第二章1 灰色の微熱
翌日。学校の風景は何一つ変わっていない。
昨日、路地裏で写真がばら撒かれたことなど、誰も知らないはずだ。
だが、俺の心象風景だけが、取り返しのつかないほど歪んでいた。
正門をくぐろうとした時、背後から声をかけられた。
「おはよう、夏秋冬くん。……今日も早いね」
爽やかな朝の光を背負い、クラス委員長の彼女が歩み寄ってくる。整えられた制服に、揺れる黒髪。彼女は今日も一点の濁りもない「純白」を纏っていた。
「……おはよう、三角さん」
「顔色が悪いよ? 何か困ったことがあったら、私に相談してね。」
彼女の献身的な優しさが、今は刃のように俺を切りつける。俺は彼女を、最悪な形で裏切り続けているのだから。昨日盗んだリンゴの、芯だけが転がっているような罪悪感がこびりついていて、俺は逃げるように視線を逸らした。
俺が求めていた「無色」の世界は、もうどこにもない。
代わりにあるのは、隣から漂ってくる、月夜の晩に咲く花のような、甘く毒のある紫色の気配だ。
「……ねえ、共犯者くん」
放課後、終礼のチャイムが鳴るのと同時だった。
春ヶ原沙紀が、当然のような顔をして俺の机を覗き込んできた。クラスの連中の視線が突き刺さるが、彼女はそんなもの、空気ほどにも気にしていない。
「昨日の続き、しよっか」
「続きって……」
「遊びの続きだよ。ほら、行くよ」
彼女は俺の返事も待たず、俺の手首を掴んで立ち上がった。
俺は、こちらを見つめる彼女の心配そうな視線と罪悪感から逃げるように、春ヶ原に引かれるまま教室を後にした。
学校を出て、人通りの少ない裏通りへと向かう。
春ヶ原は道端に落ちていた石ころを拾い上げると、無邪気な笑みを浮かべて古い廃ビルの窓を見上げた。
「真白くん、あそこ。一番高いところ、狙ってみて」
「……正気かよ。」
「いーじゃん。どうせ壊れるのを待ってるだけのビルなんだから。はい、これ」
彼女は無理やり、俺の掌に冷たい石を握らせた。
彼女の顔が、耳元まで近づく。
「壊しちゃおうよ。君の中に溜まってる、その真っ白で退屈なプライドごとさ」
「これで最後だからな!」
――ガシャン、という乾いた音が路地に響いた。
俺が投げた石が、薄汚れたガラスに風穴を開ける。その瞬間、喉の奥からせり上がってくるような、どす黒い高揚感がまた全身を駆け巡った。
「あはは! 上手じゃん、真白!」
春ヶ原は子供のように跳ねて喜ぶ。
その時だ。彼女が小さな段差に足を取られ、体勢を崩したのは。
「わっ……!」
「あ、危ない!」
反射的に、俺は彼女の細い肩を抱きとめていた。
鼻をくすぐる、彼女独特の甘い香り。腕の中に収まった彼女の体は驚くほど華奢で、さっきまでの「悪魔」のような威圧感はどこにもなかった。
「……あ、ありがと」
春ヶ原は俺の腕の中で、気まずそうに視線を泳がせた。
頬が微かに赤らみ、いつもの挑発的な余裕が消えている。その「年相応の女の子」としての反応に、俺の心臓が、恐怖とは別の理由で大きく跳ねた。
「……別に。怪我されたら、俺が困るから」
「ふふ、冷たいなあ」
彼女はすぐに体勢を立て直し、いつもの小悪魔のような笑みを浮かべて俺から離れた。
だが、その一瞬の「弱さ」を見てしまったせいで、俺の中の境界線はさらに曖昧になっていく。
手に触れた春ヶ原の感触が、暗がりに響く彼女の笑い声が、もはや今の俺には心地よくも感じられていた。
空はすでに、燃えかすのような紫色の夕闇に染まり始めていた。




