前
彼女は、地位と名誉の象徴であるコートをいとも簡単に投げ捨てた。高価な銀のボタンが磨き抜かれた床とぶつかり、鈴を鳴らすような軽やかな音をたてる。刺繍の施された布地は、王への服従を示す腕章と共にぐしゃりと丸まった。
確かに、そのコートを身に付けるためには引き替えとして大きな義務と責任が求められた。しかしそれらが国という牢獄に彼女を縛り付ける枷になることはなかった。少なくとも、理由があるならば未練なく捨て去れるほどには。
ためらいは感じなかった。
意志を宿した瞳は真っ直ぐに。清々しい笑みを唇に刷いて。涼やかな声で彼女は言い放った。
「それでは私は、この子たちと駆け落ちをすることにしますよ」
彼女は、腰にも届かないような幼い兄妹の手を取った。
周りの者たちが、地位よりも、名誉よりも、そして自分たちとの繋がりよりも、彼女は忌むべき存在を選んだのだと気付いた時。その時にはもう、いくら手を伸ばしても届かないところに彼女は行ってしまった。
その事実に、ある騎士の少年は怒りに震え、ある魔法使いの青年は酷薄な笑みを浮かべた。
捨て去ったものが少し糸を引けば傾ぐような危ういものであったことなど、彼女が知るはずもなく。そして、なんの愛惜もなく捨て去ったせいでその糸を強く引いてしまったことなど、思いもよらなかった。
教育を間違えた。
最近そんなことをよく思う。けれどどこで間違えたかと考えても、アシェリーには分からなかった。駄目なことは駄目と叱ったし、嫌いな野菜も食べさせた。甘やかすことはもちろんあったけど、砂糖菓子の甘さでは決してなかった。じゃあどこで失敗した?……分からない。
アシェリーが幼い双子の兄妹に熊の獣人を加えた四人で暮らし始めて二十五年になる。出会った当初は腰にも届かなかった兄妹はすくすくと成長し、気付けば見た目ではアシェリーに近い年にまでなった。人間の目には十代後半くらいだろうか。兄のロワはもうすらりとした美丈夫の青年だし、妹のユンも女性へとなる直前の、儚げな色香漂う少女だ。容姿の問題は全くない。よくもまあ、こんなに立派に育ってくれたものだと、アシェリーも育て親として感涙だ。
しかし中身が駄目だ。いや駄目ではない。優しい子たちだと思う。そこは合っている。だがその優しさが、全てアシェリーに向かうところが問題なのだ。つまり、親離れができていない。
見た目の成長が止まったら、吸血鬼は伴侶を探す時期が来たと言える。そう、二人ともそろそろ妻や夫を探さなければいけないはずなのだ。それなのに。
―――朝目を開ければ両脇にはぬくもりがあって、それがぎゅうぎゅうと抱きついている。もちろん、それぞれのベッドは隣の部屋にある。
アシェリー自身にも問題があるとは思う。気配に敏感で、さらにわずかな音も逃さない耳を持った種族だし、それ以前に眠りが必要な種族でもない。本当は夜中に兄妹が入ってきた時点で追い出すべきなのだ。
またやってしまったとため息を吐いて、アシェリーは二人を引きはがした。
「何をやっているのかな、君たちは」
もぞもぞと動き始めた吸血鬼の兄妹は、色付いた唇の端を心底嬉しそうにきゅっと上げてアシェリーを見上げてきた。赤い目は寝起きのせいかとろんと溶けて、細められている。
「おはよう、アシェリー」
「おはよう。でもね、普通に挨拶しないでもらえますか。ロワ、ユン、私は夜中に入ってくるなと何度も言ったはずだけれど」
「だってアシェリーいい匂い」
「だってアシェリーいないと眠れないもの」
二人して意味の分からないことを口々に言うものだから、また思ってしまった。教育を間違えた。
「……我が子の自立心は何をしたら芽生えるのか」
「アシェリーから離れるんだったら、自立心なんていらない。あの熊もいらない」
「アシェリーだけが私たちのそばにいればいい。あの熊はいらない」
「君たち、それは問題発言です。それから地味に同じ言葉を付け加えないでもらえますか。ディーンがいないと困りますからね」
「邪魔だよ、あんなの」
「アシェリーには私たちがいればいいの」
「無茶を言わないで下さい」
むぅっと眉を寄せた二人は、すねるようにまた腕を回してきた。
「こーら、やめなさい。そんなに甘えたでは、独り立ちしてから生きていけないではないですか」
「独り立ちなんてするわけない」
「アシェリーから離れるわけない」
「それが問題だと言っているのだけれどね。何度も言っているように、私と永遠に一緒にいられるはずがな……って、いたっ!」
見れば、両方の二の腕に兄妹が噛み付いていた。血が出るほどではなく、甘噛みだが、それでもやんわりと歯が肌に食い込んでいる。ついでに弾力のある湿ったものが肌の上をなぞっている。甘えなのだろうが、これは本当にいただけない。
「そろそろ怒りますけれど?」
静かに怒気を混ぜて言えば、しぶしぶと言ったように二人の唇が離れる。むぅっと膨れながら今度は頭をすり寄せてきそうになったのをするりと避けて、アシェリーはベッドから降りた。何はともあれ爽やかな一日の始まりだ。
二十五年前のあの日、吸血鬼特有の飢餓に襲われていた兄妹に、自ら腕を切り裂いて差し出したのは他でもないアシェリーだ。健康体の女、それもエルフの血は吸血鬼にとって格別らしい。あれ以来、兄妹はアシェリー以外の血を受け付けていない。だから色々と問題なのかもしれない。無理にディーンの血でも飲ませてみようか。
つらつらとそんなことを考えていたら、当のディーンに困ったような笑みを向けられた。
「僕はごめんだよ」
「……よく分かりましたね」
「アシェリーが何かを考えている時は、大抵あの二人のことだろう?僕はあの兄妹には嫌われているからね、何であってもあまり関わりたくはないな」
「いえね、あの二人私の血しか飲まないでしょう?だから親離れできないのかと最近思うのですよ。それならディーンの血でも飲ませてみようか、なんて」
アシェリーの入れた紅茶を存外に綺麗な手つきで口元に運んだ熊の獣人は、冗談にもならないと呟いた。
「断固としてお断りか、それともこれぞ好機と全部吸われて終わるかのどちらかだろうね」
「ああ、いけませんね。からからになったディーンが想像できてしまいました」
「やめてくれ」
少し眉を寄せて見せたディーンは、かちゃんとカップをソーサーに置いた。
「……それより、」
彼から発せられた言葉はいつになく鋭い。熊の獣人はがっちりとした両肘を机に付き、太い指を組んだ。正面からアシェリーを見た瞳は真剣だ。つられて、アシェリーの表情も険しくなった。
いまだに追っ手がいるアシェリーや兄妹とは違い、ディーンは森から人間の町へ行っても平気なのだ。だから情報収集は主に彼に頼んでいる。
「嫌な話ですか」
「結構、ね」
「町に軍部の人間でも現れました?」
「その通りだよ。……第三師団の部隊だ。二週間くらい前からいるらしい」
昔に深い関わりがあった単語にも、アシェリーが顔色を変えることはなかった。
「どおりで、ここのところ木々が落ち着かなかったわけです。あの人間の群れは何をしているのですか」
「罪人探しだよ。紫の目をしたエルフの女と、黒髪で赤目の双子の兄妹」
「……分かっていましたが、まだ探しているのですね。もう二十五年にもなるのにご執心なことですよ。『裏切り者は世界の果てまで』、あれが忠実に実行されているということですか」
ふ、と息を吐いて、アシェリーは頬杖をついた。
裏切り者への制裁、つまりは死。例外はない。それは、学府の頃から人間の子どもたちに刷り込まれることだ。馬鹿馬鹿しい。
「吸血鬼の双子はともかく、まさか私にまでいまだに堂々と罪人の張り紙を貼っているとは。これでも、今では姿を見せることがほとんどない、珍しいエルフ様の一人なのですが」
「確かにエルフ様は例外とはされていないな。まあこの場合はエルフがどうのよりも、アシェリー自身に執着がありそうだけどね、あちらは」
ディーンが話をどこに持って行こうとしているのか見えた気がして、アシェリーはわざと見当違いな言葉を返した。
「案外、生きたまま私を捕まえようとしているのかもしれませんね。うぬぼれではなく、力も智恵も人間より私の方が優れていますから、惜しくなって必死で捕まえようとするのも分かります」
「いや、そうじゃなくて……」
視線を落として言いよどんだ熊の獣人に、やはりそうかとアシェリーは頬杖をついたまま、他人事のように彼をみつめた。ディーンは、アシェリーが人間たちを捨て去ったことを言いたいのだ。
三百年をゆうに超えるほど暮らした人間たちの国。人間の命など瞬く間に消え去る。あの国で、どれだけの赤子が老人となって死に逝くのを見送ったか。彼らにはずっと変わらない姿をしたアシェリーはどう見えていたのか。人間でないアシェリーには分からない。
「はやくおいつくからね」と、舌足らずな口調でアシェリーを見上げた人間の子どもがいた。そう言いながらあっという間に追い越してゆくと知っていたから、冷めた気持ちで見下ろしたものだ。「ずっと一緒」だと、コートを握りしめながら言った子どももいた。今思えば、少なくない人間に慕われていた。それなのにアシェリーはためらいなく彼らを捨て去った。人間たちがアシェリーに執着しているとしたら、だからこそ生まれたものだろう。
しかし。しかしだ。
いまだに口を閉じたままのディーンに、アシェリーは笑って見せた。
「彼らがどう捉えていようと、エルフとはもともとそういう種族ですよ。気まぐれなのです。他の種族からしたら私たちの生き方は薄情で冷淡に見えるようですが」
それに気付いたのは故郷の森から出てきて随分と経ってからだったが。
何とも言えない苦い表情をしたディーンに、変わらない口調でそういえばとアシェリーは話をかえた。
「彼らが現れたのは二週間前と言いましたね。いよいよ尻尾を掴まれましたか。この森は居心地が良かったのですが、潮時ですかねえ」
「かもしれないね」
気を取り直したのか小さく相槌を打ったディーンは、突然何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ、それからもう一つあったんだ。どうやら最近、吸血鬼があちこちでよく見られるらしい」
「おや珍しい。それはいい方向に解釈して良いのですか?」
「あくまで噂だけれど、そんな話もあったよ」
「事実でしたら嬉しいのですが。いや、それでもむしろ遅いくらいですよ。あらゆる生命の連鎖を考えれば、吸血鬼に対する人間の行為は愚挙でしかないのですから」
アシェリーが記憶を辿れば、耳に太古の音が蘇る。当時は闇の生き物であった吸血鬼が森の影を駆ける音。月の光を受けた艶やかな赤い瞳の残光。鮮明に記憶にある。
「人間が現れる以前から吸血鬼は存在していました。彼らの存在が大陸の命の均衡を脅かすなど、ありえない。それなのに今彼らが疎まれるのは、明らかに人間だけの都合だ。私たちエルフからすれば、大陸が急激な変貌を始めたのは人間が現れてからですよ。どうやら彼らは敵をつくらずには生きられない、もしくは他の種族を滅亡に追い込まなければ生きられない種族のようで」
しみじみと呟いてから、話がずれてしまいましたとアシェリーは苦笑した。
「吸血鬼たちは時の流れの影に潜み続けてきました。彼らが表の世界に出てくると言うのなら、これを機にいい加減あの二人を同族に返すべきでしょうね。あの子たちは次の世代を担っていくべき吸血鬼ですから」
一口。カップの中身を深く味わうように嚥下して、アシェリーは自分がいつの間にか人間じみた行為に慣れきっていることに気付いた。そもそも、一つの家に数人で家族のように暮らすのも、双子をまるで親のように育てたのも、全部人間の真似事のようなものなのだ。それは気まぐれ、そう、気まぐれだ。
「とりあえずはディーンの言う噂が本当であることを願いましょうか。反吸血鬼で染まった中央の頭のかたい人間たちは一度痛い目をみた方が良い。いや、むしろ私がしたいくらいです」
「僕だって」
「それなら一緒に乗り込んでみます?どちらにしても第三師団にご挨拶に行こうと思いますし。ディーンと私なら壊滅は余裕、というのは冗談ですが」
「惹かれる話だね。でも双子はどうするんだい?」
「初めてのお留守番、とか」
アシェリーは案外本気で言ったのだが、冗談、の一言で却下されてしまった。ディーンの目から見ても、双子に留守番はできないらしい。やはり親離れができていないということだ。
「ですが二人を一緒に連れて行くなんて、できるわけがありません。それこそ惨殺です。地獄絵図ですよ」
「二人が飛び出しそうになったら僕が止めるからいいさ。いくら僕が君と行きたいと言っても、足手まといになることは目に見えているからね。ここで双子の監視役に徹するとするよ」
「結局はそれが一番ですか。でもディーンなら安心して任せられるのも事実ですからね。ディーンの歯止めは確実ですし」
「一人ずつならともかく、二人一緒だと僕も結構面倒なんだけどね。君が師団の人間に会いに行ったなんて知ったら、僕を排除して何が何でも追いかけようとするに決まってる。……双子の流血沙汰は免れないな」
自分の、と言わないところがこの熊らしい。
「ちゃんと手加減して下さいね?一応あの二人には結構な情がわいていますので」
「僕にもそうだって言って欲しいんだけどね」
「ディーンのことは信頼していますよ。人格も力も」
当たり前だと言ったら、ディーンは何だか裏のありそうな笑みを浮かべた。
「玉砕は嫌だから、今はまだそれだけで我慢するよ」
細められた茶色の目に映るもの。それは初めて見るものではない。静かに激しく燃えるその色には気付いていたが、アシェリーは見ないふりをする。受け入れられるはずがないのだ。種族としても、アシェリー自身としても。だから分からないふりをする。
「何に当たって砕けるつもりですか」
「いや?双子に聞かれたら怖いからまだ言わないよ。……今だってこれなんだから」
「ああ……」
げんなりした表情を作ったアシェリーなど気にすることもなく、凄まじい勢いで扉が開いた。見なくても分かるが一応見てみれば、無表情までそっくり顔の兄妹がいる。
「アシェリー、何でそれと一緒にいるの」
「アシェリー、それ殺していい?」
目が光っていた。薄いはずの赤色の目が、燃え上がるような紅蓮に染まっている。
いくらなんでもひどすぎる。こんな物騒な子たちに育てた覚えは無いというのに。頭を抱えるアシェリーとは反対に、ディーンは楽しそうな表情だ。
「おや、僕を殺せると思って言っているのかい。これでも、数十年しか生きていないお子様に負ける気はしないんだけれどね」
「熊は邪魔だ」
「邪魔なものはいらないわ」
「だから殺すと?せめて実行できるだけの力を手に入れてから言って欲しいものだね」
しゃーっと今にも爪と牙をむきそうな双子。穏やかな笑みを浮かべながら油を注ぐ熊。見慣れてしまった光景だ。
「ロワ、ユン、いい加減にしなさい。ディーンも焚き付けては駄目です」
ため息と一緒に吐き出した声は、双子からのすねた視線とディーンからの何を考えているのか分からない笑みになって返ってきた。
同時に駆け寄ってきた双子はテーブルの上のティーセットを見て拳を握り、さらにぎゅうっと眉を寄せた。二対の瞳は依然としてちかちかと怪しい光を放っている。
「アシェリー、俺たちは熊と二人きりにならないでって言った」
「ロワ、私もそれは無理だと言ったはずだけれど」
「熊と何してたの、アシェリー」
「ユン、見れば分かりますよね。今回の収穫を聞いていただけです」
ふとディーンを見れば、やはり笑みを浮かべたままこちらを見ている。と、ロワの手のひらが伸びてきて強引に彼の方へ向かされた。
「……ねえ、やっぱり殺していい?」
「殺させて、アシェリー」
「言語道断」
ぱしりとロワの手を払い、アシェリーは立ち上がって子ども二人の頭に手を乗せた。吸血鬼二人が大きくなっても、成長が止まって久しいエルフの方がまだ高い。
「何回言わせるのですか。二人ともいい年になったのだから、もうしてもいいことと悪いことの判断はできるはず。そうですよね?」
そろって不服な顔をするから、思わずその柔らかな頬を人差し指でつついた。
「その顔は何ですか」
「……邪魔なものを消すのはしてもいいことだ」
「でもアシェリーが悲しむことはしてはいけないことだわ」
「熊を殺したらアシェリーは悲しむかな」
「きっと悲しむわね」
「じゃあ熊を殺すのはしてはいけないこと?」
「ええ、してはいけないことね」
また頭を抱えたくなった。一体、世界の中心を何だと思っているのだろう。聞けば即答されて、また悩むことになりそうなので聞かないが。
―――やはり、同族のもとへ帰さなければ。
あまりに居心地が良くて、長く一緒に居すぎたのかもしれない。どうせこの隠れ家から出て行かなければいけないなら、育て親として彼らの落ち着き先を探す旅に出てもいい。本当は二人を連れて師団を裏切った時点でそうするべきだったのだろうが。
ふうと息を吐いて思考を中断し、アシェリーはもう一度子どもたちの頭に手を置いて目を合わせた。
「二人とも、そもそも考えが間違っています。二人にとっては邪魔でも、他の誰かにとってはとても大切な存在かもしれないでしょう」
落ち着きかけていた瞳が、再び紅に染まり始めた。
「アシェリーにとって熊はとても大切な存在なの?」
「私たちよりも大切な存在なの?」
「待ちなさい、そういう話はしていない。……私は、命の判断を簡単にするなと言っているのです。二人が簡単に消す消さないを決めていいほど、命は軽いものではありませんから」
放った言葉は想像していた以上の重みを持っていて、アシェリーは苦く笑った。当然だが、積み重ねられたアシェリーの中の時間は、必ずしも美しいものだけで満たされているわけではない。
「私も、今まで生きてきた中で数え切れない命の終わりを見てきました。その中には私自身がこの手で散らした命もあります。不老のエルフに限りある命など理解できないと人間には思われていますが、永遠の時間を持つエルフだからこそ、命のはかなさは理解しているつもりですよ」
果たして本当に命の重さを知らない愚か者は誰だ。
「二人を殺そうとした師団の人間もそう。吸血鬼はいらないからという理由で殺そうとするなんて、大きな間違い。私の言いたいこと、分かりますか?」
受けた理不尽を思い出したのだろう。顔をしかめながら素直に頷いた子どもたちの頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めた。
「力を持った生き物は、誰よりその力の使い道を考えなければいけない。二人には、そのことがちゃんと分かる吸血鬼になって欲しいと私は思います」
「……分かった。熊は邪魔だけど、殺さない」
「ええ、殺すのは我慢するわ」
「よろしい。ディーンが買ってきたケーキがありますから手を洗っておいで。二人の分のお茶を入れておきます」
「ケーキ……」
声を合わせてくるりと背を向けた双子は、椅子に座るディーンをちらりと見た。
「珍しい」
「熊にしてはやるわね」
「かわいくない双子だね」
ディーンの一言もなんのその、ぱたぱたと駆けて行った子どもたちを見送る。苦笑しながら、ディーンがアシェリーに視線を寄越した。
「さすがだね。見事に手綱を握ってる」
「何を言ったところで、あの子たちを育てたのは私ですからね。……ただ、限界だとは思いますよ。この頃は特に、長く一緒に居すぎたと感じさせられるばかりですから」
今ではほとんど変わらない背丈になった双子。目前に座るディーンの顔に刻まれた苦労。それらが過ぎた月日の象徴だ。―――二十五年。それだけの間、彼らと共にいた。
年月と共に変わっていくのがこの世界の理。有限の生物には、その身体に時の流れが刻まれていく。そして逆らうこともできずに、いつか終わりを迎える。ロワとユン、ディーンにも例外はない。終わりを持たないアシェリーの傍で、その命を終わらせていく。それは見たくなどない未来だった。だからこそ限界なのだ。
「まさか捨てる気じゃないよね。僕を含めて」
「とんでもない。言ったでしょう、情がわいていると。ですから二人の落ち着き先が見つかるまでは離れませんよ。それが育て親の義務でもあるでしょうしね。旅に出ることになりますが、ディーンにもついてきてもらえますか?」
「もちろん」
即座に頷いたディーンの顔にはしかし、釈然としない心がありありと表れていた。
アシェリーは言った。「落ち着き先が見つかるまでは」と。ではその後はどうなる?あの人間たちと同じように、未練なく捨て去られるのか?
聞きたくて聞けない、そんな彼の気持ちを手に取るように理解できてしまって、それでもアシェリーは答えなかった。アシェリー自身が答えを持っていなかった。それがディーンにも分かったのか、瞬き一つで彼は意識的にその表情を消した。
「それで、具体的にはどうする気だい?」
「まずは師団の人間をどうにかするとして。それから、……そうですね、噂の真偽を確かめるためにも吸血鬼の知人を頼ろうかと」
驚いたディーンに、アシェリーは笑った。
「だてに悠久を生きているわけではありませんよ。吸血鬼に知り合いくらいはいます。あまり、会いたくはないのですがね」
前回会ったのは、九十年ほど前のこと。吸血鬼は人間のおよそ三分の一のはやさで歳を取るとはいえ、不老ではない。本当は、前回を最後にもう会わないと決めていたのだが。
アシェリーの脳裏に、手を振って別れた若々しい夫婦の姿がよみがえった。子がいるだろう、もしかしたら孫さえいるかもしれない。九十年分の年を加えた彼らの姿を思い描こうとしたが、できなかった。アシェリーの中で彼らは変わらない姿でそこにいるのだ。けれど実際は違う。変わらないのは、アシェリーだけだ。
「自分だけ時間に置いて行かれる感覚はね、慣れないものですよ」
小さく微笑んだアシェリーの顔には、寂しさがにじみ出ていた。
その日は満月だった。アシェリーと同族のエルフたちが唯一消息を確かめ合う、月に一度の機会でもある。
夕方になると、アシェリーはフードの付いた灰色のマントを身につけた。仲間に会うため、武器の類は持たない。手早く用意をして小屋を出たアシェリーは、小屋の裏で薪を割っていたディーンを見つけて声を掛けた。
「ディーン、少し出かけてきます」
顔を上げたディーンはうっすらと額に浮かんだ汗をぬぐいながら空を見上げ、納得したように頷いた。
「ああそうか、今日は満月か。気を付けて」
「ええ。双子にはもう言ってありますが、いつも通り追いかけてこないようにお願いします。日が沈む前には戻りますから」
「分かった。お仲間によろしく」
「はい」
西の空は橙に色付き、風は日没の香を含んでそよぐ。くすぐるような音を奏でる木立の中を足早に通り過ぎて、アシェリーは目的の場所へと向かった。本当ならこの時間は優しい木々の声が感じられるアシェリーの好きな時間なのだが、日が沈む前には戻ると言ってしまった手前、約束を守らなければ厄介なことになるのは目に見えていた。ただでさえついて行きたそうな双子に何度も言い聞かせ、さらにはディーンに監視を頼んで出てきている。
素早く土を踏みしめるが、エルフの足は音をたてず足跡さえ残さない。森と共に存在するエルフには、木々の囁きを邪魔することはできないように生まれついている。
進むたびに大きく、そして密集していく木々たちの間を変わらない速度で通り抜け、アシェリーは森の奥へ奥へと向かって行った。感じる同族の気配は近い。
川のせせらぎがはっきりと聞こえてきた頃、森を抜けて小さな窪地へと出た。中央ではこの森の中でも特に立派な大樹が葉を茂らせ、地面には草花が青々と連なっている。澄んだ水が柔らかな音と共に窪地を縦断して流れていた。
視線を左右にめぐらせて、アシェリーは大樹の幹に寄り添うようにして立つ同族の姿を見つけた。一人だけだ。少し気になったが、彼の姿形、何よりアシェリーの感覚が間違いなく彼が仲間なのだと教えてくれる。向こうも気付いたのか、幹から身体を離してかぶっていたフードを後ろに落とした。途端に日没の太陽の光に染められて燃えるような金髪がこぼれ落ちる。
「久しぶりですね、……アシェリア」
柔らかな笑みと共に掛けられた声。懐かしいその音に、アシェリー―――アシェリアは息を飲んだ。碧玉の、ともすれば冷たくも見える瞳。けれどその眼差しがいかに慈しみを持ってアシェリアに注がれるか、覚えている。かすれた声でアシェリアはその名を紡いだ。
「クラディウス様……?」
「ああ、忘れられていなくて良かった」
笑みを深めた彼の手が伸び、そっとアシェリアのフードを取った。開けた視界に映る彼の姿は、記憶の中の姿と何一つ違いがない。同族だから当たり前なのだが、そのことになぜか安心した。
「ここに来るまで、あなたに忘れられていたらどうしようと、そればかりを考えていましたよ」
驚いた顔をアシェリアもまた笑みに変え、叔父にあたる彼を見上げる。
「クラディウス様を忘れるはずがありません。でも、本当にお久しぶりですね。私が森を出て以来ですから、何百年ぶりになるのやら。お変わりなくて安心しました」
「ええ、我が紫水の君もあの頃と変わらず美しい」
「……?」
故郷の森にいた時と同じように、クラディウスの細い指がアシェリアの頬の上をそっと滑る。数百年前には深い安心をもたらしたはずのその指先だったが、なぜかこの時のアシェリアは違和感を覚えた。目の前の男の笑みは変わらない。
ふと、彼の笑みに悲しみがのった。
「ですが、……ああ、昔のあなたの瞳にこんな影はなかった。人間と関わってできた影だ」
目じりをなぞる指が落ち着かなくて、アシェリアはやんわりとそれを押しとどめた。あっさりと離れた指にほっとする。
「それよりもクラディウス様、お一人でいらっしゃったのですか?いつもは皆、四、五人で来られるはずなのですが」
「今回は私一人ですよ。あなたとの再会を、誰にも邪魔させたくありませんでしたから」
「……せっかくですからね。皆に変わりは?」
「ありませんよ。あなたが心配するようなことは何も。ですが私には心配していることがある。他でもない、あなたのことです」
ぷつりと途切れた言葉が一瞬の空白を生む。その空白を切り裂いて響いたのは、エルフ以外の種族には忘れ去られた古い言葉だった。
―――『世界の欠片は生により始まり、死により終わる。繰り返す生と死により世界は紡がれる。絶えず巡り続ける世界の中で、時は束縛を嘲笑い、ただ流れすぎる』。
「一つ、我らエルフの世界を除いては」
射抜くような視線がアシェリアを貫いた。彼は、全部を知っているのだ、アシェリアの心でさえも。小さく震えた身体に追い打ちをかけるように、クラディウスの声が問いかける。
「辛いのでしょう?アシェリア。もう疲れたのではありませんか?」
辛い。疲れた。私が、―――この「有限の」世界に?
すとんと、アシェリアの顔から表情が抜け落ちた。それは紛れもなくクラディウスの言葉を肯定するものだった。優しい眼差しが注がれる。
「やはりそうだ。アシェリア、……我が紫水の君、もう十分でしょう。このままではあなたの影が増えるばかりだ。愛しい紫水の輝きが失われてしまう」
言葉を紡ごうとする唇がなぜだか震えた。
「私は……」
「皆、あなたの帰りを待っています。まだこの世界に未練があるのならば、全て私のせいにして構いません。……戻っては頂けませんか」
二人の間に沈黙が落ちた。やがてその沈黙を破ったのは、アシェリアの囁くような声だった。
「クラディウス様には、私がこの世界に未練があるように見えるのですか」
再び伸ばされた大きな手が、アシェリアの頭に置かれる。
「それは……ええ。吸血鬼の双子や熊の獣人、あなたが自覚しているだけでも、この世界にあなたを繋ぎ止める鎖は多いでしょう」
「私が、自覚していないものもあると……?」
アシェリアが見上げた先の精緻な顔は、わずかな戸惑いを浮かべていた。口にするべきか否か、迷っているような。しかし覚悟を決めたのか、クラディウスははっきりと言葉を口にした。
「アシェリア。一つ聞きますが、あなたはなぜ、この森に?」
「それは……もちろん居心地が良かったのもありますし、町が近いので」
「そうではありません。追われているのならば、なぜ人間の国から出なかったのですか。本当に未練がなかったのならば、人間を見放すつもりだったのならば、吸血鬼たちを連れて国を出れば良かった。それをせず、あえて尾を掴ませるようにこのような人間の国の中にいるのはなぜです」
静かな声音が、淡々と突き刺さった。
「あなたはまだ、あなた自身が知らないところで人間を見放せずにいる。……そうでしょう?」
否、とは言えなかった。
確かにアシェリアは人間という種族にほとほと嫌気がさしていた。仲間内で争うだけに飽き足らず、自分たちの都合だけで他の種族を滅亡に追い込もうとする種族。その浅ましさを軽蔑し、愛想を尽かした。だからこそ、あの時ためらいなく双子の手を取ったのだ。これで人間たちとの繋がりを断ち切れると、清々しく思った。……はずだった。
断ち切ったつもりで、まだ断ち切れていなかったのか。
まぶたの裏に、あの日「行かないで」と必死の力で追いすがった小さな少年たちの姿が浮かぶ。
「そう……クラディウス様のおっしゃる通りですね」
アシェリアは悲しげに笑った。
「人間は、不思議な生き物です。これで終わりにしようと何度そう思っても、短い命を懸命に生きる彼らを見ると、どれ程の時が経とうと……かれと、変わらないのだと」
俯いたアシェリアには、クラディウスの顔が強張ったことに気付かなかった。依然としてアシェリアの髪に触れていたクラディウスの手が、そっと離れる。
「あの男に、似ているのですか」
一瞬目を見開いたアシェリアは、そう言えば叔父は鋭かったと、今更ながらに思い出した。隠し事など無駄なのだ。相手が信頼する叔父だからこそ、アシェリアは涙のようにぽろりと零れた本音を口にした。
「ええ、あの子たちは特に。先祖返りと言うのでしょうね」
憂いを帯びたアシェリアのその表情ははっとする程に美しかった。切なさと、手の届かない儚さとをあわせ持っており、だからこそ理性で抑え込んでいた男の性を激しく呼び起こした。
―――突如として伸ばされた腕がアシェリアの腰を無我夢中で手繰り寄せる。
「……っ」
避ける間もなく、アシェリアの眼前には叔父の顔が迫っていた。互いの吐息が混じり合って唇が触れそうな距離。アシェリアの腰は叔父に密着し、離すまいと言うように回された腕がさらに抱き寄せる。
「クラディウスさ、……」
開きかけた口は、彼の瞳を見て再び閉ざされた。そこに映っていたのは、目を逸らしたくなるほどの―――憎しみ、苦しみ、悲しみ、……それから。
その瞬間、全てを悟った。
「い、いやです……っ」
アシェリアは逃れようと腕を突っ張るが、いよいよ強く抱き寄せられてそれは叶わなかった。顔を背けようとしても、後頭部を掴んだ片手が嫌でもその燃え盛る炎を宿した瞳を見せつける。
「憎い、憎らしい……っ。私の姫にその存在を刻み付けたあの男が!いつまでもその存在を姫の中に残し続けるあの男が!ああ、いっそこの手であの男の全てを消し去れたならば!」
泣き叫ぶような声だった。あまり感情を表に出さないはずの叔父の姿に、アシェリアは殴られたような衝撃を受けた。
「姫、姫、ああ、私の姫。こんなことになるのなら、あの日あなたを外の世界になど出すのではなかった……っ」
後頭部から耳の裏をなぞり、アシェリアの顎に添えられた手がぐいと持ち上げられる。さらりとこぼれ落ちたクラディウスの髪がアシェリアの頬を撫ぜた。それはまるで、クラディウスの涙のようだった。
覗き込んだアシェリアの瞳に困惑を見てとったのか、クラディウスははっとしたように腕の力を緩めて目を伏せた。
「ああ……こんな形で想いを告げるはずではなかったのに」
すっと苦しげに閉じられた瞳が再び開いた時には、激しい炎は消え去っていた。変わりと言うように、クラディウスは熱情を秘めた静かな笑みを浮かべた。いや、本当は最初からそうだったのかもしれない。アシェリアが気付かなかっただけで。
「あなたを怯えさせるつもりではなかったのです。ですが謝るつもりはありません。全て私の本音だということを、どうか忘れないで」
頬に触れた指が、アシェリアの身体を強張らせた。なぜこの指先を親愛だと思い込んでいたのだろう。
「アシェリア」
この瞳も、この声音も、紛れもなく唯一に向けるものだというのに。
「私はあなたを―――」
「っやめて下さい、言わないで」
言葉を遮ったのは衝動だった。しかし悲しげなクラディウスの表情を見て、後悔する。
「この気持ちを口にすることすら、あなたは許してくれないのか」
ずきりずきりと心が痛んだ。それでも、この中途半端な自分がクラディウスの言葉を受けることは、許せなかった。何を選ぶことも、何を捨てることもできていない今のアシェリアはきっと、クラディウスの言葉にすがってしまう。そう思った。
「申し訳ありません……ですが、今の私ではいけませんから」
「なぜ」
まだ腰にも届かなかった小さな双子の姿が浮かんだ。困った顔をして頬を掻く熊の獣人の姿も。それから、歯を見せて笑う人間の子どもの姿も。そして、さかのぼった時間の向こうからまっすぐにアシェリアを見つめる一人の人間の姿。
いけない。まだ、全てを断ち切って逃げることはできない。
「私、わたしは……っ」
急き込んで言おうとした言葉は、結局は静謐な空気に消え去りそうな音になった。
「目を背けて逃げるために、クラディウス様を使いたくはありません」
「あなたが私を求めてくれるのならば理由など必要ない!」
冷徹な美貌に一瞬の弾けるような激情が再び走ったのを、アシェリアは見た。しかしそれはすぐに霧散する。一つ息を吐いてから絞り出されたかすれた声は、沈んだ響きを伴っていた。
「本当なら、今すぐに連れ去ってしまいたい。あなたと私だけの世界へ。けれどそれは叶わぬ願いだ」
「傲慢だとは分かっています。けれど、今の私でクラディウス様と向き合いたくはないのです。この世界で私に刻まれた記憶を全てクラディウス様に押し付けるなど、私は自分が許せない」
クラディウスは苦く笑ってアシェリアの髪を撫でた。
「変わらないものだ、あなたの強情さは。ええ、もう少し待ちましょう。今まで待ったのですから」
自分に言い聞かせるような口調に、アシェリアは揺れる瞳で問いかけた。
「いつからと、言われるのですか……」
アシェリアの端的すぎる問いを、それでも目前の男は明確に汲み取ったようだった。クラディウスは落ち着いた表情でさも当然のように答えた。
「あなたがこの世界に生まれ落ちたその瞬間から」
「っですが、そのようなそぶりは全く」
「見せなかったと?本当にそうお思いですか。私があなたの頬を撫でる手で、あなたを見つめる目で、この想いをただの一つも語らなかったと?その答えは、私が答えなくともあなたにはもう分かっているはずだ」
責めるわけではない、凪いだ湖の穏やかな瞳がただアシェリアだけを見つめていて、思わず目を逸らしたい衝動が襲う。
「その身は不死の国にありながら、あなたが見つめていたものは有限の世界だけ。どれほど望んでも、あなたの心を占めるものにあの時の私がなれようはずもなかった」
柔らかな言葉で首をゆるゆると絞められている。そんな気がした。
「あなたは私を見ようともしなかった。あなたの瞳はずっと外を向いていたから。……今でも思い出しますよ、私がどれほどあなたの近くにいても、あなたの無邪気な瞳が私を通り過ぎて外の世界への憧ればかりを語っていたことを。それがどれほどこの私を苦しめたことか」
筋張った大きな手がアシェリアの両頬を包む。
「ああ、そんな顔をしないで。我が紫水の君、私はあなたを責めたいわけではない。ただ知って欲しいのです。この果てのない想いを」
太陽が残した最後の光が、彼の瞳を宝石のようにきらめかせた。
「無限の時間を待つことができるのはエルフの特権です。私は待ち続けた、あなたが有限の時間を厭うようになるまで。……この時がくるのをどれほど待っていたか」
あなたはもう、疎んでいる。この世界を。
―――そうでしょう?
微笑んだ顔はどこまでも美しく、どこまでも残酷だった。