潮騒と重なる笑顔
セミの鳴き声が辺りに響く。公也は凪沙、美月、香琴と共に学校に赴いていた。
「よし、全員課題出来てるな。牟佐、お前だけは本当に心配だ」
担任の鹿田葉月がプリントを茶封筒に入れながら、わざと大きなため息をつく。
「大丈夫だよ。ちゃんと勉強やってるし」
「てめーは去年赤点ぎりぎりだったの、私の温情で見逃してやったのを覚えてねえのか? 何なら来年、椎木と市原と同じ学年にしてやってもいいんだぞ、ええ?」
鹿田は皮肉った口調で凪沙を挑発する。凪沙はむっとしながら、美月達の方へ振り返った。
「でも、これで次の授業出たら、夏休みなわけだ!」
「夏休みねえ……お前らの生活想像してたら、ほとんど毎日夏休みみたいなもんだと思うけどな」
「せんせ、さすがにそれはないわ。勉強もやってるし、家の手伝いもあるし。そこら辺、ハムくんが一番分かってると思うけど」
美月に突然話を振られ、公也はあたふたした。美月の言い分も分かるのだが、このゆったりとした時間の流れは都会の時間の流れとまったく違うのも確かなのだ。そこから言えば鹿田の言うことにも一定の妥当性がある。
「あ、あの先生は街に戻ったら何やってるんですか?」
「ん? 私か? 色んな学校の非常勤。世知辛い身だ」
非常勤講師と常勤講師の違いは、社会を知らない公也にはよく分からない。それでも彼女のような、ある意味で突き放してくれる人間が担任であってくれたことは、よかったと思える瞬間がある。
「一ヶ月に何回かここに来て、また都会の空気吸って。車運転してたらだんだん景色変わってくるんだよ。暗くて何にもない道から、コンビニが出てきて、気付いたら明かりに溢れた街に出てな」
「街よりこっちの方が面白いよ!」
「物と人と欲に溢れた毎日も毒々しくて面白いぜえ。ま、牟佐は興味ない話かもな」
彼女は茶封筒を鞄にしまい、立ち上がった。時間は早いが、今日はもう終了だ。
ここへ来て、初めての夏休み。公也にはその日々の想像がつかなかった。
街にいた頃、毎日制服を着て、学校へ向かった。土日が来て、それを何度も繰り返す日々だった。夏休みや冬休みは、長く自堕落出来る時間だった。
だがここでは、一日に勉強をしなくてもいい。集中的にやっても構わない。生き方を誰かに縛られるわけではない。
自由であること。
面倒だな、と公也は心の底で呟いた。でも、誰かにコントロールされないで、自分達で楽しく生きている凪沙達の精神的な強さが、羨ましく見えることも増えた。
鹿田は面倒そうに手を振り、職員室を出る。凪沙の「行こうか」という言葉で、公也達も動き出した。
学校を去り、四人は帰り道を歩いていた。先日見つけた銅貨の件について、一度詳しく調べる必要がある。銅貨は美月に預け、時折四人で集まり、いつ山へまた向かうか話し合っていた。
「しかしこの馬鹿みたいに暑い中で山登りは、正直嫌になるわね」
一番涼しげな顔をしている美月から、そんな言葉が漏れる。香琴はくすくす笑いながら前方の凪沙に目を向ける。
タンクトップ姿の凪沙は、すっかり肌が焼け、公也が始めて出会った時よりも活発的なイメージを彼に与えてきた。
「カコちゃんもみつきちも長いスカートやめなよ。こういう短いパンツなら汗かかないよ」
「凪沙、あんた私が日焼けしにくいの知ってるでしょ」
「ああ、美月って肌赤くなる人なんだ」
「そう。基本的に肌弱いのよ。それでもこの何にもないとこではお日様の下から逃げられないわけ。牢獄よね」
美月は公也に流し目を送る。一度は街で生活したい。彼女が常々呟いている言葉を、公也は反芻した。
「カコちゃんの白いワンピース、正統派だよね! 私でもこのぐらいは可愛い子だって知ってるもん!」
「いや、だったらお前もそうしろよ」
「私じゃ似合わないよ。カコちゃんみたいな、笑顔がにっこり可愛い子が似合うんだって」
凪沙の言葉に、香琴は微笑みながら首を横に振る。
「私より、ナギちゃんの方が似合うと思うな。美月ちゃんも」
「香琴はそういうのやりなさいよ。私、型にはまった女の子するの嫌なの」
「その割には凪沙みたいな野生児っぽい生き方はしないよな、お前」
公也がぼやくと、美月は彼を少し睨んで無愛想に返事をした。
「型にはまった女の子と野生児はイコールで結べる?」
「悪かったよ。でもさ、向こうには変わったのいたよ。普通が嫌だからって自分のことボクっていう女の子とかさ、本当にアニメとかラノベに出てきそうな奴。そっから比べたら美月なんてすげー普通の女の子だよ」
公也の反論に、珍しく美月が口を閉じる。少し唇を曲げているところからして、自身の想像を超えた世界があると知り、悔しかったのだろうと公也は一人悦に入っていた。
「ハムくん、色々知ってて面白いな」
「……人間がたくさん集まってりゃ変な奴もいるってだけだよ。変わってるっていうつもりはないけど、美月達みたいな個性的な奴も、別に多かったわけでもないし」
「そういう風に私達をかばえるところがハムくんのいいところだ。うん、やっぱりハムくんには村にいてもらおう」
凪沙が先頭でのんきな事を口走る。
馬鹿なことを――と、公也が口走りそうになった時、公也の服の端が、後方に力なく引っ張られた。
少し後ろを向く。服に手を伸ばしていた香琴が、いつものように小首を傾げて微笑んでいた。
「ハムくん、今から一緒に、そこの海辺に行かない」
「……香琴、どうしたのあんた」
「何でもないよお。さっきのハムくんの話聞いてたらね、ハムくんがどんなとこで生活してたか気になったの」
公也は口を閉じたまま、前方の凪沙を見た。凪沙は大空を仰ぎながら、「うん!」と大きな笑い声を上げた。
「探検隊には結束も必要だ。ハム隊員、カコちゃんに街のことちゃんと教えるんだぞ」
「あ、うん……」
何か釈然としない。ただ美月は何も言わず、凪沙と共に自宅の方へ向かってしまった。
もし彼女に何か教えられるとして、どんな話をすればいいのだろう?
あぜ道から、潮騒が聞こえる堤防へと近づく間、彼の思考は袋小路に落ちてしまった。
何も言えず、自分の中に落ちて音さえも聞こえない。長い距離を歩いたはずなのに、いつの間にか着いていた、そんな感覚を覚えた。
香琴は堤防に肩肘を乗せ、水平線を微笑みながら見つめた。
「冬は寒いんだよ」
香琴がぽそっと言う。何を言いたいのか察せず、彼は簡単な返事をよこした。
「まあ、そうだろうな」
「美月ちゃん、釣りとか上手だし。ハムくんは向こうでこういう海来たことある?」
「……そうだな、プールとかは行ったことがあるけど、泳ぎも得意じゃないし、行ったことないかな。それにさ、前言ったけど、俺、アニメとか好きな奴だから」
息詰まりそうな空気を破りたくて、卑下する言葉を吐いてみる。香琴は「ふふ」とだけ反応して、また遠くの景色に目をやった。
「街の話聞きたいんだよな」
「そうだね、街じゃなくて、ハムくんがどういう風に生活してたのか、そういうの」
「……ごくごく普通に生活していたよ。今はさ、親父が何とかしてくれるけど、うちんとこ母親亡くなってるから、ちょっと食生活荒れてた時期もあった」
公也の落ち着いた声に、香琴は視線をよこさない。
「食生活以外は荒れなかったの?」
「凪沙よりひ弱な俺じゃ荒れてもどうしようも出来ないだろ。普通に学校行って、普通に家に帰って。で、小遣い貯めてアニメとかのグッズ買って。そっから考えたら、今と全然違うなあ」
公也は香琴から視線を外し、同じように水平線の向こうを見た。何も見えない。海の青と、空の青の境が、ぼやけて見えた。
あの頃も楽しくなかったわけではない。友人達と適当な話題をして、適当に過ごした。
でも、そこまで深く付き合う親友はいなかった。刹那的に過ごして、時間の流れに身をゆだねていればそれでいいと思っていた。
「香琴は友達とかどうだったの」
「ナギちゃんと美月ちゃんのこと?」
「いや……前に美月にスクールバスで県外に移動してたって聞いたから。同年代の友達とかいたのかなって」
香琴は薄く笑みながら、小首を傾げ、少し息を吸った。
「ナギちゃんとか美月ちゃんみたいに引っ張ってくれる人がいないと、友達出来ないんだ」
「じゃあ、同年代の友人はいなかったの?」
「うん。私の友達はナギちゃんと美月ちゃん、それと、ハムくん」
自分の名前が響き、反射的に振り向く。
彼女は温かく笑いながら、彼の目に自分の視線を重ねていた。
「ハムくんは街に戻りたいの?」
「……正直、ちょっと分からなくなってきた。ここで不便だって思うこともたくさんあるけど、みんなもいるし」
「ハムくんがそう言ってくれるの、嬉しいな」
香琴はゆっくりともたれかかっていた堤防から身を起こし、置いていた鞄を手にした。
潮風が吹く。彼女の揺れた髪が、公也の腕に触れた。
さらりとして、輝く、宝石のような香琴の黒髪を、公也はしばらく見つめていた。
香琴は何も言わず、それぞれの家がある丘の方へ歩き出す。
結局何が聞きたかったんだろう――そんな言葉もまた口に出せず、公也は一歩進んだ。




