甘い罠から前哨戦へ
「あー、そういえばもうすぐだ」
デパートの雑貨フロアで、凪子がそう声に出した。フロアの一角に、オレンジ色をしたカボチャの作り物が山積みになっている。凪子の視線はそこに釘付けになっていた。
由奈はハロウィンに興味がなかった。子供ではないからお菓子をもらって歩く訳にもいかないし、単身者ばかりが住むアパートにお菓子をねだりに来る子供もまずいない。
「そうだね」
そう一言答えて目当ての文具コーナーへ向かおうとした由奈の腕をしっかりと掴んで、凪子はハロウィンコーナーへ向かいはじめた。
「ちょっと、凪子」
「いいじゃない、見るくらい。減るもんじゃなし」
「いや、減るから、時間が」
由奈は抗議したが、凪子は耳を貸さなかった。凪子がこうなったら、何を言っても聞きやしないのだ。結局、由奈はハロウィンコーナーへと連れて行かれた。グッズを眺める凪子の目が輝きだす。
「ハロウィンパーティー、しよう!」
「興味無いよ」
「今から持てばいいの」
「どこでやるの?」
「決まってるじゃん」
やっぱりうちか。凪子の返事に、由奈はがっくりと肩を落とす。
ここしばらく、由奈は忙しかった。好きなアーティストのライブ、親戚の葬儀、職場の同僚の結婚式。何だか一気にいろいろなことが重なって、部屋を片付ける暇はなかった。汚部屋体質の由奈の部屋が今どんな惨状か、しじゅう出入りしている凪子はよく知っている。そこへハロウィンの飾り付け? 勘弁して欲しいと由奈は思う。
「心配しなくても、部屋は片付けてあげるから」
由奈の心を見透かしたように、凪子が言った。痛いところを突かれた。そして同時に「片付けてあげる」と言う凪子の言葉に由奈は揺れた。
「うちで二人で晩ご飯食べるって、いつもと何も変わらないじゃん」
一応、ささやかな抵抗。
「飾り付けたら、気分が違うでしょ」
凪子はやる気満々らしい。
「100均でも、飾りは売ってるよ」
一瞬でもこのコーナーから離れれば、凪子はハロウィンパーティーというアイディアを忘れてくれるかも知れない。忘れて欲しいと由奈は願った。
しかし残念ながら、移動先の100均ショップではハロウィングッズは更に充実していて、凪子のアイディアは揺るぎない決意へと変わったのだった。
飾り物とハロウィンパッケージのスナック菓子を買い込み、二人は由奈のアパートへ戻った。凪子はアパートに着くと上着を脱いで部屋の片付けに取りかかり、由奈は二人分の夕食を作り始めた。食べながら日々のくだらない話をして笑い合い、凪子は食器を片付ける。
「ハロウィンの日は、かぼちゃのスープね」凪子が食器を洗いながら言った。
「かぼちゃを食べるのはハロウィンじゃなくて冬至だよ」
「ハロウィンに食べちゃだめって法律、あるの?」
「知らないよ、そんなこと」
「それに、冬至に食べるのはあずきかぼちゃでしょう、スープじゃなくて」
「冬至にかぼちゃスープじゃだめって法律あるの?」由奈がやり返す。
「知らないよ、そんなこと」
今度は凪子がそう答え、二人はまた笑った。
その夜遅く、爪切りが無くなっている事に由奈は気づいた。右手の人差し指が二枚爪になっていて、爪切りが必要になったからだ。
所定の置き場所数カ所をチェックして、そのどこにも爪切りが無いことを由奈は確認する。
まともな部屋に住む人間は、汚部屋住人は何でもどこにでも置いてしまう、と思い込みがちだ。しかし実際は、こまめに使う物には所定の場所を決めている汚部屋住人もいるのだ。ただし、『所定の場所』は一カ所ではない。そして、そのどこにも捜し物が見つからなければ、半ばパニックになる。
片付けに来た凪子が置き場所を変えたのかも知れない。爪切りが見つからずパニック寸前の由奈はそう思いつき、凪子に電話をかけた。
「なに、こんな時間に」
「爪切り、どこにあるか分かる?」
「知りたい?」
やっぱりそうか。
「うん、使うから訊いてるの」
「明日教えてあげるから、甘い物用意しといてね」
「は?」
「トリック・オア・トリート」
「既に悪戯されてるじゃん。甘い物、出す義務あるの?」
「爪切りの場所、教えないよ」
「明日はまだハロウィンじゃないし」
「爪切り、使うんでしょ?」
いつものこととはいえ、勝者は凪子だった。