第一章:灰と霧の谷
第一章:灰と霧の谷
風が鳴いていた。
目を開けたとき、ケビは濃霧の中に立っていた。地はぬかるみ、遠くで鐘のような音が何度も反響していた。空気は重く、ただの霧ではない。魔素が混じっている。そう直感できたのは、転生と同時に授かったエクストラスキルの一部が彼の知覚を変えていたからだ。
ケビは背中に銀の剣を負っていた。柄には六連星の印が彫られている。装備は粗末な皮の鎧と足甲だけ――戦うには心許ないが、今の彼には心強い力がある。
右手の甲には見覚えのない文様が浮かんでいた。それがスキルの発動印であることを、彼は理解していた。
《スキル:マジックバック》起動
所持品:銀貨100枚(うち95枚隠蔽)
六連星のペンダント
鉄製の水筒
食糧保存包み × 3
ケビはため息をついた。
「これが異世界か……派手な街や魔法都市じゃないんだな」
突然、霧の向こうから獣の唸り声がした。
地を這うような重い足音。
それはケビの前に姿を現した――
皮が裂け、骨がむき出しになった異形の狼。片目は潰れ、もう片方は血のように赤かった。
「……屍喰らいか」
本来、この世界の知識など持たぬはずの言葉が、口をついて出る。
ケビは無意識に剣を抜いて構えた。
《師匠召喚:近接戦闘術》使用可能状態
迷わず、彼は印を指でなぞる。空間が歪み、一人の男が現れた。
灰色の外套に身を包んだ、老戦士――顔には無数の傷、目には獣のような光。
「……名を」
「ケビだ」
「ならば戦え、ケビ。ここでは名を名乗った瞬間から、命は剣の上に乗るのだ」
老戦士は構えを取る。
ケビもまた、銀の剣を握りなおした。
霧の向こう、さらに幾つもの唸り声が重なって聞こえた。
ようやく彼は理解する。
ここは始まりの場所などではない。
試練の谷――選ばれし者だけが、生きて外へ出られる地だ。
そして、山田宣という男はもういない。
今ここにあるのは、異世界を歩く一人の戦士――ケビである。