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2・後

 1931年9月、柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発すると、幣原は外交方針に沿って不拡大を主張し、陛下の信なき関東軍の行動を批判した。


 しかし戦線の拡大は止まることなく、強く主張していた錦州爆撃を止められないと知るとまたもや変節を見せる。


 不拡大方針を唱えた幣原がいつの間にやら「ラストエンペラーの担ぎ出し」に積極的に関与し、欧米への根回しをはじめたのである。


 しかし、外相としての活動は満州事変によって問題を抱える内閣の崩壊によって手を付けた段階でしかなかったが、批判された軍部も幣原によって建国の環境整備を望み、犬養内閣では満州問題全権という立場を得ることになった。


 しかし、これは現在様々な研究から、国民党政府から満州を事実上日本へ引き渡す提案がされた頃から画策していたのだと見られている。

 当時、すでにその様な噂が後を絶えず、若槻辞任も幣原による工作ではないかとさえ囁かれていた。

 こうして変節漢と囁かれる様になった幣原だが、やはり本人はまるで気にしていなかった。


 幣原は米英大使との会談に留まらず、海外へも足を伸ばして交渉にあたっている。


 提案を一蹴したはずの国民党政府もその中にあり、満州国が建国された際には批難声明こそ出されたが、裏では国境線すら確定されていた。


 当然ながら欧米、特に米英への門戸開放も条件付きながら認めており、リットン調査団による日本、満州訪問と調査は報告書の詳細さとは裏腹に、ほぼほぼ米英が門戸開放の為に要求した条件を達成する儀式と化していた。


 満州問題全権として海外を渡り歩く幣原はクーデターを回避する事にも成功し、艦隊派将校は真の仇敵を討ち取る事なく最期を迎えている。


 1933年、国際連盟において満州問題が討議された席上、中国の歴史について語り、満州が国民党の主とする漢族ではなく、清を率いた民族の土地であると主張した。もちろん、国民党との関係や米英との密約などおくびにも出す事はなかった。


 こうして表面的には対日批難の形が形成されたが、誰も現状復帰を口にせず、幣原は満足した顔で会議を終えている。


 幣原にとって国際協調は外交方針の柱である。


 しかし、幣原外交は南京事件による変節以来、初期の形からかなり変質してしまっていたのも事実で、満州国成立以後は幣原の手を離れた漂流が起きてしまった。


 その最大の原因は米国にあった。


 幣原はフーヴァー政権と満州進出に関する条件を取り交わしていた。しかし、新たに大統領に就任したルーズベルトはその取り決めを反故にして再交渉を要求してくる。


 まるで満州を渡せと言う態度に幣原ならずとも呑める話ではない。

 すでにフーヴァー政権時の条件による進出も始まっており、日本とすれば今さら再交渉する気も無ければ、入って来た米国企業を追い出す気もなかった。


 こうして満州景気に沸く日本であったが、幣原は満州問題を終え、その後には政権に関与する機会は長らく巡って来ることはなかった。


 幣原は幾度か外交方針について意見した事もある。


 盧溝橋事件の際には自ら政権入りすら望んだものの、変節漢として知られる彼を迎え入れる内閣など存在しなかった。やはり若槻内閣崩壊の真犯人と見られている情勢では、誰も手を取るのが怖いのだから仕方がない。


 幣原は支那事変拡大に際して米英を巻き込むべしと何度も主張していたが、その声に耳を貸す者はなく、事態は徐々に悪化して行った。


 幣原は近衛内閣発足の際、声を掛けられるのだが、なぜかこのときは辞退している。


 あれほど参画を望み、外交手腕を訴えていた姿からは想像すらできなかった。

 この事がさらに変節漢との評価を広める事にも繋がってる。


その後、幣原が表舞台に上がるのは戦後の事になる。


 1945年10月、指名を嫌がり逃げ出そうとしていた幣原であったが、天皇からの要請を受けて渋々引き受ける事にした。


 総理就任後、GHQへと新任挨拶と云う名の殴り込みを掛けた幣原は、マッカーサーに対して幣原説法と後に言われる四時間に渡る第一次大戦以後の極東情勢の解説、占領政策に対する所感、さらには戦後極東情勢に対する私見に至るまでを長々と説いている。


「分かった、分かったからもう止めてくれ」


 最後はマッカーサーが根負けしてそう引き下がったと言うのは有名である。


 この時、マッカーサーに示したのが改憲方針であり、平和原則であった。

 改憲草案は別に議論がなされていたのだが、幣原はそれら一切を無視してマッカーサーに対して現行憲法の欠陥について解説し、その改善策についても明示している。


 その後、正式な改憲案として纏められた物が松本試案としてGHQに示されたが、内容が明治憲法とさして変わりがないと退けられ、GHQからマッカーサー草案が渡される事になった。


 当時の議会では幣原が総理としてその行為を「国際法に反して内政に干渉する行為である」と唾を飛ばして批判し、自ら突き返す場面があった。


 多くの議員が拍手喝采する事になるが、幣原は舌の根も乾かぬうちに手のひらをかえし、軍隊放棄、天皇主権の放棄を認めてマッカーサー草案に沿った憲法の作成作業を指示する事になる。


 これには大きな批判が巻き起こる事になったが、幣原はどこ吹く風であった。

 戦後も忘れられていた変節漢との汚名が復活するのに時間はかからなかった。

 それが影響したかは分からないが、4月に行われた戦後初の衆議院選挙において過半数を得た政党はなく、幣原は内閣を辞し、後任に後を任せる事になる。


 1949年、幣原は衆議院議長に選出され、その職にあたったが、サンフランシスコ平和条約と共に締結された日米安保条約に伴い、いわゆるGHQ最終指令が発せられた。

 「主権を回復した日本には自衛権が戻され、今しばらくすれば連合国は米軍を除き撤退する。ついては内国維持、国境線警備を独自に行える法整備ならびに憲法整備を直ちに行うべし」


 この指令が何を意味するかは明白であったが、日本国憲法は9条において明確に軍隊を放棄するとし、内閣答弁でもその様に述べてきた。


 が、衆議院議長が職権逸脱による改憲案の提案を行い、審議を宣言してしまう。


 幣原こそが軍隊放棄の憲法を作った張本人にも関わらずである。

 これには吉田茂も猛反発するが、幣原は譲らず「憲法正案」なる物を提示した。


 そこには安保条約に定めた通り、日本が自衛権を有する9条三項が明記されていた。

 この幣原の変節は日本中から批判を集める事になったが、衆議院議長の強行という前代未聞の暴挙によって改正発議が行われ、蓋を開けてみれば過半数の賛成によって改憲が実行される事となった。

 1952年3月10日、衆議院において憲法改正案が可決されるのを見届ける様に崩れ落ちる幣原の姿は多くのカメラマンに捉えられ、翌日の紙面を飾る事になった。


 

 


 


 


 

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