第二章2 背徳の黄金週間
廃ビルの窓を割った、あの乾いた音。
そして、腕の中で感じた沙紀の体温と、俺の中に残った微熱。は、連休前の浮ついた空気に満ちた教室に戻っても、俺の脳裏から離れようとしなかった。
翌日から、暦の上ではゴールデンウィークが始まる。
終礼の後、三角さんが「良い休日を」とクラス全員に微笑みかけていた。その純白の輝きは相変わらず眩しかったが、今の俺には、その光がどこか遠い場所にあるもののように感じられた。
帰宅後、俺は自分の部屋で、返却された古いカメラを手に取った。
現像された写真は、沙紀の手によってこの世界のどこかへばら撒かれた。俺を縛る鎖は、理屈の上ではもう消えたはずだ。
この連休、彼女からの呼び出しを無視して、また元の「無色」な日常に戻ることだってできる。
それなのに。
スマホの画面が震え、彼女の名前が浮かび上がった瞬間。
俺の心臓は、恐怖とは別の、名付けようのない感情で跳ねた。
ゴールデンウィークという、世界から隔絶された日々。俺の日常は完全に沙紀によって塗りつぶされていた。
俺の足は放課後……いや、この連休中も、吸い寄せられるように彼女の隣へと向かっていた。
「ねえ、真白。次はあそこ」
「……またかよ」
呆れ混じりに応えながらも、俺は彼女が差し出すスプレー缶を受け取っていた。
高架下のコンクリート。誰にも見られないはずの死角に、俺たちは「自分たちの印」を書き殴る。彼女と俺のインクが混ざり合う。
傍観者だった俺が、今や街に傷跡を残す当事者へと成り下がっている。
だが、その背徳感は、不思議なほど心地よかった。
連休の中日、夜の帳が下りた頃。俺たちは街外れの高台にある公園にいた。
街灯の届かない芝生の広場からは、眼下に眠る街の灯りが、宝石の屑をぶちまけたように輝いている。
何もできず、ただ日が暮れていくのを眺めるだけの連休。それが、彼女といるだけで「特別な日」へと変わっていく。
俺は芝生の上に寝そべって、ただ見えない雲に手を伸ばしていた。
「……ねえ、真白。一本、ちょうだい」
錆びついたブランコに座っていた沙紀が、俺のポケットを指差した。
俺は無言で、安っぽい青い紙箱を取り出す。中に入っているのは本物の煙草じゃない。砂糖とココアで固められた、子供騙しの「シガレット」だ。
俺は一本抜き取って自分の口にくわえ、さらにもう一本を沙紀に渡した。
彼女は俺のすぐ隣まで顔を寄せ、指先で俺のくわえたそれを支える。彼女は自分の分に火を点ける真似をする代わりに、俺が口にしている「煙草」の先に、自分の「煙草」をそっと重ねた。
シガーキス。
本来なら火を分け合うためのその仕草を、火の灯らない砂糖の塊でなぞる。
沙紀の顔が、吐息が触れるほど近い。
彼女はそのまま、空っぽの肺からゆっくりと息を漏らした。
その不確かな吐息は、夜の静寂にすっと溶けて、窓のない夜の向こう側へと消えていった。
「……俺たちはいつまで、こんなことをしているんだろうな」
「いいじゃん。認めてしまえばいいのに」
沙紀はシガレット越しに、俺の唇に微かな圧をかけた。
本物の火は点いていない。それなのに、重なり合った砂糖の棒を通じて、彼女の胸にある熱が俺の中に流れ込んでくるような錯覚を覚える。
揉み消すたびに、胸に火が灯る。
そんな、厄介で消えない甘ったるい硝煙。
「気付いちゃったんだ。私は、ずっとこのままでいい。真白と一緒に、この靄の中にいたいんだよ」
沙紀はシガレットを噛み砕くと、甘ったるい匂いを残して、意地悪く、けれどどこか寂しさを残して笑った。




