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 一度姿を消した月は新しく生まれ変わり、再び夜の空に浮かぶ。一日ずつ歳を取り、そして数日前に見たものと近い姿になった。

 その日の早朝、アシェリアは小屋の外で同族の訪れを待っていた。突き刺すような冷たい風が頬を撫で、木々の葉をいくつか散らす。空の端が濃紺から紺碧、そして白へと変わる狭間の時間。近付くのは間違いなく大切な彼の気配だった。

「クラディウス様」

 小さく呼びかけると、彼は穏やかに微笑んだ。

「嬉しいですね、アシェリア。私を待っていたのですか?」

「ええ。どうしてもお礼を言いたくて」

 彼が置いて行った紫色の小花は全てアシェリアの部屋の花瓶に飾られていた。有限の世界に連れてこられても変わらずに咲き誇る花は、揺るがない決意をアシェリアに与えてくれる。けれどクラディウスは小さく首を振った。

「礼などいりませんよ、私がそうしたかったのですから。私を忘れないで欲しい、あなたに過去ではなくこれからを見て欲しい、……私はその思いを伝えたかっただけです」

 伸びてきた指がアシェリアの頬を撫ぜた。

「あなたはまだ幼い。過去に捕らわれるにはまだ早いのですから」

 目を閉じて叔父の指が頬に触れるのを感じていたアシェリアは、そっと自分の手を持ち上げてクラディウスの手に重ねた。

「私はクラディウス様に言われるまで、シリウスの記憶に捕らわれていたことに気付きませんでした。確かに私は彼を愛していた。愛した記憶が忘れられなかった。ですが、それももう過去の話。……今日で、終わりにしようと思うのです」

「それでは」

 問いかける視線に、アシェリアははっきりと頷いた。

「ロワとユンにも、ここを出る用意はさせました。あとは私だけです」

 過去の記憶から踏み出す覚悟を。これからを見つめる勇気を。

 アシェリアの意志を感じとったのか、クラディウスは小さく頷くと手にした一輪の小花に唇を寄せた。

「『あなたの向かう先に、光を。私の心は、あなたと共に』」

 受け取った小花を朝日が照らし、そよ風が花弁を揺らした。

「『あなたの心が、私の光』。祝福に、感謝いたします」

 アシェリアも紫の花弁に口付けをし、そして微笑んだ。目を細めたクラディウスは手を伸ばしてアシェリアの指先を包み、反対の手で金に染まり始めたアシェリアの髪をすくいあげた。

「待っています、アシェリア。……いつまででも」

 髪への口付けと共に落とされた言葉は、確かにアシェリアの胸にとくりと響いた。

 この時、彼の目にこれから先がどう見えていたのか、アシェリアがそれを知るのは長い時間が過ぎてからだった。






 何千年と繰り返してきたように、日が沈めば夜がやってくる。

 アシェリーは部屋の窓から空を見上げていた。夜の闇に染まった空。空気はどこか湿り気を帯び、時々強く吹く風はざわざわと木々の枝を揺らす。

 落ち着かない夜だった。迫る暗雲の音が聞こえるようだった。けれど見上げた月はいつもと変わらない。その光を浴びて、昼間は柔らかな金に輝くアシェリーの髪は澄み切った銀に染まる。中天に近付いた光源は冴え冴えと夜空にその存在を示し、アシェリーを見下ろしていた。

 ―――どれほどの時を越えようと、この光は変わらない。この世の始まりから、全てを見てきた存在だ。手を差し伸べるわけでもなく、ただ傍観するだけの存在。

 本来なら、エルフという永遠の生を持った種族の一人であるアシェリーもそうあるべきなのだろう。実際、他種族に何ら興味を持たないのがエルフだし、自分たちの世界からほとんど出てこないのが普通だった。その理由は一つ、無限の存在であるエルフは、有限の生物と深く関わることで生まれる虚無を何より恐れているから。心に巣食った虚無に、自身の生を悲嘆して自ら命を絶ったエルフは少なくない。

 その恐怖と仲間の制止を振り切ってまで、アシェリーが有限の世界に出てきた理由はどこへ行ったのか。あの時の自分の心はもうどこにも見当たらない。引き替えに、積もり重なったこの世界の記憶たち。あふれそうなそれらは重いほどだ。

「潮時、ですよね……」

 ぽつり、こぼれた言葉を肯定するように、月が輝きを増した気がした。

 不意に隣室から物音がして、アシェリーは現実に引き戻されたようにくすりと笑い声を漏らした。能面のようだった顔に感情が宿る。隣室から、二人分の足音。これで音をたてないようにしているつもりなのだろうが、エルフの聡い耳には筒抜けだ。

 すぐにそっと扉が開いて、ひょこりと二人分の頭が覗いた。目が合うと、赤い四つの瞳が大きく開かれる。

「アシェリーが起きてる」

「アシェリー、眠らないの?」

「私はエルフですから、本当なら眠りなんて必要ありませんよ。明日は早いのだから、二人の方が眠らなくては」

 おいでと言うと、双子は何のためらいも見せずに駆け寄ってきた。ベッドに上らせると、間に一人分を空けてアシェリーを見上げてくる。ユンの手はアシェリーの服をしっかりと握っていた。仕方ない、とアシェリーは心の中でため息をついた。

「ここの木々の囁きも今夜で最後だと思うと寂しくて。ですから、二人は先に眠っておいで」

「嫌だ」

「一緒に寝るわ」

「だめです」

 二人の両目を手のひらで覆い、失われた古の言葉で語りかける。しばらく抵抗するようにもぞもぞと動いていた二人だったが、ユンの手が握っていたアシェリーの服から滑り落ちる頃になると、聞こえてきたのは落ち着いた寝息だった。ベッドからはみ出したユンの手を丁寧に掛け布の中にしまって、アシェリーは二人の髪をそっと撫でた。

「『眠っておいで、深く深く。ここに眠りを妨げるものは何もない。何物にも、妨げさせはしないから。眠っておいで、深く深く』。……おやすみ、よい夢を」

 囁いて、アシェリーは身を翻した。向かう先は森の外、人間たちの暮らす町だった。

 木々の間をすり抜け、土を蹴る。夜風を切って走るアシェリーの長い耳には、吸血鬼たちが同じように闇を駆ける音が聞こえるようだった。湿気のせいで重たい空気は始まる戦いの前触れのようで。どこからともなく現れた雨雲は月を隠しそうで。

「……本当に、落ち着かない夜ですね」

 小さく呟いて、アシェリーは地を蹴る足に力を込めた。

 速度を落とすことなく駆け続け、間もなくたどり着いたのは軍の人間たちが駐屯している町だった。

 小さな町だが国境に近いため、町の後ろには切り立った崖がそびえ、両脇は丘陵になっていた。平地に面しているのは正面の中央門だけで、それなりに堅牢な塀が町の周囲を囲っている。罪人探しと言いながら、実際は町を守る役目も担っているのだろう。王都の軍隊である第三師団の部隊は、中央門の傍に天幕を張っていた。夜はずいぶんと更けていたが、見張りの兵は数人が気を張り詰めたままに野営地を回っていた。

 そっと近付いたアシェリーは、野営地から少し離れたまばらに木の立つ丘陵の方に人の気配を感じた。アシェリーたちが暮らす森から続くその丘陵には、柔らかに地を覆う草の所々からごつごつとした白い岩が頭を出していたが、中でも頂上のそれは一際大きい。感じた気配はそこにあった。

 ―――つまり、そういうことなのだろう。

 草を踏みしめて丘陵を登ったアシェリーを出迎えるように、大きな岩に背を預ける人間の男がいた。

 顔が見えなかったこともあり、一瞬覚えた既視感。石壁にもたれて腕を組み、緑の瞳を細めて偉そうに笑った男が脳裏に浮かんだ。けれど空に浮かぶのはあの日の満月ではなく、目の前にいるのはどうしたって彼ではなかった。

 冷えた目でアシェリーを見つめる男。覚えているのは「はやくおいつくからね」と大きな目で見上げてきた姿だ。身体に似合わない大きな剣を必死で振り回していた姿も覚えている。けれど今や見た目の年齢はアシェリーを追い越し、腰にささる剣は小さく見えるほどだ。

「おやおや、見ないうちにまたずいぶんと大きくなりましたね」

 見た目では彼より幼いアシェリーが言うにはおかしな言葉だったが、思わず口にしていた。彼はそれに不快気に眉を寄せたが、気にすることなくアシェリーは言葉を続ける。

「最後に見た時はまだこんなに小さくて」

 ふふ、とアシェリーは笑った。

「私が国を出る時も、行かないでなんて言って泣きながら追いかけて来たのを覚えていますが」

「黙れ」

 瞬間、抜かれた剣が月の光にきらめきながらアシェリーを狙った。それを一歩後ろに下がって避け、なおも言葉を続ける。

「本当に、人間は成長がはやいものです。私が連れて行った双子の吸血鬼を覚えています?あの時はあなたたちと同じくらいの歳に見えましたが、今では、ねえ。下手をしたら親子ですか」

 次々に繰り出される剣先を避けていると、焦れたのか男の緑色の目に激しい感情が揺らめいた。

「このっ、裏切り者が!!」

「変わりませんね。いくら歳を取っても」

 力を込めて振り抜かれた剣をかわし、アシェリアは男の持つ手を蹴り飛ばした。重い音がして、次には剣が宙を舞う。

「戦いの最中に熱くなっては駄目だと何度も言ったはずですが、忘れてしまったので……」

 最後まで言うことはできなかった。自身に向けて放たれたものを感じて、アシェリーは瞬発的にその場から飛びのいた。目の前で紅蓮の炎が地を舐め、草を焼き尽くす。業火は夜の闇を払うように弾け、すぐに消えた。ぱちりと目を瞬かせてから、アシェリーは再び笑った。

「あなたもずいぶんと成長しましたね。まあ、私の記憶は指先くらいの炎の制御に失敗して、髪を焦がしていたところで止まっているのですが」

「そりゃあ成長しますよ。あれから何年経ったと思ってるんです?」

 岩陰から姿を現したのは薄茶色の髪をした柔和な顔立ちの男だった。手には杖を持ち、コートの下には彼が魔法使いであることを示すローブを身に付けている。

「お久しぶりです、アシェリー様」

「ええ、本当に。立派な使い手になれたようですね。……もちろんあなたも」

 仏頂面で手をさすりながら剣を鞘に戻していた騎士の男に視線を向けると、無言の睨みが返ってくる。ふと彼が身に付けるコートを見て、アシェリーは思わず目を細めた。ためらいなく投げ捨てた、その記憶がよみがえる。

「懐かしいですね、そのコート。……ああ、けれどまだ師団長ではないのですか。実力は見合っていますから、身分の差というところでしょうか」

 答えは無かった。かわりに返事をしたのは魔法使いの男だった。

「その通りですよ、アシェリー様。彼より年下の貴族の男が、今第三師団の団長なんです」

「なるほど」

 二十五年前も分からなかったが、今でも理解できなかった。身分の差というが、アシェリーにとって人間は人間で、具体的に何の差なのか分からない。ただ、彼らがそれをとても大切にしていることは知っていた。

 頷いたアシェリーに、魔法使いの男は一歩近付いた。柔和な印象はなりを潜め、真剣な瞳がアシェリーを見据える。数十年前、「ずっと一緒」だとアシェリーに真面目な顔で言った面影は、間違いなく残っていた。彼は静かに言った。

「アシェリー様。近く吸血鬼との戦が始まろうとしています」

「ええ」

「その戦に勝つために、軍の人間はあなたの智を、力を欲している。……王は、あなたを捕えた者に貴族の位を与えると仰っています」

 気付けば、騎士の男もアシェリーを見ていた。二人の視線を同時に受けながら、アシェリーはゆっくりと頷いた。

「それで?まさかあなたたちが、貴族になりたいがために私を捕えたいなどとは言うはずがありませんよね」

「馬鹿を言うな。俺たちがお前を探し始めたのはここ最近の話ではない。お前が国を裏切ったその時からずっとだ」

 目つきを険しくさせて吐き出すように言った騎士の男に、魔法使いの男も同調した。

「彼の言う通りです。僕たちはこの二十五年、ずっとあなたを探し続けてきました。そしてここにきてやっと、あなたがこの森にいることを知ったんです」

「貴族の位などどうでもいい」

「あなたが戻ってきて下さるのならそれでいいんです」

 ですから、と魔法使いの男は言葉を続けた。

「貴族の位のかわりに、アシェリー様の望むことは何でも王にお願いして叶えます。双子の吸血鬼の助命でも構いません。どうか、僕たちに捕えられて下さいませんか」

 真っ直ぐな視線と口調に、アシェリーは目を逸らして長く息を吐いた。

「戻って来いと言われた時の返答は考えていませんでしたね。てっきり、命を奪うつもりで私たちを追っていると思っていましたから」

「数年前まではそうでしたよ。裏切り者の罪人として、僕たちもあなたを殺すつもりでした。でも今となっては事情が違う。もっとも、今でもあの双子の吸血鬼は殺したいほどですが」

 目を細めて笑った顔は、思い出すまでもなく記憶の中の彼とそっくりだった。

「……いつの間にそんな顔ができるようになったのやら」

「あなたが僕たちを捨てた時から、ですよ」

 何でもないことのように答えた魔法使いの男の言葉にかぶせるように、騎士の男が口を開いた。

「お前が国を裏切って出て行ったと知った時は、ただ呆然とするだけだった。だが同時に怒りを覚えた。なぜ俺を捨てたのかと」

「僕は生まれて初めて殺意を覚えましたよ。地の果てまでも追いかけて、あなたが手を取った吸血鬼をあなたの目の前で殺し、僕を捨てたことを後悔させてやる、そう思いました。でもそれももういいんです。あなたが戻って下さるのなら」

 ざわざわと草木が揺れ、一瞬だけ雲が月を覆った。けれどまたすぐに現れた月に急かされる。

「……そう、私はあの時、人間の国を、あなたたちを裏切って双子の手を取った。あなたたちが思うように、私は人間という種族に愛想を尽かして捨てた、私自身も確かにそのつもりでした。けれどね、同族に言われましたよ。私は、まだ私が知らないところで人間を見放せずにいると」

 ふ、とアシェリーは微笑んだ。

「ですから、その迷いを断ち切るためにも今日はあなたたちに会いに来たのです」

 どことなく縋るような視線。

 忘れもしなかった二人の名前を順番に口にすれば、数十年前と変わらない光が一瞬だけ彼らの目によみがえった。しかしそれも、アシェリーが続けた言葉によってすぐに霧散した。

「先程の申し出、受け入れることはできません」

 ぴん、と空気が張りつめた。

 二人して同時に視線を逸らしたが、沈黙のまま剣の柄に手を伸ばした騎士の男とは別に、魔法使いの青年はため息をつくと低く言った。

「……あなたを縛る鎖は用意しています。どうか、穏便に」

「あなた方に何を言われようと、答えはいいえです」

「どうしてもですか」

「ええ、どうしても」

「残念です」

 吐息と共にこぼれた一言が終わるよりも早く、揺らめく炎と斬撃がアシェリーを襲った。先程のものとは比べ物にならない勢いを持ったそれらを危なげなくかわしながら、アシェリーは耳を澄ませた。―――地を駆ける蹄の音はまだ聞こえない。

 視線を上げれば、分厚い雲によって今度こそ月が隠されようとしていた。と、魔法使いの男から放たれた炎が黒いはずの雲を赤く染める。

「どこを見ているんですか、アシェリー様」

「いえ、懐かしいと思いましてね。昔もあなたたち二人を相手にしたことがあったな、と」

「ああ、確かに懐かしい。あの時は、こんな時間がずっと続くのだと無条件に信じていました」

 襲いかかる炎を避けた先には、鋭い剣先が待ち受けていた。避けることはできないと悟って、アシェリーは腰の剣を抜く。鋭い音をたてて剣と剣がぶつかりあった。

「あの時は、お前に剣を抜かせることもできなかった」

「そうでした。むきになっていましたね、二人とも」

 弾き返すと同時に後方へ跳躍し、アシェリーは抜いたばかりの長剣を鞘に戻した。何かが来る、そう思った時には紡がれた言葉がアシェリーに絡みつこうとしていた。それが魔法使いの用いる呪詞だと悟って、アシェリーはわざと腕を差し出した。餌を見つけたように火の粉を散らせながら勢いよく纏わりつくそれをまじまじと見つめて、アシェリーは確かに鎖だと納得する。

「なるほど。《炎の精霊(イグニス=ゲニエ)》に認められましたか。大したものです。けれど、この呪詞を紡ぐには相手の真名を知らなければいけないはずですが」

「あなたのことはこの二十五年の間に調べさせていただきましたから」

「それはまた。……驚いたでしょう?私があの伝説の「紫水」だとは」

 私自身が驚きましたからね、とアシェリーは軽やかな笑い声を漏らした。

「いつの間にかシリウスと一緒に伝説の存在になっていたと知った時の驚きと言ったら」

 シリウス。

 アシェリーが口にする彼の名には、隠しようがない親愛がこもっていて、二人の男は同時に小さく肩を揺らした。

「伝説では、紫水の君は建国王と共に永遠の国に旅立った、そうなっているはずだ」

「ええ、僕もこの術がかかるまでは半信半疑でした。ですが、本当に、そうなのですね、アシェリー様。いえ……アシェリア様」

 その時アシェリーを襲ったのは、確かな怒りだった。

「……あなたがその名を呼ぶことを、許した覚えはありませんよ」

 炎の鎖に捕らわれていながら、それを微塵も感じさせない冷えた声だった。

「私が真名を預けた人間は彼だけ。以前にも以後にも私が彼以外に真名を預けることはない」

 いくら姿形が似ていようと、彼らはシリウスではない。アシェリーは自嘲した。

 ―――なぜ、昔の自分は彼らをシリウスと重ねて見ていたのか。彼らが(シリウス)であることなど、あり得るはずがないのに。

 アシェリーは二人の人間を見た。炎の鎖が生気を奪うものと知っていたが、それでも口を開くことをためらわなかった。

「私がシリウスを唯一の伴侶としていたのなら、私が今ここにいることはなかったでしょうね。とうの昔に命を絶ち、あなたたちとまみえることもなかったはず。けれど私はシリウスを愛していながら、愛することから逃げました。彼の死を受け入れることができずに、私は彼の面影を求めて放浪した。やがて彼の作った国に戻ってみれば、人間たちは変わらず有限の生を懸命に生きていました」

 アシェリーは幼かった二人を脳裏に浮かべた。

「あなたたちを見た時は驚きましたよ。本当に、シリウスにそっくりで」

 二人の顔が歪む。

「私はいまだにシリウスの死を受け入れていませんでした。そしてあなたたちを彼と重ねた。いつまでも彼の死から逃げ続けた。……そう、それが私の弱さであり、愚かさだ」

 ―――ですから、それを断ち切るためにあなたたちに会いに来た。そういうことです。

 いつかと同じようだった。意志を宿した瞳は真っ直ぐに。清々しい笑みを唇に刷いて。

 けれど、そうして放った言葉は彼らには届かなかった。うつむいた魔法使いの男は、顔を上げないままに呟いた。

「たとえ、……たとえあなたが、僕たちに建国王を重ねていたとしても、それでもあなたを見逃すことなどできるはずがない」

 ふとアシェリーはここにいるはずのない気配が近付くのを感じた。眉をひそめるのと同時に、感情が抜けた淡々とした声が響く。

「お分かりでしょうが、アシェリー様、その鎖はあなたの生気を奪うものです。このまま気を失ったあなたを無理やり王都へ連れて行くこともできる。けれどあなたが嫌がることをしたくはありません。どうかもう一度、考え直して下さいませんか」

「何度繰り返そうが変わりませんよ」

「……あなたを縛る鎖は一つではないと、そう言ってもですか」

 月さえ埋めた闇色の空をそのまま映したような瞳がアシェリーを見ていた。ぽたり、耐えかねたような涙が空から降ってきた。そして雨の向こうから現れた大きな影。見覚えのある姿が闇に浮かぶ。理解して、なるほどとアシェリーは思わず呟いた。

「それが悪あがきですか、ディーン」

「その通りだよ、アシェリー」

 困った顔をした熊の獣人が抱えていたのは縛られて身動きのできない双子の吸血鬼だった。

「簡単だったよ。見張りの僕がいないなら、きっとどうにかしてこの二人が君を追いかけないようにすると思ったからね。想像通り、二人ともぐっすり眠っていた」

 古の言葉で暗示をかけたのは間違いなくアシェリーだった。確かに、深く眠る二人を縛り上げて連れてくるのは簡単だっただろう。

「それで?あなたは人間側についたと、そういうことですか」

 眉を寄せたまま頬を掻いて、やがて小さく彼は頷いた。

「……いつか僕も君に捨てられるのなら、その未来を受け入れたくなかったんだよ。人間たちが君を引き止められたのなら、彼らの味方に付いた僕も君の傍で生きられると思った」

「だから双子を?」

「そう。格好の取引材料だろう?君が二人をどれだけ大切に思っているかは知っているからね」

 静かに降る雨の中、ディーンは悲しげに笑った。その顔を見ながら、アシェリーは心の中で呟いた。―――憎たらしい、かわいくないと言いながら、あなたが双子を大切に思っていたことも知っていますよ。

 彼が後ろめたさを感じていないはずがないことは、はっきりしていた。

 かさりと音をたてて、二人の人間が地面に転がされた双子の元へと近付く。

「アシェリー様。今この場で二人の命を奪うと言っても、まだ頷いてはいただけませんか」

「……分かっているでしょう。あなたたちの世界もあなたたちも、もう私を必要としてはいません。それは双子をこの場に引きずり出したとて変わりありませんよ」

 何かが擦れる音がしてそちらを見れば、騎士の男が剣を抜いていた。その切っ先が地面に転がされた双子の首元に伸ばされる。魔法使いの男も手に持った杖を双子に向けていた。

「彼らには悪いですが、ためらいなく殺せるほどの憎しみは今でも持っていますよ、僕たちは」

「馬鹿なことを」

「答えて下さい、アシェリー様。戻って下さいますね」

 急かされるようにもう一度名を呼ばれる。息を長く吐いて顔を上げたアシェリーの瞳には諦めの色があった。

「先程言いましたね。私があなたたちと共に王都へ行けば、その二人の助命を王へ願うこともできると」

「ええ」

 しっかりと頷く二人の人間に一度目を閉じたアシェリーは、もう一度息を吐いた。口元にうっすらと笑みが浮かぶ。

「ああ、思っていた以上です。これほどまでに私は二人が大切だったとは」

 独り言のように呟かれた言葉。開かれたアシェリーの瞳は闇の中でも紫炎を灯してきらめいた。

「人間の王などに守られずとも、私は私の力でその子たちを守りますよ」

 真名を呼ばれた時以上の怒りだった。それは大切なものに手を出された怒りだ。

 常よりも重く感じたが、それでもアシェリーは持ち上げた腕で力強く鎖を切り捨てた。

「いくら炎の精霊に認められても、所詮は人間の力。始祖の血を引く私を縛る鎖になろうはずもない」

 少しよろめいた足にずいぶんと生気を吸い取られたことを感じたが、次の瞬間にはアシェリーは草原を蹴っていた。目にもとまらぬ速さで騎士の男の懐に入り込み、剣を握る手を叩き落す。振り返りざまに魔法使いの男に足払いをかけ、諦めずに素手で殴りかかってきた騎士の男の腹に膝をのめり込ませた。

 呻き声と共に地面に崩れ落ちた人間たちを一瞥してから、アシェリーは熊の獣人へと視線を移した。何もかも分かっていたというような、諦めたような、どことなく悲しげな笑みが返ってくる。それからも視線を逸らして、アシェリーは地面に転がされた双子の傍に膝をついた。

「手加減はしましたよ」

 縛られた縄をほどきながら後方の人間たちに言葉を投げかけたが、返事はない。黙々と手を動かして、最後にアシェリーはロワとユンの前髪を払った。ディーンは双子を縛りはしたものの雑に運ぶことはしなかったようだった。怪我の一つもない様子に一挙に安心が襲ってきて、アシェリーは脱力した。聞こえるのは静かな寝息で、小雨が降りかかっても二人は目覚めるそぶりを見せない。どうやら力の加減を間違えたらしいと苦笑した。

「もう少し、そのままで」

 耳元に囁き、そっと二人を撫でて立ち上がったアシェリーは、背筋を伸ばして振り返った。それぞれに何とか立ち上がった二人の人間は、熊の獣人とそっくりの顔をしていた。

 ―――何もかも分かっていたというような。諦めたような。

 強さを増した雨の中、二人の元へアシェリーは近付いた。見下ろしていたはずの二人の少年は見上げる高さに成長している。震える声で先に口を開いたのは魔法使いの男だった。

「……今も昔も、やっぱり僕たちがあなたを引き止めることはできないんだ」

「もう、私を引き止める必要がありませんよ。今のあなたたちには」

「いいえ、アシェリー様。僕たちにはあなたが必要だ。本当は、人間も吸血鬼もどうでもいい。あなたさえいれば、それが僕たちの生きる意味です」

 今にも泣きだしそうな瞳に、アシェリーは目を逸らしたい衝動を耐えた。逸らしてはいけない。目の前に立つ二人が、過去の自分の愚かさを物語っていた。

「あなたたちがシリウスであるはずがない。……分かりきったことなのに、私は知ろうとしなかった。愚かですね。その結果、こうしてあなたたちを私に縛り付けてしまったのですから」

「……違うっ」

 喉のちぎれるような叫びと一緒に、揺れる瞳が激しい感情を伴ってアシェリーを見下ろした。

「俺が、俺たちが、お前と共に生きたいと望んだんだっ!幼かったあの頃に!」

「あなたに縛られたわけではない!縛られたのだとしたら、僕たちが自分で縛られることを望んだんだ!お願いですアシェリー様、あなたが僕たちの傍にいてくれるならそれでいい。それだけでいいんです!」

 彼らの言葉に歯を噛みしめ、アシェリーは首を振った。まだ間に合う。どれほど痛くても、過去の愚かさの代償を支払う道はまだ消えていない。

「あなたたちにも本当は見えているはずです。あなたたちの世界もあなたたちも、もう私を必要としてはいない。あなたたちの進む道と私の進む道が重なることは、もうありませんよ」

 その時、アシェリーの耳に待ちに待った蹄の音が届いた。それは、情報を携えて街道を疾駆する馬の足音だ。

 顔を上げ、アシェリーは人間たちを見た。

「時が迫っています。私は幼いあなたたちに剣の持ち方を教え、精霊と対話する方法を教え、歴史を教え、世界を教えました。けれど世界に対して盲目になることを教えた覚えはない。そうですね?」

 にわかに丘陵のふもと、部隊の野営地が騒がしくなった。それに気付いたのか、二人の男の顔に困惑が浮かぶ。次に聞こえてきたのは、隊長を呼ぶ騎士たちの声だった。

「アシェリー様、あなたは一体何を……」

「私は何もしていませんよ。始まっただけです、長い間くすぶり続けてきた火種が燃え上がった」

 丘陵を駆け上がる足音がして、やがて一人の若い騎士が息を切らせながら姿を見せた。

「隊長、ここにおられ……」

 不自然に途切れたのは、彼がアシェリーを目にしたからだった。固まった青年は、アシェリーを見て、転がった双子を見て、そしてやっと騎士の男に戻った。

「何があった」

 聞かれてやっと、我に返ったように青年は口を開いた。

「あ、えっと、国境沿いの村が吸血鬼に襲われていると、早馬が……」

 騎士の男の目がアシェリーを捕え、アシェリーはそれに応えるように頷いた。

「あなたたちにはあなたたちを必要とする世界がある、そういうことです」

 手を伸ばし、そっと二人の頬に触れた。

「あなたたちが私に捕らわれていい人間でないことは知っています。これから何をすべきか、分かっているでしょう?」

 唇を噛み、拳を握りしめた彼らに囁いた。

「私は見ています、あなたたちの生き様を」

 離されたアシェリーの手を、大きな手が引き止めるように強く掴んだ。それを、目を細めて見つめる。―――あの日アシェリーにすがりついた小さかったはずの手は、これほどまでに大きくなった。これからこの手に握られるものは、もうアシェリーの手ではない。

 それぞれの手を順に両手で包み、額に当てる。こぼれた言葉は止められなかった。

「きっと私は、あなたたちがシリウスに似ていようといまいと、あなたたちを大切に思ったでしょうね」

 打ち消すように、アシェリーは微笑んだ。

「―――さあ、これでお別れです。『あなたたちの向かう先に、光を』」

 泣き出しそうな歪んだ顔で震えていた彼らも、やがて顔を上げた。

「本当は分かっていた。次にお前に会う時が、永遠の別れの時だと」

 一度目を閉じてから、騎士の男はそれでもと強い言葉を放った。

「これからどれほど時が経とうと、お前の記憶だけは誰にもやるものか」

 魔法使いの男は傲慢な笑みを浮かべた。

「だからアシェリー様、あなたも僕たちの記憶を抱えて生きて下さい、永遠に」

 今度はアシェリーが泣きだしそうな顔をする番だった。

「ええ、言われずとも」

 そして二人の人間は心の底から嬉しそうな顔で笑った。

 背を向けた騎士の男の視線が熊の獣人へと向かう。

「お前はこれからどうする気だ」

 問われて、ディーンはアシェリーの見慣れたどことなく裏のある笑顔で答えた。

「君たちを追いかけるよ。まあ、アシェリーに祝福を貰ってからだけどね。だって君たちだけだなんてずるいだろう」

「そうか」

「では先に行っていますよ」

 仏頂面に戻った騎士の男と、肩をすくめた魔法使いの男のその言葉を最後にして、彼らは雨の中アシェリーを残して丘陵を駆け下って行った。その背を見つめながらアシェリーは、枷から逃れた彼らが向かう先には確かな光があると確信した。

「……終わりましたね」

「うん、終わった」

 アシェリーの言葉に律儀に返事をして、ディーンは両手を組んで伸びをした。その姿を横目で見て、迷いながらもアシェリーは口を開いた。

「……この前のあの夜が、あなたとの最後でなくて良かった」

「僕だって嫌だよ、それは。うん、でも確かに、こうやってまた君と話せて良かった」

 ―――邪魔する双子もいないしね。

 いまだにすやすやと眠っている双子を、熊の獣人はそっと指でつついた。

「うわ、本当に起きないね」

「……力を使うのが久しぶりで、加減を間違えました」

 小さく噴き出したディーンだったが、一転して真剣な目つきになった。

「ちゃんと起きるよね」

「当たり前です。私が起こすこともできますが、日が昇れば嫌でも目覚めますよ」

「それは良かった」

 安心したように彼は頷いて、そして沈黙が落ちた。頭上では重苦しい雲が空を覆っていて、まだ当分雨が止まないことを示している。髪も服も濡れそぼっていたが、どうかしようという気は起きなかった。雨の向こうから人間たちのざわめきが遠く聞こえた。

「本当に、彼らについて行く気ですか」

 アシェリーの問いに、何でもないことのようにディーンはうんと返事をした。

「この数日間彼らと一緒に過ごして、おもしろいと思ったよ。彼らがこれからどう生きるか、近くで見てみたい」

「そうですか」

 アシェリーに引き止めることはできなかったし、彼もそれを望んではいなかった。

 目を合わさず、同じように雨空を眺めていたが、アシェリーは彼の視線が自分へ向くのを感じた。雨はやまない。それでも、闇の端がぼんやりと白んでいるのが見えていた。

「アシェリー。今度こそお別れだ」

「ええ」

 ためらいがちに伸ばされた手を包み、額に当てる。

「『あなたの向かう先に光りを』。ディーン、あなたの幸せを願っています」

 ありがとう、小さく呟いた獣人は、寂しげな光を瞳に宿した。

「今までは、君と、君たちと過ごすことが僕の幸せだった。だけどそれももう終わった。人間たちのことがあろうとなかろうと、この幸せに終わりが近付いていたことはずっと分かってたよ。僕らは、永遠を持たないからね」

 今度は逆に手を引き寄せられ、アシェリーは指先に震える吐息を感じた。

「だからこそ、永遠を持つ君の中で生きていたいと思うんだ。君の中で永遠を。……アシェリー、僕のことを忘れないで」

「っ、まったく、誰もかれもが私に記憶を押し付けるんですから」

 精一杯の強がりだった。こぼれそうな涙を抑えて、アシェリーは笑って見せた。

「忘れません、忘れるはずがありませんよ、ディーン」

「そっか。……嬉しいよ」

 指先に感じた熱。

 一瞬彼の瞳に浮かんだ炎は、けれどすぐに霧散した。アシェリーの手を離し、ディーンは空を見上げた。

「もうすぐ日の出だろうし、そろそろ行こうかな。ああ、今夜は月が見えないのが悔やまれるよ」

 いつもの小屋を出る時の調子で、彼はそう言った。けれどぼそりと言葉を続ける。

「君に捨てられる前に、君を捨てることも考えた。でもやっぱり、君に見送られるのが一番いい」

 アシェリーに背を向けてから、ディーンは顔だけ振り返った。

「行ってくるよ、アシェリー。……双子をよろしく」

「ええ。行ってらっしゃい、ディーン。気を付けて」

「うん」

 変わらない調子で笑いながら頷いて、彼は丘を下って行った。

 それから少し経って、目覚めた双子と一緒に上った側とは反対の斜面を下ったアシェリーは気付かないふりをした。―――数十年共に過ごした熊の獣人が、丘陵を下りきらずにふもとの岩陰に留まっていたことを。

 そしてアシェリーが丘陵を離れ、しばらくして後方から耳に届いたのは、雨音を引き裂くような獣の哭き声だった。






 建国から数百年。人間の国には転機が訪れる。後に「空白の時」と呼ばれるその数年間は王国内を混乱に陥れた。

 始まりは、突如として吸血鬼が国境の村を襲ったこととされている。実際は以前から人間が吸血鬼に対して行っていた数々の暴挙が発端であるが、それらの不満が表に現れたのがこの事件であろう。この時国境付近の町には王都の軍が駐屯しており、彼らが村に急行した結果、人間、吸血鬼共に少なからぬ犠牲を出すこととなった。しかし、人間側の働きでこの事件は互いに不干渉という和議で締めくくられることになる。それは、当時この軍の部隊長であった「新世王」の独断であった。この独断の結果、王国は対吸血鬼との全面戦争を免れることに成功したが、その反面国内を二分することとなり、王国は内乱の時代へと突入する。

 吸血鬼の排除を声高に叫んでいた当時の王は内乱の混乱に乗じて王位を簒奪され、しばらくの間玉座には誰も就かないという王国の歴史における「空白」が生まれることになる。これがこの数年間を「空白の時」と呼ぶ由縁である。

 内乱の末に玉座に就いたのが「新世王」である。庶民の生まれから騎士になり、部隊長を務めていた彼は国境の村での活躍から、親吸血鬼派の先鋒と目され、反乱軍の長となった。反吸血鬼派との争乱の後に分裂した国を統一し、以後は国内平定と共に「他種族親交論」を徹底していくこととなる。

 「新世王」亡き後、彼の遺体は「建国王」と同じく王の眠る丘に埋葬された。両脇には、「新世王」を生涯支え続けたと言われる二人の英雄が眠っている。一人は炎の使い手であった魔法使い、もう一人は知勇に優れた熊の獣人である。彼らの活躍は数々の英雄譚として語り継がれている。

 さていつの頃からか、王の眠る丘には決して朽ちることのない花が捧げられている。薄紫のその小花は王国では見られないものであるが、「建国王」と「新世王」がそれぞれに愛した女性の瞳と同じ色だという伝説から、「建国王」の傍らにあったとされる不死族(エルフ)の女性の名からとって紫水花と呼ばれるようになった。現在でも、紫の瞳を持った新妻が親しみを込めて「紫水の君」と呼ばれるいわれである。







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