第15話:記憶の余韻(エピローグ)
──正しく、傷を負って
季節は巡り、商店街を濡らしていた雨は、乾いた秋の風に変わっていた。
あの日、忽然と姿を消した「無銘雑貨店」の跡地には、今では無機質な工事用のフェンスが張り巡らされている。再開発計画が再び動き出し、古い木造店舗の残滓は欠片も残っていない。
俺は、いつものように残業を終え、その空き地の前を通りかかった。
かつてのような異界感はない。琥珀色の光も、古時計の刻む音も、もう聞こえない。
「……っ」
ふとした瞬間に、胸を締め付けるような鈍い痛みが走る。
それは、他人の悲しみに共鳴する過剰な反応ではない。俺自身の内側から溢れ出す、剥き出しの後悔の痛みだ。
サヤを守れなかったこと。救急車を呼ぶのが遅れたこと。そして、彼女の存在を世界から消し去ろうとした、己の傲慢。
店主が言った通り、俺は正しく傷を負いながら、この世界を生きている。
忘れることよりも、覚えていることの方がずっと辛い。けれど、この痛みこそが、彼女がこの世界にいた「重み」なのだと、今の俺にはわかる。
──変化する世界
街の様子は、あの日以来少しずつ変わっていた。
あの日、自分の娘の名前を忘れて途方に暮れていた女性は、今では娘と共に、笑いながらこの道を歩いている。
育児に悩んでいた母親も、いじめに苦しんでいた少女も、消したはずの記憶が「代償」を伴って戻ってきたはずだ。それは過酷な現実かもしれない。けれど、彼女たちの瞳には、自らの足で地面を踏み締める、確かな力強さが宿っていた。
俺たちが犯した禁忌は、もう二度と繰り返されない。
記憶は売買されるものではなく、自分という人間を形作るための、唯一無二の結晶なのだから。
──約束の証
俺は左手の薬指に視線を落とした。
かつてあった白い日焼けの跡は、もうほとんど消えかかっている。
代わりに、俺は休日のたびに、花を買い、あの日事故のあった国道へ向かうようになった。誰にも知られることなく、けれど確かに存在した一人の少女を、正しく悼むために。
ふと、視界の隅で人影が動いた。
空き地の向こう側、新しく建てられた街灯の下。一人の青年が、所在なさげに佇んでいた。
中性的な、どこか浮世離れした面影。
けれど、以前のような冷徹な静寂はない。彼は少しだけ猫背で、肌寒そうに自分の肩を抱きながら、看板のない空地をじっと見つめていた。
「……店主」
俺が声をかけると、彼は驚いたように肩を揺らした。
ゆっくりと振り返ったその瞳には、今や数百年もの静寂ではなく、二十代の青年らしい、戸惑いと生気が宿っている。
「……ああ、君ですか。いえ、店員さん、だったかな」
彼は少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔には、かつての「創造主」としての威厳は微塵もなかった。
「もう店はありませんよ。……私はただ、妹が、今日は少しだけ笑っている気がして。ここに来れば、彼女に会えるような気がしたんです」
俺は彼の隣に並び、一緒に空き地を見つめた。
そこには何もない。けれど、俺たちの心の中には、世界で一番豊かで、一番悲しい思い出が、確かに根を張っている。
──無銘の明日
俺と彼は、どちらからともなく歩き出した。
これからは「共犯者」ではなく、同じ痛みを知る友人として、この不完全な世界を歩いていくのだろう。
「お腹、空きませんか」
俺の問いに、彼は少し考えてから頷いた。
「……そういえば、ここ数ヶ月、まともに食事の味を感じていなかった気がします。人間というのは、不便なものですね」
空き地の向こう、街の灯りが眩しく輝いている。
思い出は、時に人を呪い、時に人を救う。
正しく失うことを知った俺たちは、もう二度と、自分という名の物語から逃げ出すことはない。
琥珀色の光が、今度は街の至る所で、誰かのささやかな日常を照らしていた。
(完)




