攻防戦といっても防御もできない
由奈は、コーヒーゼリーを用意していた。もちろん自分の分もある。凪子一人に美味しい思いはさせない。
あいにくコーヒーは豆ではなくインスタントだが、それでも充分だろう。ゼラチンの表示を確かめると、規定より多めの湯にインスタントコーヒーを濃いめに入れた。砂糖はちょっと控えて少し苦いくらいの味付けにすると、ゼラチンを溶かしてグラスに注ぎ分けた。型出ししなければ、ゼリーは柔らかくてもかまわない。バイトを終えた凪子が着く頃にはほどよく固まっているだろう。
ゼリーに添える生クリームはうんと甘く仕上げる。パックから生クリームを半量ほどボウルに注ぎ、砂糖をたっぷり入れて風味付けにアイリッシュクリーム・リキュールを加え、緩めに泡立てた。
「爪切りは?」
「甘い物が先!」
ほろ苦いコーヒーゼリーに、甘い生クリームをたっぷりかけて、由奈はテーブルに出した。ゆるいゼリーを崩して、クリームを絡めながら食べる。
「爪切りはどこ?」
「さあ、どこでしょう」
ゼリーを食べながら繰り広げられる、爪切りを巡る小さな攻防。残念ながら、ここで負ける凪子では無かった。
ゼリーをきっちり食べ終えると、凪子は鉢植えの棚の下段にある、替え用の土を入れたかごの中から爪切りを出した。なぜ爪切りをそんなところに入れるか。
何にせよ、これで気になっていた二枚爪を整えられる。問題は片付いたと由奈は思った。だがその発想は、コーヒーゼリーにかけたクリームより激甘だった。
翌朝、由奈は出勤のために身支度をしていて、腕時計がないことに気づいた。
昨日は、凪子に食べさせるゼリーを作った。もちろん自分の夕食も。水仕事をするときに腕時計はしていない。外して、どこに置いたろう? 記憶と習慣で考えられる場所を全部探した。見つからない。仕方なく、由奈は腕時計なしで出勤する。職場には遅刻寸前で到着した。
昼休み、由奈は凪子の携帯に電話した。
「私の腕時計知らない?」
「トリック・オア・トリート」
「オアじゃなくてアンドでしょう、確信犯」
「八時くらいには行けるから。甘い物用意しといてね」
「あのねえ」
言いかけて由奈は気づいた。電話はすでに切れていた。
母親直伝のパンケーキは、牛乳も砂糖も小麦粉も、全部目分量だ。それでも大きな失敗をしないのが、簡単なお菓子のいい所だと由奈は思う。
由奈はパンケーキを作りながら、ハロウィンを心から呪っていた。ハロウィンまでは三日ある。つまりそれは、今日と明日も何かを隠され、明日と明後日も甘い物をねだられるということだ。手持ちの材料で簡単に作れる甘い物はそう多くない。材料を買い足すのか。
ため息をつきながら、昨日の残りの生クリームを今度はしっかり泡立てる。蜂蜜はまだ充分あった。
凪子は当たり前にパンケーキを食べていた。生クリームと蜂蜜かけ放題。
「腕時計はどこ?」
「人が食べてるときに急かさないの」
「あのねー、私は今朝、遅刻しそうになったんだよ? 腕時計必死で探して。少しは悪いと思わない?」
「間に合ったんでしょ? じゃあいいじゃん」
「うー」
パンケーキを食べ、一緒に出されたミルクティを飲み終えると、凪子は食器棚の下段の扉を開けた。あまり使わない大皿の奥から、腕時計を取り出す。爪切りの時といい、なぜそんな仕舞い場所を思いつくのか。
戻ってきた腕時計を由奈は所定の位置に戻す。壁に掛けたワイヤーネットのフック。
「毎日すべてにおいてそうやっていれば、散らかることもないのにね」
「やかましい」
由奈の返事に凪子は笑いながら食器を洗い始めた。由奈は凪子がまた何か隠すんじゃないかと見張っていた。そのうち下らない世間話が始まり、話しながらそう多くない食器を凪子は洗い終える。水切りかごに夕食の食器と、パンケーキに使った皿とカップが収まっていた。
皿とカップ?
「ナイフとフォークは?」
「ばれたか」
「なーぎーこー、いい加減にしてよー」
「ちぇ」
凪子はシンク下の物入れから、洗い終わったナイフとフォークを取り出した。全く油断ならない。それでも由奈は、隠し物を見つけて甘い物の準備から解放されたことに安堵した、のだが。
凪子が帰った後に気づいた。キッチン鋏が無くなっていた。いつの間に隠したんだ。本当にどこまでも油断ならない。
次の日、由奈はバナナアイスをこさえていた。バナナと牛乳と生クリーム、お砂糖とバニラエッセンス。
バナナを適当に刻んで牛乳をかける。ハンドミキサーでゆるめのバナナペーストを作り生クリームを加えると、ゴムべらでざっくりと混ぜ合わせた。
それからミキサーの替え刃を磨り潰し用から泡立て用に交換して、全体を混ぜながら充分に空気を含ませた。これは市販品より美味しい、と由奈は自負していた。
アイスが早く固まるよう、保存容器に小分けした生地を浅めに入れて、この作業から今日で解放されますようにと念を込めながら、由奈は容器を冷凍庫に積み上げた。
ほどよくアイスが固まった頃、凪子が当たり前の顔でやって来た。
キッチン鋏の隠し場所は意外に近かった。やって来た凪子は、バナナアイスと引き替えに、キッチン鋏を冷蔵庫の下から取り出したのだ。アイスを作るより、自力で探した方が早かったかも知れない。由奈はアイスを作ったことをわずかに後悔した。
「昨日の映画、録画してる?」
由奈の思惑など知らぬそぶりで、アイスを食べながら凪子が訊いてきた。
「してるよ。見てく?」
二流のサスペンスコメディを見ながら、二人で画面の不条理と矛盾に突っこみまくる。二流映画ならではの楽しみ方だった。
途中で凪子は食器を洗い始めた。テレビはキッチンからでもそれほど無理なく見える場所にある。まさか昨日と同じ手は使わないだろうと思いながらも、由奈は画面そっちのけで凪子の手元を見始めた。
「いや、こっちじゃなくてテレビ見ようよ」凪子が由奈の視線にに気付いて言った。
「そうだねぇ」由奈は答えながらも、凪子から目を離さない。
凪子が食器を洗い終わった。今日は何も隠さなかったらしい。由奈は画面に視線を戻し、二人はまた映画に突っ込みはじめた。
映画が終わって、由奈はトイレに立った。
「テレビ消すよー」凪子が声を掛けてくる。
「うん、ありがと」由奈は素直に感謝の言葉を口にした。
このときの由奈はまだ知る由もなかったが、こういうことを『泥棒に追銭』と言うのかも知れない。
映画の後もとりとめのない話をして、凪子は深夜近くに帰っていった。凪子が帰った後には、テレビのリモコンが消えていた。
結局、明日も甘いモノを作るのか。あの時、トイレに行かなければ。
由奈はこれからリモコンを隠そうという凪子に、暢気にお礼を言った自分を呪った。『後悔先に立たず』。
由奈はミルクプリン作るべく、キッチンに立っていた。
プリンといっても、本来の蒸し菓子ではなく、ゼラチンを使う。プリンらしい濃厚さを出すために、牛乳に生クリームを足した。ここ数日、どれだけ生クリームを使ったろう? 明日のかぼちゃスープにも生クリームを使うのだ。
凪子め、生クリームの食べ過ぎでニキビだらけになればいい。
同じだけ自分も食べている事はこの際棚に上げて、由奈はそんなことを考えた。
やって来た凪子は、ミルクプリンを受け取ると「テレビを見よう」と言い出した。
「リモコンはどこ?」
「ふっふっふー」
自慢げに笑うと、凪子はハロウィンのための買い物袋から、テレビのリモコンを取り出した。そこはルール違反だろう、明日まで絶対開けない。
「だから隠し場所にもってこいなの。由奈、想像力が足りないよ」
あっけにとられた顔の由奈に凪子は言った。相変わらず自慢げ。カワイクナイ。若干腹立たしげな由奈を無視して、凪子はテレビをつけた。もちろん、取り出したリモコンをつかって。ますますカワイクナイ。またしてやられた。