表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

貸し出し自由の本を借りたら、今度は僕が貸し出される番でした

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/13

 市立図書館の一階には、あまり人が寄りつかない一角がある。

 新刊コーナーでもなければ、人気作家の棚でもない。雑誌と郷土資料のあいだに挟まれた、妙に中途半端なスペースだ。

 和人がその場所の存在に気づいたのは、三か月ぶりに図書館へ来た雨の日のことだった。

 面接帰りのスーツは、もうアイロンの折り目も甘くなっている。駅からここまでの道で、傘の骨が一本折れた。

 就職活動は、ほとんどうまくいっていない。

 大学を卒業して一年。中小企業を中心に受け続けて、落ち続けている。今はアルバイトで食いつなぎながら、母の薬代をやりくりするのが精一杯だ。

 図書館だけは、まだ和人のことを追い払わなかった。

 冷暖房は効いていて、机も椅子も無料で使える。静かにしてさえいれば、居場所について何も聞かれない。

 その日も、午後いっぱいを就活本の棚の前で過ごしたあと、和人はふと、郷土資料コーナーのほうへ歩いていった。そこはいつも、人影が薄い。気分転換になるかと思ったのだ。

 角を曲がると、見慣れない白い棚が一つ、壁ぎわに置かれていた。

 新品のスチールラックで、中段の一枚板にだけ、黒いマジックで手書きのプレートが立ててある。

「貸し出し自由」

 ほかには、何も書かれていない。

 棚自体には、まだ本もほとんど並んでいなかった。

 ただ一冊、真ん中に薄い本が一つだけ置かれている。

 表紙はくすんだ灰色で、題名も著者名も印刷されていない。図書館の分類ラベルも貼られていなかった。

 和人は周りを見回した。

 司書カウンターからは死角になっている。利用者も誰もいない。

「……イベント用の棚、かな」

 独り言が、低く漏れた。

 職業訓練講座の案内や、健康相談会のチラシが近くの壁に張り出されている。その一つだろうか。

 プレートには、どこにも「返却不要」とは書いていない。

 かといって、貸し出し条件も書かれていない。「自由」と言われると、かえって身構えてしまう。

 和人は、そっと本を手に取った。

 紙の手触りは、新しくもなく、古くもない。ページの断面には、わずかに黄ばみが浮いている。

 ぱらぱらとめくってみると、ところどころに線が引かれていた。ボールペンで書き込まれたメモもある。

「“この通りにして、本当に救われた。ありがとう”……?」

 ページの下のほうに、そんな走り書きが残されていた。ほかにも、「おかげで子どもが助かりました」「会社を辞めなくて済みました」といった短い感謝の言葉が、何ページかおきに挟まれている。

 肝心の本文は、自己啓発書のような口調だった。

 生き方のコツ、時間の使い方、健康への心がけ。具体的な行動を箇条書きに示し、「今日からこれだけは守ってください」と優しく諭してくる。

 だが、書かれている例がやけに細かく、どこかで自分のことを見られていたような気がした。

 和人は、じっと表紙を見つめた。

 このまま元の場所に戻せば、それで終わりだ。

 けれど、「自由」とわざわざ書いてある。

 和人はいまだに、何一つ「自由」にうまく選べたことがない。大学の学部も、就職希望先も、母の病院も。すべて周囲の都合と、ギリギリの条件で決まっていった。

 たまには、何かを掴んでみてもいいのかもしれない。

 それがくだらない偶然であっても、そうした「きっかけ」から人生が変わった人の話を、さっき読んだビジネス本で見たばかりだ。

 和人は、カウンターへ向かった。

「すみません。この本、借りられますか」

 職員の女性は、ちらりと和人の手元を見て、あっさりとうなずいた。

「はい、“貸し出し自由”の本ですね。図書カードをお願いします」

 貸出処理は驚くほど簡単だった。

 ピッという音と共に、いつものように紙のレシートが出てくる。

 返却期限の欄には、何も印字されていなかった。

「……返す日は、決まっていないんですか」

「はい。読了して、きちんと役目を果たしたと感じたら、お持ちください」

 職員は、にこやかに答えた。

 胸元の名札には「佐久間」とある。この図書館でよく見る顔だが、こんな棚の案内をするのは初めてだった。

「役目、ですか」

「読む人ごとに、内容が少しずつ変わる本なんです。なので、読み終えたら、その方のほうが詳しくなっていますから」

 言っている意味はよくわからない。

 けれど、そこに特別な響きはなかった。定型句を繰り返すような、職務的な声だった。

 和人は、そのまま本を小脇に抱えて図書館を出た。

 雨は、さっきよりも弱まっている。折れた傘をたたみ、小走りでバス停へ向かった。

 その夜、和人はいつもより少し早く寝床に入った。

 六畳のワンルームは、ベッド、折りたたみの机、レンジの乗ったミニ冷蔵庫でほとんど埋まっている。天井のシミをなぞるのにも飽きていた。

 テーブルの上に、例の本を置く。

 母の部屋と、この部屋のあいだには廊下が一本あるだけだ。母は薬のおかげで、今はぐっすり眠っている。

 和人は本を開いた。

 はじめのページには、大きな活字でこう書かれていた。

「この本は、あなたのために書かれています」

 ありきたりな導入だ、と一瞬思った。

 だが次の行には、和人のフルネームが印刷されていた。

「○○和人さん。お読みいただきありがとうございます」

 あわててページをめくる。

 印刷の文字は、どれも同じフォントだ。どこにも手書きの跡はない。

 続く章には、「現在のあなたの状況」と題した項目が並んでいた。

「大学卒業後、就職活動で苦戦している」

「正社員としての職歴はまだない」

「家計のため、コンビニの深夜シフトと家庭教師のバイトを掛け持ちしている」

「持病の母親がおり、介護と通院の付き添いが必要である」

 一行、一行が、和人の生活にぴたりと当てはまっていた。

 生年月日から、最寄り駅の名前まで書いてある。

 和人は、喉を鳴らす。

「……何だ、これ」

 視線を先に進めると、「目標」として、次のような項目が挙げられていた。

「一年以内に、安定した収入のある職につく」

「母親の治療方針を見直し、負担を減らす」

「生活の中に、一つ以上のささやかな楽しみを持つ」

 それは、漠然と思い描いていた「こうなったらいいな」を、少し整った言葉に置き換えたようなものだった。

 誰でも口にしそうな、当たり前の目標だ。けれど、ページの上に並ぶと、少し重みを持ち始める。

 本文は、その目標を達成するための手順を書き連ねていた。

「一週間以内に、図書館で職業訓練関連の資料を借りること」

「母親の担当医に、セカンドオピニオンの紹介を依頼すること」

「毎日の支出を三十日間記録し、“必要なもの”と“そうでないもの”に色分けすること」

 手順はどれも、具体的で、少しだけ面倒くさい。

 だが、不可能ではない。低い段差が、だらだらと続いているような感覚だ。

 ところどころに、「うまくいかない場合」という欄が挟まれている。

 そこには、「あきらめること」とは一言も書いていなかった。代わりに、「手段を変える」「期限を見直す」といった、淡々とした工夫が並んでいる。

 読み進めるうちに、和人の心の中に、妙な安心感が広がっていった。

 この通りにしても、すべてがうまくいくとは限らない。だが、少なくとも「何をすればいいか」ははっきりする。

 気づけば、夜中の二時を回っていた。

 和人は最後のページを閉じ、深く息を吐いた。

「……やってみるか」

 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。

 扉の向こうで、母の寝息がかすかに聞こえる。「貸し出し自由」の棚で見た、いくつもの感謝のメモが頭に浮かんだ。

 翌日から、和人の生活は少しずつ変わり始めた。

 図書館で職業訓練の案内を探し、ハローワークの窓口に行ってみた。

 セカンドオピニオンを求めて別の病院に足を運ぶのは気が引けたが、本に書いてあった通りに、「今の治療が正しいか確かめたい」という言葉を繰り返した。

 驚いたことに、母の新しい担当医は、今までの薬の組み合わせを見直し、負担の少ない治療法をいくつか提案してくれた。

 しばらくすると、母の副作用は目に見えて軽くなった。

 支出の記録を続けているうちに、コンビニで何となく買っていたお菓子や、使いもしないサブスクリプションを解約することに気づいた。

 その分の金額を積み立てていくと、半年ほどで、万単位の貯金になった。

 ただの偶然かもしれない、と何度も思った。

 それでも、和人は本に書かれた「次の一歩」を守り続けた。書かれていることの多くは、ネットで検索すれば出てくるような、当たり前のアドバイスばかりだ。

 だが、本は「いつ」「どの順番で」やるかまで、最初から決めてくれていた。

 忙しいときには「ここは飛ばして構わない」と書いてある一方で、「ここだけは必ずやってください」と赤字で印刷された項目もある。そのバランスが、妙に絶妙だった。

 八か月ほど経ったころ、和人は小さなシステム会社に採用された。

 職業訓練で覚えたスキルを評価されたのだ、と面接官は言った。

 正社員としての初任給が振り込まれた日、和人は家計簿アプリの数字を見て、しばらく呆然とした。

 これで当面、母の薬代に困ることはない。

 本の最後の章、「維持と感謝」のページには、こう書いてあった。

「ここまで来られたのは、あなたが“やった”からです。この本を読んだことは、きっかけにすぎません。

 ただし、きっかけは、次の人にも貸してあげてください」

 そこまで読んで、和人はようやく、「返却」の二文字を意識した。

 あの本が、この変化のすべての原因だとは思わない。

 けれど、起点になったのは確かだ。

 仕事に慣れ、新しい日常が固まりつつあるある日曜日、和人は本を手提げ袋に入れ、久しぶりに図書館へ向かった。

 図書館は相変わらず静かだった。

 ただ一つ変わったのは、入口近くの掲示板に貼られたポスターだ。

「“貸し出し自由”ご利用の皆様へ」

 そう書かれたポスターには、「おかげさまで好評につき、本棚を増設しました」と続いている。

 利用者の感謝の声が、いくつか掲載されていた。

「五年越しの不妊治療が実りました。ありがとうございます」

「会社の倒産で路頭に迷っていましたが、再就職先が見つかりました」

「借金を返すことができ、やり直す勇気をもらいました」

 和人は、胸の内でうなずいた。

 自分と似たような人間が、全国にどれだけいるのだろう。

 郷土資料コーナーのほうへ行くと、「貸し出し自由」の棚が二つに増えていた。

 手書きのプレートは、きちんとラミネート加工されている。さすがに仮設ではなく、正式な設備になったらしい。

 一つ目の棚には、和人が借りたのと同じような灰色の本が、数冊ずらりと並んでいた。

 二つ目の棚には、本は一本もない。その代わり、小さなクリアポケットに入れられた写真が、カードのように整然と並べられている。

 写真には、男女さまざまな年齢の顔が写っていた。

 どの写真にも、薄い笑いが浮かんでいる。

 その上には、小さなプレートが一枚。

「前の持ち主」

 和人は、足を止めた。

 プレートの意味を理解するまでに、数秒かかった。

 “前の持ち主”という言葉の指す先が、あまりにも曖昧だったからだ。

 本の前の持ち主、つまり以前に借りた人たちという意味なのか。

 それとも、この棚そのものの。

 どちらにしても、なぜ写真をここに飾る必要があるのか、よくわからない。

 和人は、本を抱え直した。

 写真の一枚一枚には、小さく日付が印刷されている。

 一番古いものは、去年の春。

 最近のものは、つい先月の日付だ。

 和人は、ふと妙な違和感を覚えた。

 この街で、こんなに「奇跡」が起きているのだとしたら、ニュースになってもよさそうなものだ。

 ポスターに載っていた感謝の声以外に、噂を耳にしたことはない。

 身震いを一つしてから、和人はカウンターへ向かった。

「すみません。この本、返却したいんですが」

 職員の佐久間が、顔を上げた。

 以前と変わらない笑みを浮かべている。

「はい。お役に立てましたでしょうか」

「ええ……まあ」

 和人は、かすかに笑い返した。

 職員はバーコードリーダーを取り出し、例の本にかざす。

 ピッという音が鳴った。

 画面をちらりと見て、佐久間は満足げにうなずいた。

「ご返却、確かに承りました。和人さんのフィードバックは、とても良好です」

「フィードバック?」

「はい。こちらの本は、読まれた方の行動と結果を、一定期間モニタリングしています。“成功”の度合いは個々人で違いますが、和人さんの場合は、短期間に目に見える変化が多く見られました。モデルケースですね」

 さらりと言われて、和人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「……それ、どうやって調べてるんですか」

「図書館のサービスの一部ですから」

 職員は、質問の芯をゆるくかわすように笑った。

 その指は、慣れた手つきで何かの書類を引き出してくる。

「では次は、和人さんの番です」

 佐久間は、そう言って白紙の用紙を和人の前に置いた。

「こちらに、ご署名とご捺印をお願いします」

 用紙の上部には、見慣れた文字の並びがあった。

「貸し出し登録申込書」

 ただし、その下には小さく、こう書き足してある。

「※人材登録用」

 和人は、眉をひそめた。

「あの、これは……?」

「“貸し出し自由”の本をご利用いただいた皆さまには、一定期間、当館の“人材バンク”に登録していただいております。困っている方のところへ、本と一緒に行って、体験談や具体的なアドバイスをお届けいただくサービスです」

 職員は、パンフレットのようなものを取り出して見せた。

 そこには、「成功体験をシェアしませんか?」「あなたの経験が、次の誰かの一歩になります」といった、前向きなコピーが並んでいた。

「ボランティア活動のようなものとお考えください。もちろん、基本的な生活は保証されますし、ご本人の安全にも十分配慮しております」

「……断ったら?」

「おや」

 佐久間は、少しだけ目を丸くした。

「和人さん、“貸し出し自由”の棚のご利用案内をお読みになりませんでしたか」

「案内?」

「棚の横に、小さく貼ってあります。“この本を借りた方は、後日、同様の支援サービスにご協力いただきます”と。字が小さくて、気づかれなかったかもしれませんね」

 説明は、やけに事務的だった。

 あたかも、細かい利用規約を読み飛ばした顧客に、コールセンターが淡々と対応するような口調だ。

 和人は、唇を噛んだ。

「そんなの、契約違反じゃないですか。俺は聞いてない」

「“聞いていない”ことと、“書いてあるものを読まなかった”ことは、別問題です」

 佐久間の笑みが、ほんの少し薄くなった。

「それに、もう結果をご享受いただいていますからね。お母様の病状も、就職の件も」

 どうしてそれを、と言いかけて、和人は口をつぐんだ。

 本が自分の生活を見透かしていたように、図書館もまた、何らかの方法で情報を集めている。

 和人の脳裏を、一瞬だけ小さな疑問がよぎった。

 もしここで大声を上げて、契約を拒否したらどうなるのか。

 警備員が来て追い出されるのか。それとも何か、もっと別の「処理」が待っているのか。

 しかし、そのどれも現実味を帯びなかった。

 カウンターの向こうには、相変わらず静かな図書館の風景が広がっている。

 数秒の沈黙のあとで、別の職員がひょいと顔を出した。

「佐久間さん、新しい登録の方?」

「ええ。モデルケースの方ですよ」

「それは良かった。今、ちょうど地方の小さな図書館から依頼が来ていてね。若い男性の成功体験を聞きたいって」

 会話は、まるで荷物の発送手続きのように、軽く進んでいく。

 和人は、白紙の申込書を見つめた。

 その左上には、見覚えのあるバーコードラベルが貼られている。自分の図書カードと同じ番号だ。

 つまり、彼がこれに署名した瞬間、その番号は「利用者」ではなく、「貸出可能な“何か”」として登録されるのだろう。

 ペンを握る手が、少し震えた。

「期間は……どれくらいなんですか」

「特に定めておりません。必要とされる限り、という形になります」

 佐久間は答えた。

「もちろん、ずっと同じ場所に送られるわけではありませんよ。あるところでは、就活中の学生さんの相談に乗っていただき、別のところでは、介護に悩むご家族の話を聞いていただく。場合によっては、ただそこにいるだけで安心する方もいます」

 それは、仕事と言えるのだろうか。

 あるいは、まったく別の何か――「本」と呼ばれるものに近いのかもしれない。

 和人が言葉を探しているあいだに、別の職員が棚のほうから戻ってきた。

「“前の持ち主”のスペース、空けておきましたよ」

「ありがとうございます。和人さんのお写真は、そちらに」

 カウンターの足元には、小さな白いバックパネルが置かれている。

 佐久間は、それをひょいと持ち上げた。

「こちらを背景に、一枚だけ撮らせていただきますね。図書館の統計上の数字に過ぎませんから。ご安心ください」

 和人は、笑うべきかどうか、わからなくなっていた。

 逃げ出すという選択肢は、頭の片隅にあった。

 だが、自分が今持っているものを思うと、足が床に貼り付いたように動かなかった。

 安定した収入。母の治療。六畳の部屋に置いた、少しだけ良いマットレス。

 それらを手放す代わりに、何が戻ってくるだろう。

 世界は、いつも何かしらのバランスを取っているように見える。

 奇跡のような幸運には、どこかに帳尻がある。

 和人は、深く息を吸った。

「……わかりました」

 ペン先が紙を滑る音が、図書館の静寂にやけに大きく響いた。

 名前を書き終えた瞬間、バーコードリーダーが紙の隅を読み取る。

 ピッという音がして、レジスターのような小さな端末がレシートを吐き出した。

「登録完了です」

 佐久間は、いつもよりほんの少しだけ丁寧に頭を下げた。

「和人さん、これまでのご利用、ありがとうございました。これからの“ご利用”も、どうぞよろしくお願いいたします」

 和人は、笑うことも怒ることもできず、曖昧に会釈を返した。

「こちらが、説明書になります」

 差し出された薄い冊子の表紙には、「貸し出し自由 人材用マニュアル」と書かれている。

 その隅には、小さくこんな一文が添えられていた。

「あなたが“本”になることで、世界は少しだけ読みやすくなります」

 写真撮影は、一瞬で終わった。

 和人は、白いバックパネルの前に立ち、言われるままに軽く口角を上げた。

 シャッター音が鳴る。

「はい、ありがとうございます。とても良い表情です」

 佐久間は、カメラの画面を確認しながら満足そうにうなずいた。

 そのデータはすぐにパソコンに転送され、小さなカードサイズに印刷される。

 和人の顔写真が、ラミネート加工された。

 職員の一人が、それを持って「前の持ち主」の棚のほうへ行く。

 空いていた一つのポケットに、和人の写真が差し込まれた。

 棚の前をたまたま通りかかった男性が、ちらりと眺める。

「へえ、新しい人が増えてるな」

「この棚、何なんでしょうね。前から気になってたんですけど」

「さあ。図書館でボランティアしてる人たちじゃないですか?」

 会話はすぐに途切れ、二人は別の本棚へと歩いて行った。

 誰も、写真の人物がどこにいるのかを、確かめようとはしない。

 和人は、カウンターの内側へ案内された。

 普段、利用者が立ち入ることのない場所だ。

 そこには、小さなドアが一つある。非常口でも倉庫でもない。

 プレートにはただ、「登録室」とだけ書かれている。

 佐久間はドアを開けた。

「こちらで少しだけ、オリエンテーションを行います。そのあと、最初の派遣先の情報をご案内しますね」

 部屋の中には、机が二つと、椅子が数脚。その隅に、古びたロッカーが並んでいる。

 壁には世界地図と、日本地図が貼られていた。

 和人が一歩、足を踏み入れた瞬間、背後でドアが静かに閉まった。

 ノブを試してみると、鍵はかかっていなかった。

 だが、開ける気にはなれなかった。

 机の上には、一枚のカードが置かれている。

 そこには、派遣先として、小さな町の名前と、人口、主な産業などが簡単に書かれていた。

「こちらの町の公民館で、若者向けの就職相談会が開かれます。和人さんには、そこでご自身の経験をお話しいただきます」

 佐久間は説明した。

「交通費と滞在費は、すべてこちらで負担いたします。場合によっては、次の派遣先へそのまま移動していただくこともありますが、その分、いろいろな土地を見ることができますよ」

 それは、慰めの言葉なのか、それとも観光パンフレットの一節なのか。

 和人には、もうどうでもよく思えた。

 母のことが、頭をよぎる。

 仕事はどうするのか。会社には、何と説明されるのか。

 そんな疑問を一つ一つ並べていくと、どれもこれもが、すでにどこかで処理済みの書類のように思えてきた。

 図書館は、「本」を紛失しない。

 代わりが必要なら、新しい「本」を調達するだけだ。

 和人は、机の端に置かれたボールペンを手に取った。

 マニュアルの一行目を、読み上げてみる。

「“あなたは、すでに誰かの役に立っている。その事実を、これからも続けてください”」

 それは、おそろしく曖昧で、逃げ道のない命令のようでもあった。

 数時間後。

 郊外の小さな駅に、一本の地方線が滑り込んでいく。

 車両の一番後ろの座席に、見慣れない顔の青年が一人座っていた。

 膝の上には、地味な灰色の本が一冊。

 その表紙には、やはり何の文字も印刷されていない。

 青年は、車窓に映る自分の顔をじっと見つめた。

 そこには、六畳一間と図書館のあいだを往復していた頃とは違う、わずかな自信と疲労の影が刻まれている。

 駅に着けば、誰かがこの本を受け取りに来るだろう。

 おそらく、あの町の市立図書館の職員が。

 青年は、膝の上の本にそっと触れた。

「この本は、あなたのために書かれています」

 ページの一枚目に、そう印刷されているのだろう。

 ただし、そこに書かれる名前は、もはや和人ではない。

 誰か別の、まだ顔も知らない人間の名前だ。

 列車が、静かに減速し始めた。

 駅のホームには、数人の人影が見える。

 そのうちの一人が、手作りらしい小さなプレートを掲げている。

「“貸し出し自由”ご利用希望者様 こちらです」

 和人は、かすかに笑った。

 それは、諦めとも、達観ともつかない微妙な笑みだった。

 彼は立ち上がり、本を手に、ドアの方へ歩いていった。

 駅に降り立つと、プレートを持った職員らしき中年の女性が、ぺこりと頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました。長旅、お疲れ様でした」

「いえ……こちらこそ」

 和人は、返事をしながらふと、駅舎の外の掲示板に目を止めた。

 そこには、色あせたポスターが一枚貼られている。

「市立図書館 “貸し出し自由”コーナーのお知らせ」

 ポスターの隅には、小さな文字で、こう書かれていた。

「※ご利用の際は、必ず利用案内を最後までお読みください。

 本の貸し出しと同時に、“人材”の貸し出しも行われる場合があります」

 和人は、その注意書きをしばらく見つめていた。

 あの街の図書館にも、きっと同じ文言があったのだろう。

 ただ、彼がそれを読まなかっただけだ。

 職員の女性が、心配そうに声をかけた。

「大丈夫ですか?」

「ええ」

 和人は、ポスターから目を離し、微笑んだ。

「ちゃんと、読みましたから」

 その笑みが何を意味するものだったのか、職員にはわからない。

 ただ、彼女は安心したようにうなずき、駅前の小さなロータリーへと歩き出した。

 その後ろを、和人が静かについていく。

 灰色の本は、彼の腕の中でおとなしくしている。

 次にそれを開く誰かの目に、自分の名前が印刷されていることは、きっとない。

 和人はもはや、「本」のほうなのだから。

 図書館では今日もまた、新しい「貸し出し自由」の棚が一つ、どこかの片隅に増設されている。

 棚が増えるたびに、「前の持ち主」の写真も一枚ずつ増えていく。

 けれど、その写真の人物が今どこで何をしているのか、気に留める利用者はほとんどいない。

 皆、自分の番が来るまでは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ