4月29日→4月28日
---2024/4/28 23:01---
土曜日の夜、ふと目が覚めた。時計を見れば、まだ日付も変わっていなかったからほとんど眠っていない。妙に目が冴えてしまって、なんだか落ち着かなくて、眠れそうになかった。
「……コンビニでも行くか」
ジャージから、適当な服に着替えて外に出る。若い時は、こんな夜はあてもなくバイクで走っていたこともあったが、さすがに今はそんな気になれない。第一、晩酌して寝た直後だ。息も酒臭いし、運転できない。
バイク仲間だったダチは、俺のことを気遣ってよく声をかけてくれたが、結婚してからは、さすがにその回数も減った。
今日から世間は今年もゴールデンウィークで盛り上がっているが、俺にとっては――満香のことを否が応でも強く考えるから――気分の沈む時期だ。テレビをつければオススメのレジャースポット特集ばかりで、最近はろくにニュースも見ない。どこへ行くにも、満香がいたらという、ifを考えてしまうだけで辛い。
満香が消えて、5年になる。
そして、遥さんに4年待っていてほしいと言われてから――4年が経とうとしている。
あの後、何度か遥さんに直接会って話を聞こうと、満香のアパートに行ったこともある。だがいつ訪ねても遥さんは不在だった。家賃こそ払われているが、ほぼ戻ってくることはない、とアパートの管理人に聞いた。管理人には誰か来たら連絡してほしいと頼んでおいてはいるが、一度も連絡が来たことはない。
満香の手がかりも見つからず、遥さんへの連絡もつかないまま、止まったような時間を過ごし続けている。
点滅する蛍光灯に照らされた、薄暗い階段を下りている時だった。
「……藤代くん」
声をかけられて顔を上げ、俺は息を止める。そこには――
「っ、……遥、さん……」
「……。藤代くんは、今もお姉ちゃんを待ってるんだね」
何でもお見通しだった。
暗い中、俺は、妹の遥さんに、一瞬だけ、満香の面影を見た。
妹と間違えたのかと笑わないでほしい。俺はずっと、ずっと、満香に似た背格好の女性を見るたびに、胸をわしづかみにされるような思いで、そのままナイフで傷付けられて血を抜かれるような思いで、満香を探していた。
「満香に会わせてくれ」
顔を覆い、声を絞り出す。
「うん、そう、そのために来たんだ。藤代くんに、協力して欲しい」
「何だってする! だから……!」
駆け寄った俺に、遥さんは鞄から何かを出した。見覚えのある、赤い手帳。
「今から、アメリカに行こう」
遥さんが出したのは、パスポートだった。
---2024/4/29 06:25---
チケットこそ遥さんが用意してくれていたものの、それから俺は大急ぎで支度をした。
しまいこんでいた自分のパスポートを引っ張り出し、スーツケースに荷物を詰めた。まだ暗い道をタクシーで羽田空港に行き、ATMから下ろしたばかりの金を米ドルへ両替、飛行機に飛び乗って息をついたところで、隣に座る遥さんに文句を言った。
「満香のためなら何でもするとは言ったけど、もう少し前から言っておいてくれ!」
「うん、まあ、ごめん。色々準備があったんだ。それに、ずっと連絡を取ってなかったのも……」
遥さんははあ、とため息をついた。記憶の中の彼女より――そう、年を取ったように見える。当然といえば当然だ。あれから長い時間が経った。満香のいない時間は重苦しかった、待つ時間は長かったけれど、主観や感傷を抜きにしても5年は長い。俺ももう33だ。遥さんから見た俺も、同じだろう。
「連絡を取らなかったのは、藤代くんのことを縛り付けられないと思ったからだよ。もちろん、お姉ちゃんがいなくなったのは、お姉ちゃんのせいじゃない。本当に、事故。だけど……だから、黙って消えてしまった恋人を、藤代くんに何年も待たせてしまうことが本当にいいのか、わからなくて」
「……俺は今でも、満香を忘れてなんかない」
うん、ありがとう、と遥さんは言った。飛行機のエンジン音がごうごう響く。俺はずっと誰にも言えなかった思いを吐き出す。
「俺は、今でも『4月31日』に満香がいるなんて、信じられない。だけど……遥さんは、満香が消えたことで、俺を責めているんだと思って……」
「違う。……連絡を取らなかったもうひとつの理由は、ただ、本当に忙しかったからなんだ。お姉ちゃんを取り戻すために」
「それも、俺にできることがあれば、言って欲しかった。少しでも早く満香を取り戻すためなら、俺は……」
「それも、ありがとう。でもそっちは、気持ちだけ貰っておく」
日本語と英語のアナウンスが入った。アメリカ・ロサンゼルス行の国際便なので当然だが、周りの客はほとんどが連休を海外で過ごす日本からの観光客だ。
「……アメリカに、満香がいるのか?」
「そのうち分かるから。藤代くん、昨日ほとんど寝てないでしょ。私も疲れてるから寝るよ。ロスまで12時間くらいはかかるから、寝ておいた方がいい……」
そう言って遥さんは、すぐに眠ってしまった。
---2024/4/28 10:05---(Las Vegas)
俺は遥さんからこの旅の目的も目的地もよく知らされていない。ただ、満香に会うために必要だと信じて付いてきている。
ロサンゼルスから飛行機を乗り継ぎラスベガスへ。遥さんは英語はお手の物らしく、流暢な英語でさっさと入国審査を済ませてくれた。空港の椅子で、重く痛む頭を抱えている俺に、遥さんはペットボトルの水を渡してくれた。
「ああ、ありがとう……」
「15時間以上、飛行機に乗ってたし、時差ボケもきついでしょうね。今頃日本は、深夜の2時だから」
そう言う遥さんはケロリとしている。飛行機の中でぐっすり寝ていたし、乗り換え待ちの間、空港のロビーでも爆睡していたくらいだ。俺の方は目的地も分からない異国の旅で、たった一人の同行者が寝ている横で眠れるほど、神経は太くない。
「ああ……あと何時間かしたら、会社に電話しないといけないな」
時差の計算があるからややこしい。会社の始業時刻に合わせて電話するなら、こちらの何時に電話しなければいけないのだか、考える。
「ああ、今そこに表示されている時間は、今は夏時間で通常時間とは時差が違うから気を付けてね。ネバダ州と日本の時差は、通常は17時間だけど、今は16時間だから」
俺は考えることを放棄した。今アメリカに来ているから会社には行けませんと、頭のネジが飛んだような連絡を入れるくらいなら、無断欠勤でもそう変わらないだろう。
「で、これからどうするんだ?」
「少し休んだら、レンタカーを借りてくる。ここからは車で移動するから」
「……どこに行くんだ?」
傍目には、俺達は、旅行中の恋人同士か夫婦にしか見えないかもしれない。ここに日本人がいて、近付いて会話を聞いたって、そう判断するだろう。
「そうだね――アメリカには何度か来ているんだけど、一度、行ってみたかったんだよ。グランドキャニオン」
---2024/4/28 17:35---(Arizona)
俺と遥さんは、道路を延々走っていた。といっても、国際免許証なんて持ってない俺は、運転を遥さんに任せきりにしているのだが。 広大な平原だ。どうせなら俺もバイクで走りたかった。――満香と。
「夕焼けには間に合いそうだね」
遥さんはちらっと腕時計を見ながら言った。日本から来た時のまま、日本時間を差している腕時計だが、遥さんにとっては頭の中でこちらの時間に直すことくらいお手の物らしく、そのまま使っている。
俺はそんな器用なことはできなかったので、ロサンゼルスについてすぐ、遥さんに言われるまま、自分のデジタル時計の日付と時刻をこちらのものに合わせた。日付変更線を跨いだのでマイナス1日、そして時差でマイナス16時間。日付変更線を超えれば日付が過去に戻ることは理解しているが、奇妙な感覚だ。
なお、グランドキャニオンのあるアリゾナ州は、ラスベガスのあるネバダ州と1時間時差が存在している――アメリカ国内でも時差があるということ自体、俺は今日遥さんから初めて聞いた――のだが、アリゾナ州はサマータイムを導入していないので、この時期実質時差は存在しないのだという。
複雑すぎる、と俺が言うと、まあ、物事の決まりっていうのは、一部の人間が、自分達の都合のいいように決めたことばかりだから、複雑怪奇なものになるのかもしれないね、と遥さんは言った。
「何だってそう。カレンダーだって人間がやりやすいように、昼と夜を区切って一日にして、それをひとまとめにして月にして、そして都合よく年に収めた。数えやすいように数字をつけた。それだけのものなのに」
「……それだけのもの、か」
赤い大地を、傾きだした日がさらに赤く染める。アクセルを強く踏んで、車はスピードを上げた。
グランドキャニオン国立公園についた時には、既に日が傾き始めていた。
想像を超える、巨岩の数々。赤く照らされて、どこまでも広がっている。俺のつたない言葉では、壮大、としか言い表すことができない。岩肌のあの層は、そのひとつひとつが長い年月によってつくられたものだという。あれには、20億年、という途方もない年月が刻まれている――のだという。そんな人間がいなかった頃の話、どうして分かるのだか。
人間が決めた時間の単位なんて、ほんとうにちっぽけなものだ。
あまりの光景に、俺は言葉も失ったまま、夕陽が地平線の向こうに沈むのを見ていた。
だけど、それでも、俺の隣に並んでいてほしいのは、この景色を一緒にみたいのは、たった一人だ。
横にいた遥さんは、夕暮れだけを見ながら言った。……俺の顔を見ずにいてくれる。
「すごいね」
「……ああ」
「じゃあ、そろそろ戻ろうか。暗くなるしね」
「……。」
シャラリ、と遥さんの手の中で、車のキーが音を立てた。
「さあ、帰ろう、日本へ。――お姉ちゃんに、会いに行こう」
---2024/4/29 19:31---(Las Vegas)
自動車、タクシー、空港、来た道をそのまま引き返し、俺と遥さんは日本行きの飛行機に乗っていた。とんでもない強行軍の旅だ。乗り物に乗りっぱなしで、尻が痛い。
俺は当然、何のためにアメリカに来たんだと遥さんに何度も、それは何度も聞いたが、遥さんは日本に着けばわかる、後で説明する、としか言わなかった。
例によって遥さんは飛行機の中で爆睡してしまい、俺はどうすることもできない。
トイレに行って戻ってくると、遥さんは起きて、コーヒーの紙コップに息を吹きかけていた。姉妹だけど違うところは違うらしい。満香はコーヒーが苦手で、喫茶店では大体お茶かジュースを頼んでいたから。
そんなことを思っていると、遥さんは俺に、唐突に話し始めた。
「前、藤代くんはお姉ちゃんと、台湾に旅行に行ったでしょ」
「ああ……それが?」
実を言うと、今持っているパスポートはその時のために取ったものだった。
「その旅行の計画ね、私が立てたんだよ」
初めて聞く話だった。確かあの旅行は、パックツアーでは満香の都合のいい日程が取れなくて、二人でガイドブックを見ながら計画を立てた後――ごめん、よく考えたらこの旅行計画じゃ無理なの、と満香が当日に修正案を持ってきたんだったか。
「海外旅行の場合、現地の乗り物の時刻表って当然現地時間なのに、お姉ちゃんそのこと忘れて普通に日本時間だけで計画立てるし。指摘したら、時差の計算って日本時間に足すのか引くのか混乱してるし。話聞いたら藤代くんと一緒に計画立てたはずなのに、藤代くんも似たような感じだったらしいし。結構、お姉ちゃんって、変なところうっかりしてるんだけど、藤代くんも似たような感じなんだなあって思ったんだよね」
「……。」
「31日のこともそうだったんだよ。大の月と小の月を、お姉ちゃんなかなか覚えられないし、まあ、曜日についても結構うっかりしてることもあるし」
そう言われてみれば、思い当たる節はあった。
「曜日は、まあ……満香の場合は生活が不規則だから、仕方なかっただろ」
「そうでもないよ。看護師になる前からそうだったし」
そうなのか。
俺は何の意図があって、遥さんがこの話をしたのか分からず、もう一度満香のことについて、尋ねようとした時だった。
機内アナウンスが流れ、到着予定時刻と、外の気温を知らせてくれる。長いフライトだったが、いつの間にか日本に着いていたらしい。
「やっとだね……ほら、時計、戻しておいたら?」
「ああ……ええと……?」
日本からアメリカに来た時は時間を遅らせた。だから今度はその逆で、時間を進めなくてはいけない。寝不足の疲れ切った頭で計算して、時計のネジを回す。
ロサンゼルスで現地時間に合わせた時計は今、4月29日の19時半を差していた。だから、日付変更線を跨いだ分、プラス1日。そして時差を考えて、プラス16時間。19時半に16時間を足すからつまり1日繰り上がって、だから今は日本時間の――
「4月31日、11時半、か」
---2024/4/31 11:31---(Japan)




