケーキ、ありがとう」
そう言って砂糖でいっぱいのコーヒーを啜るあいに向かって、老紳士は最後に優しく声をかけました。
「紅い瞳は幸せの象徴とも云われております。どうか自分の愛しい名前が、見つかるとよいですな」
そう言って、彼はあいの頭を数回撫でると、店を後にしました。
チリン、と小さな鈴の音。少し遅れて会計を済ませたDが鞄を取りに戻ってきました。
「Dもじゃあね。髪留め、ありがとう」
「いえ!私はいつも公園に居ますから、またいらしてくださいね!」
「ええ。きっとまた行くわ」
Dは明るい笑顔で別れを告げると、老紳士を追うように店を出ました。
彼らの背中を見送りながら、家政婦は少し驚いたような、喜ばしいような顔をしました。
「お嬢様。今日一日、一体何があったのですか?」
コーヒーを飲み干したあいは、ハンカチで口を拭いながら言いました。
「名前を探していたのよ」
「見つかりましたか?」
「いいえ」
あいはソファを降りて、家政婦の手を握りました。
「帰りましょう」
家政婦は、そう言うあいの顔が、いつもより明るいことに気が付きました。
「お嬢様」
「なぁに?」
「楽しかったですか?」
「ええ。もちろん」
◇
あいは小高い丘の上にある大きな屋敷で、家政婦たちと暮らしています。
屋敷の外に出ることは殆どありませんし、学校にも行っていません。
その代わり、家庭教師の先生が色々なことを教えてくれます。
彼女の世界は広くはありませんが、それでも毎日を楽しく過ごしていました。
しかし、あいには一つだけ不満がありました。
あいのお父さんが屋敷に帰って来ないことです。
お父さんはいつも忙しい日を送っていると言うのです。
家政婦や家庭教師は、あいをいつも、"お嬢様"と呼びます。
誰も、彼女の名前を呼びません。
あいには名前がありませんでした。
◇
駅からの家路を歩いている途中、あいは、なんとはなしに家政婦に話しかけました。
「ねぇ。奇蹟って信じる?」
「いきなり、どうしたのですか?」
「いいの。ねぇ、奇蹟を信じるのって、子どもっぽいかしら?」
「そうですね……私は、信じていますよ。奇蹟」
彼女は、少し白んだ南の空を眺めながら、首を傾げました。
「あら、そうなの?アナタ頭が固いから、信じないと思っていたわ」
「怒りますよ?」
「……どうして、奇蹟を信じるの?」
「どうして?……考えたこともありませんですが、そちらの方が、夢があって良さそうではありませんか?」
「それって、信じてるって言えないわよね」
「いえいえ、"無い"とは言っていませんから、信じていますよ」
「屁理屈みたい」
「奇蹟に理屈も何もありませんよ」
そんなとりとめもない話をしながら、やがて二人は、彼女らの屋敷へ帰ってきました。
あい達の住む屋敷を見た者は、誰もがその荘厳な佇まいに感嘆の声を出すでしょう。
かつてこの屋敷は貴族の別荘として建造され、毎夜、大勢の人達で宴会が開かれていたとも言われています。
しかし、今やここにはあいを含めて数人しか住んでおらず、静けさに包まれています。
家政婦が家の扉を開け、玄関のホールへと入ると、奥から別の家政婦が酷く慌てた様子でやって来ました。
「一体どうしたのですか?そんなに急いで」
「先輩、大変、大変です!あの、えと……」
その狼狽ぶりに家政婦も驚きつつ、彼女の背中を撫でて落ち着かせると、やがて彼女はゆっくりと話し始めました。
「実は、旦那様が、帰って来るんですよ!」
「ええっ!?それ、本当!?」
彼女の言葉に一番驚いたのは、他でもないあいでした。
「あ!お嬢様!おかえりなさいませ!」
「あぁ。うん、ただいま……あの、今の話って……」
「そうなんですよ!夕食の時間には帰ってくると、旦那様から、お電話が!」
彼女の言葉で、あいと家政婦は互いに目を合わせました。
「なんとも突然ですが……まぁ、あの方の性格なら、仕方もないでしょうね」
そうため息をついた家政婦でしたが、紅い瞳を輝かせたあいの、紅潮して心躍る様子を見ている内に、自分も嬉しくなるようでした。
"お父さんに会える"。それは、あいにとって、とても嬉しく楽しいことです。
加えてそれは、"自分の名前が見つかる"、という事を意味することが、今のあいには分かったのでした。