《短編シリーズ》博士の事実資料ファイル「幼児化した恋人」
助手は、いつものように研究室の鉄の扉を開けると、普段と違う見慣れぬ異様な光景と違和感におどろき足を止めた。こちらを眺めている助手の存在に気付いた博士は、皺の深い口角を更に深く刻んだ。まるで、助手の反応が思った通りだったという風に。博士は助手にこっちに来いと手招きをし、助手は誘われるがままに扉をしめて近づいた。そしてこの研究所に存在するにしては極めて奇妙で珍しいソレをまじまじと見下ろした。
「一体全体、どうしたのです?」
問いかける助手に対し、博士は椅子に座りながら、悪戯を仕掛けた子供のように笑い答える。
「至極まっとうな質問をありがとう。助手くん」
「誰の子……ですか。まさか、博士の」
そう、博士の腕の中には安らかに目を閉じて寝息を立てる赤ん坊がいたのである。助手は一つの可能性を考えた。ついにベビーシッターのバイトでもし始めたのかと。もしそうならば今すぐ精神病院の扉を叩かなければならない。助手が、複雑そうに表情を歪めていた為、博士は解明の手助けをしようと口を開く。
「いやベビーシッターの仕事などわたしには到底無理だ。自分の世話ですらままならないというのに」
博士に自分の考えを見透かされていた事に、今更驚きはしなかった。だが、すぐにその先の理由を欲さずにはいられなかった。
「だから、僕は余計不思議でならないのですよ、博士」
「まあ、落ち着きたまえ。話してもいいが、君は信じるかね?」
そう問いかけてから、眠った赤ん坊を片腕に抱き支えたまま、もう片方の手で机の上の資料を手に取った。
「これは先月の話だ――」
博士は語り始める。
――その日は至って陽気な午後であった。と言っても太陽とは縁のない研究所に引きこもっているわたしの推測に過ぎないが。新しい研究を進めているのを知っているだろう。‘人間の退化と、それによる精神と肉体の変化’という題材だ。その研究をすればゆくゆくは、認知症の治療などに少しでも貢献できると思ったからだ。まあ、だがそれはもちろん建前である。本当の理由は純粋な好奇心から来るものだ。研究者などほとんど皆そんなものだろう。芸術家や音楽家であってもそれは例外でない。ただし、すべてが自慰行為で終わるのなら意味が無いのだ。
わたしはとりあえず、あらゆる方法で研究を――過去の研究データの分析から導き出す推測など地味な作業を――進めていたのだが、実験材料が無ければ当然効率は悪い。わたしは手をつけ始めたばかりだが、早々行き詰まっていた。
そんな時である。君が研究発表会でイギリスへ飛びしばらく留守にしていた時の出来事だ。突如、天から使いの者が手を差し伸べてきたのである。まず、滅多に来ない来客がわたしの元へ訪れてきた。その女はノックもせずに研究室の扉を開いて入ってきた。歳はおそらく二十四くらいだろう。だがしかし、傷んだブロンドの髪を乱雑に後ろに結いているせいか少々老けて見える。瞳だけはそれに似つかわしくない綺麗なブルーであった。わたしを見て、最初に彼女は驚いた。その理由は、わたしが突然の彼女の訪問に対しても歓迎の意をを表したのと、研究所の実在に、であろう。わたしが、椅子まで誘導すると、彼女は素直に座った。
「突然押しかけた事、お詫び申しあげます」
堅苦しい程丁寧な語調で、そう言い背筋を伸ばしたまま澄ましている。
「何かご用かね。生憎ここには菓子の一つも出やしないが、すまないね」
「いいえ。素敵な場所です。私の名前はラウンドリーと申します。よろしく」
「ああ、よろしく。わたしは――」
「博士は人体実験などを行うそうですね」
自己紹介も聞かずにラウンドリーは、初対面のわたしに対し、いきなり不躾とも捉えられる質問をしてきた。だが、わたしは特に気にせず設問に対して頷いた。
「実際のデータが取れなくては意味が無いからね」
「お願いがあります。私の恋人を実験につかってやくれませんか」
青い瞳を一真にこちらへ向けながら、言った。これが他の場面ならば別の意味で堕ちたのだろうか。その驚く提案に、わたしは疑問を抱いたと同時に興味も抱いた。そうして椅子の背もたれから離れ、膝に両肘をつき顎を支え前のめりになりながら詳しく詳細を聞こうと試みた。
「一体どういう了見だね?」
「彼はこのところ、ずっと精神がおかしいのです」
「精神がおかしいのは君じゃないのか。愛する人を実験材料にしようなど」
彼女は的を得たわたしの意見に笑った。
「彼と出会ったのは一年前です。私と彼は、もともとホームレスの支援活動で知り合って、偶然居合わせた彼とお喋りをし意気投合しました。それから間もなく付き合い出しました。両親に甘やかされて育った彼は世間知らずというか、一人で生活するには不慣れなようでした。それもあって自然な形で、私は彼と住むことになりました。最初は彼の世話をするのが嬉しく、幸せでした。しかし数ヶ月経った頃に彼が段々と奇行をしはじめたのです」
わたしは、彼女の話す内容を興味深げに耳を傾けた。
「それで?」
「はい。それに気づいたのが、台所で彼が一人座り込んで泣きじゃくっていた時です。傍には、床にこぼれた牛乳が。どうやら自分を責めて泣いていたみたいです。私は大丈夫だと彼を赤ん坊のようにあやしました。何だか違和感を抱きました」
「彼は普段から泣き虫なのかね」
「少なくとも、付き合い始めはそんな事ありませんでした。それをきっかけに彼の幼児化は進んでいきます。まるで、私をお母さんのように見、甘えてきます……駄々をこねたり、本当に子供のよう」
「なるほど。明らかに異常だな。精神科にでも行きたまえ」
「精神科は嫌と泣きじゃくります……私も無理矢理連れて行きたくありません。それに、これからもこのまま一緒に暮らしたいのです。ただ、本当に彼の脳の真実を明かしたくて。どうかお願いします」
話し終えた彼女は、感慨深く宙を見つめている。わたしは椅子から立ち上がり、背を向けた。
「ならわたしの言う事をそのまま実行したまえ。これから君は一ヶ月間彼の様子をそっくりノートに記載し、データを取ってくれ。一ヶ月後、もう一度ここに来るのだ」
「分かりました。博士、恩に着ます」
この時のわたしの心情としては、いいタイミングで絶好の実験材料が手に入ったと歓喜していたのが正直なところだ。その日は久々に穏やかな気持ちで就寝する事が出来たくらいに。
一週間が経ち、彼女は再びわたしの元へ訪れた。
「やあ、彼の様子に変化はあったかな」
彼女は、わたしの正面に立ったまま、何か言いづらそうに床下へ視線を預けている。
「相変わらずです……どんどん様態が悪化して、最近では私を見ても欲情すらしない。どうしちゃったの、彼……」
初対面では牽制的な様子だった彼女は、頭を抱えながら感情の赴くまま目から涙を流していた。
「それに、一番おかしいのは、私が彼の排泄物を処理しなくちゃならなくなった事」
「やはり、病院に行った方がいいのではないのかね」
「……」
病院という単語を聞いて、彼女は黙った。
「もう少し様子を見ることにします」
次に顔を上げた時、彼女は乱れた表情ではなく澄ましていた。
一週間。わたしはまた、扉が開いて彼女が訪ねてくるのを待っていた。しかし、扉はいつまでも開く事はなく、それから一週間、また一週間と経ち、もうわたしは貴重な実験材料と結果を諦める準備をした。
だが、その時、ラウンドリーはやって来た。
「お久しぶりです博士」
穏やかで、顔中に笑顔を浮かべる彼女。その腕の中に、小さな赤ん坊が眠っていた。
「久しぶりだね。元気にしていたかい」
わたしは、特に触れず、扉の前の彼女まで近寄り、背中を支えて部屋に招き入れた。
「はい。元気です。彼も――」
「そうか、良かった。その様子だと症状は治ったようだね」
「いえ。治ってません」
彼女は首を振って言った。そうして、デスクの近くの椅子に腰を降ろし、愛しそうに、両腕に抱えている赤ん坊を眺めた。
「彼、こんな姿になってしまったの」
わたしは、驚きのあまり、声が出せなかった。彼女が嘘をついているのだと、それか精神を病んでしまい、赤ん坊を恋人と思い込んでいるのだと思った。だが、その瞳は赤ん坊を熱情的に眺めているではないか。
「私が彼の面倒を見るの。彼はこれで私だけのものになったわ。彼は、私がいないと生きられない。ねぇ、博士、これって神様からの贈り物でしょうか。こんなに、彼をかわいくしてしまうなんて!」
感嘆の声を上げながら、彼女は天を見つめていた。わたしは、何も言えず、彼と思しき赤ん坊にしか目に入らなかった。
「すまないが、信じ難い事だ」
そう、ただ一言、告げて。
幼児化した恋人は、親指を吸いながら笑ってる。
――博士が、話し終えた時、抱いていた赤ん坊は突然に泣き出した。博士は、小刻みに赤ん坊の体を揺らしながら、あやした。
「ごめんください」
すると、背後から大人っぽい女性の声がした。
「あら、ノア。そんなに博士を困らしちゃ駄目じゃない」
女性が、赤ん坊に近付いて声をかけた途端、泣き声はぴたりと止んだ。
「博士、ノアを引き取りに来ました」
「ああ、ありがとう。実に充実した実験データがとれた」
「それは何よりです。さ、行くわよ、ノア」
博士の腕からゆっくりと赤ん坊を抱え上げる。赤ん坊は、幸せそうに、その女性も幸せそうにお互いを見ていた。
「失礼します」
扉が閉じ二人が出ていくと、研究室はいつもの空間に逆戻りした。
博士は、椅子をくるりと回し背中を向けた。
「人体と脳の可能性には驚かされるばかりだ。それとも本当に神の悪戯か。いや、二人が幸せならばいいだろう。それが、偏執的な欲望と愛情であれ、そう――潜在的に互いが望んだ事なのだよ」
助手は、未だその場に突っ立ったまま、一連の出来事を把握できずにいた。
「彼が、新たな人生を送ることを願っているよ」
博士の口から零れた言葉の音色は、普段と変わらず規則的であった。




