楽器バカ
「よォ、本田。悪いな、チケット貰っちまって」
「川辺。……一人か。そうか」
視線を彷徨わせた本田は一人で納得して頷く。
「わざわざ口に出さなくて良いだろ! ……改めて聴くとヴァイオリンって良い音色だな」
いい雰囲気で、今ならイケると思ったんだけどな、と川辺は項垂れる。
それで川辺は周りから人が居なくなったのを見ていなかった。
「お前はイケメンでしかもヴァイオリニストだから彼女居ない俺の気持ちなんか解んないだろ」
「彼女はフォルムが美しい」
彼女? と川辺が顔を上げると、本田がケースを開け、ヴァイオリンに手を伸ばすところだった。
「グラマラスなこのボディライン、素晴らしいだろう? 優しく抱え、そっと触れる。あの一時は堪らない」
ヴァイオリンを指で、つうっと撫でる友人の眦がうっとりと緩むのを見て、川辺は思わず半歩退いた。
「弓で歌わせる時は紳士に触れる。優しく、焦らす様に……」
おいおい何の話だよ、と川辺は怯えて助けを求めるが、周囲にはいつの間にか人っ子一人居ない。ちょ、え、どういう事。
「勿論、いい声で鳴かせるにはそれなりの練習と下準備が必要だ」
だから何の話だよ!? と川辺が戦々恐々としている間も本田の講釈は続く。曰わく、手入れは欠かせない。気温や湿度に合わせたコンディションも重要だ、等々。
川辺は本田に何故彼女が居ないか解った気がした。