第三章2 白昼夢の記録者(2)
文化祭の準備が始まって一週間。
放課後の教室に漂う熱気は、早くも湿り気を帯びた「義務感」へと変質していた。
出し物は『白雪姫』の演劇。だが、進学校の弊害か、受験勉強や塾を理由に居残りを渋る連中が続出し、現場の空気は最悪だった。
「――ちょっと、男子! そっちの背景パネル、もっと丁寧に塗ってって言ったでしょ」
「わかってるって。でもさ、これ委員長が勝手に決めたデザインだろ? 凝りすぎなんだよな」
舞台袖で小道具を作っていた男子グループから、隠しきれない不満が漏れる。
教壇で進行表を握りしめる千春の指先が、白くなるほど強張っていた。彼女は委員長として、そして主役として、誰よりも動いている。だが、その正しさが、かえって余裕のない周囲には「押し付けがましい理想」として映り始めていた。
「ごめん。でも、せっかくやるなら良いものにしたくて……」
「委員長はいいよな、内申点になるし。俺らはただの労働力なわけ?」
冷ややかな言葉が、千春の言葉を遮る。
彼女は中学時代からそうだった。真っ直ぐで、純粋で、だからこそ濁った集団の中では、その白さが眩しすぎて浮いてしまう。
俺はカメラのファインダー越しに、その光景を眺めていた。
記録係。傍観者。……だが、このままでは撮影対象の顔がどんどん暗くなる。それは記録係として、少し都合が悪い。
「……おい」
俺はわざとらしく重い足音を立てて、不満を垂れていた男子たちの前に立った。
「なんだよ夏秋冬。お前は撮ってるだけで楽でいいよな」
「ああ、楽だよ。お前らが無能なおかげで、面白い『失敗の記録』が撮れそうで助かってる」
一瞬、教室が静まり返った。
「……は? なんだよそれ」
「いや、見てて滑稽だなと思って。やりたくないなら、今すぐ帰ればいいだろ。委員長に文句垂れて、やってる感だけ出して……。お前らがダラダラ居座ってるせいで、俺の撮影が終わらないんだよ。さっさと終わらせて消えてくれ。お前らの面を撮り続けるのも、もう飽きたんだわ」
俺は冷え切った視線を彼らにぶつけた。
クラスで浮いている「傍観者」というレッテルを、あえて自分から補強するように、傲慢に、卑屈に言い放つ。
「……っ、なんだよお前! 委員長にいい顔したいだけかよ!」
「いい顔? まさか。俺はただ、俺の時間を奪うゴミを片付けたいだけだ。ほら、やるのか帰るのか、どっちかにしろ。やるなら一秒でも早く終わらせろ」
千春という「高潔な正義」に対しては反発した連中も、俺という「明確な悪意」に対しては、団結して対抗しようとする。
「……けっ。わかったよ、やればいいんだろ。おい、さっさと終わらせるぞ。こいつにこれ以上バカにされてたまるか」
男子たちは吐き捨てるように作業に戻った。以前よりもずっと、手際よく。
教室内には俺への軽蔑と、それによって無理やり醸成された、歪な一体感が生まれていた。
俺は何も言わず、再びカメラを構える。
作業が終わった後の教室。千春がカメラ機材を片付けている俺を待っていた。
「……夏秋冬くん」
「……なんだよ。まだ何か撮るものがあるのか?」
俺が視線を逸らして通り過ぎようとすると、彼女は俺の袖を、中学の頃と同じように小さく掴んだ。
「ありがとう。……でも、あんな風に自分を悪く言うのは、もうやめて」
千春の瞳は、悲しげに揺れていた。だがそこには、俺への軽蔑なんて微塵もなかった。
「……勘違いするな。俺はただ……」
「わかってるよ。あなたが、私……ううん、クラスのために、わざと嫌な役をやってくれたことくらい。中学の時からそうだったよね。自分を傷つけて、誰かを守ろうとする。……でもね、私だけはちゃんと見てるから。あなたが本当は、誰よりも素敵な写真を撮る人だってこと」
千春の指先の温もりが、制服の布越しに伝わってくる。
彼女は理解していた。俺の卑屈な立ち回りの裏側にある、不器用な意図を。
その理解は、今の俺にはあまりにも眩しすぎて、毒のように胸を締め付けた。
「……本当に何も分かってないな」
卑屈な本性を隠すためにも、俺は彼女の手を振り払い、足早に立ち去った。
そのやり取りを、教室の窓から眺めていた沙紀が、指先で窓ガラスをなぞった。
「……つまんない青春ごっこ。」
沙紀は、教師に置いたままになった「白雪姫」の台本を、見つめてこう言った。




