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お父様の目は釣り上がり、額に寄せられるシワはまさしく虎が威嚇しているかのような形相だった。ベオウルフ様とまではいかないけれど、この顔で言われると昔から体が縮こまってしてしまう。その顔で、私はウィスキー瓶を叩き込まれたから。


「ヘレナはお前を一番大切にしてくれる使用人なんだぞ。それがなぜ、獣人たちに身柄を抑えられ、ガタガタと震えているんだ。お前が何かやったんだろ」


「違います!ヘレナは私に危害を加えようと」


「お前自身が危害を加えたのを認めないのか。大切な公爵家の使用人の一人を精神が崩壊するまで追い込んで。お前の管理不足だぞ」


何を言っても、お父様の怒声には敵わない。どうせ言い訳しても、この人の耳には届かないのだからと、だんだん諦めがついてくる。

右から左へと、その言葉を流していたら、グライフ語もわからないはずのベオウルフ様が口を開いた。私を背中にかばうようにして、彼は頭を深く下げる。


「トニトル殿、俺が全て悪いんです。だからどうか、あなたにとっても、大切なシンシアを責めないでください」


仲裁(ちゅうさい)に入る行動は立派だけれど、あいにくお父様が獣人語を理解することなんて


「ベオウルフ殿が謝ることじゃない」


「え?」


「私はその子を夫となる君に預けた時から、立派な辺境伯婦人として扱いたいんだ。だからこれは教育の一環で、他人が口を挟むところじゃないんだよ」


お父様の口からスラスラと流ちょうな獣人語が出てきた。グライフ王国は昔からの獣人へのヘイトが強く、そもそもこの言語を習うものは少ない。それに人間にとって一番習得するのが難しいとも言われている。私がこれを習ったのは、一番難しい言語を学べばお父様に少しでも認められると思ったからで。

お父様が知らない言葉を習えば、すごいと褒めてくれると夢を見ていたけど。


「シンシアは俺の妻であり、番です。だから他人じゃありません。トニトル殿、あなたこそ色んなことを認めるべきだ」


「何だ、私はその子の顔に傷を負わせたことは悪く思っているが」


「それはずっと前から知っています。ですが、トニトル殿は一度でも、シンシアのことを褒めなさったことはありますか」


「……その子はまだ褒めるほどでは」


すると、ベオウルフ様は彼の後に隠れるようにしていた私の方を振り返った。私の顔を見て微かに笑う。

その顔はいつもの硬い表情でなく、柔らかくて犬みたいに可愛らしかった。


「俺は彼女と一緒にいれるのがとても嬉しいんです。複数の言語を(たく)みに操れるほど賢くて、種族に対しての差別意識がないほど優しい心を持っている」


「そんなもの、誰でも持っているものだ」


「いいや、それは違います。辺境伯家では代々、グライフ王国も含んだ国々との間の問題を解決する役割を持っている。あそこの領土は国が三つも接しているからな。それでよく、問題の仲裁に入るんだが。意外と種族の差別意識は目に入れたくもないほど酷いものですよ」


フェンリルの辺境伯家の役割というのは、単に魔物を討伐するだけではない。隣接する周辺諸国との国境に起きる、あらゆる問題をも取り扱うのだ。


密輸や、密売、人攫いに、森の中での遭難。


だからこそ『黒天狼の牙』は強くなければならない。魔物が多い森と、人の問題をも解決しなければならないから。

色んなことを取り扱う彼には、私も知らないような文化の差が分かるのだろう。


「クロウを通してでなければ、共通語が苦手な俺には難しいですが。シンシアは特に、そんな種族の壁をも感じさせないほど心が広い。そういうふうに育った彼女を、あなたも本当は心のなかで誇りに思っているはずだ」


彼はお父様を落ち着かせるような、低くも優しい声を響かせた。


「もういい加減に、その怒りを装うのを止めたらいかがですか。俺が何年と何百通もの手紙を送っても、あなたは手紙に」


「や、やめろ」


「[愛娘は渡さない]と、何度も返事を返して来たではないですか」


お父様が止めるのを気にも止めずに、続けられたベオウルフ様口から出た言葉。

お父様が私を、そんなふうに書いていたなんて、本当なのだろうか。バツが悪そうなお父様の顔は、どうにも嘘だとは思えない。


「それにさっきから、シンシアに対して見るからに怒っていても、ずっと家族に向ける臭いがしている。相手がよほど大切でなければ出ない臭いだ」


「っ……狼の鼻は鋭いんだな」


「獣に近いと言われるだけあって、獣人は五感が鋭いんです」


「少しだけ、娘を貸してくれないか。私はどうしても話さなければならないことがある」


お父様の要望に、ベオウルフ様が私の手を取った。


「必ず戻って来てくれ。トニトル殿は君を心から思っているから、取られそうで心配だ」


そんなこと、心配せずとも。私はお父様に何と言われようとも、もう彼の側に何度だって戻っていく気がする。彼の思いをまだ詳しく知らないから。

ベオウルフ様は私の目を見てそう言ってから、『黒天狼の牙』の者たちと共に、部屋を出ていった。

お父様と二人きりとなった部屋で、ソファーに向かい合って座る。お父様は私の部屋のクローゼットにある引き出しから箱を取り出すと、それを机に置いた。

中を開くと、それは束ねられた手紙の山だった。


「これは今まで、お前に届いた手紙だ」


「私に…ですか」


何百通にも及びそうな膨大な手紙だ。それを一枚、お父様が渡してくる。封筒を固めるロウの紋章は、狼が遠吠えした横顔だった。


「フェンリル辺境伯家の家紋」


「そうだ。古いものでお前が三歳の時からある」


黄ばんでいるが、その一番古いものも、お父様はちゃんと保存していた。中を見ると、つたなくて書き慣れていない子供の文字とわかる文があった。

獣人語で書かれているそれを読むと、私のことについて書かれている。


❲この度、僕はお嬢さんに助けられました。お嬢さんを僕にください❳


「ド直球すぎませんかこれ」


求婚の手紙にしては、あまりにもロマンな言い回しがない。


「ああ。しかも、私は当時獣人語がわからなかった。これのせいで、仕事が増えたんだ。これも全部、お前が男を魅了するほど良く育ちすぎたせいだ」


ぶっきらぼうに言うお父様は、言動が強くとも優しい言葉で満ちていた。明らかに、私に対する接し方が百八十度変わった。これはベオウルフ様がお父様を変えてしまったからだと思う。

目の前の顔は鬼ではなく、物腰が少しだけ柔らかくなった父の顔があった。


「お前は……その…綺麗になった。私がもし、お前に手を上げるような真似がなければ……もっと…もっとお前に良い縁談を持ってこれたのにな」


「っ……お父様」


この人の言葉はいつも足りなくて、機嫌だって伺ってしまうぐらい圧が強くて怖い。

でも、お父様はいつからこんなにも私を考えてくれていたのだろうか。責任を押し付けられて、怒声を浴びせられていた日々を思い出す。


『なぜ私がお前を向こうの家に預けたと思っている。お前がしっかりしていないせいだ。使用人のヘレナにばかり甘えっぱなしで、お前はなんにもなっていない』


これは彼が私を、ベオウルフ様という安心できる相手の元に全て任せたからで。


『いいか、お前はもう十八歳なんだ。人一人ぐらい、簡単に支えられるようにならなくてはならないんだぞ。手紙の管理ぐらい、自分でしなさい』


これは私が立派な辺境伯婦人となれるようにと、期待しているから出てくる言葉で。


『信頼できる人間も、自分で見極められるようになって、早く向こうの役に立つように。分かったら、さっさと帰れ!』


突き放すのは、いつまでも公爵家にいては先に老いてしまう父が私を守れないからで。


これは全て、お父様の愛から来る言葉だ。


次から次へと涙がこぼれる私に、どう(なぐさ)めればよいのかとわからないようで。シワだらけの手が宙を何度ももがきながら、手紙をとりあえず開いてくれる。


「実はな…これ全部、あの執着狼からなんだよな」


「こっ、こんなに箱を敷き詰めるくらいなのですか」


「あと五箱ある。これは私が厳選したやつだ。他のやつは……言いたくもない」


言いたくもないほどの内容って、どういうものなのだろうか。ちょっと気になるけれど、お父様はハンカチ代わりにというふうに渡してくれる。

封筒の中を見れば、三枚分もの文がぎっしり並んでいたり。とにかく文字が多すぎて、目がつかれてきた。


「これを見ていたら、吐きそうです」


「これが毎日届くんだぞ?この恐怖が分かるか?」


今度はお父様が身震いする素振りをするので、また笑ってしまう。あの鬼のような怖さを持ったお父様をこんなに頭を悩まさせるベオウルフ様って、すごく強い。


「実のところ、グライフ王国からの手紙もある。これが本物だから、しっかり覚えなさい」


そう渡してくれたのは、レースもあしらわれた封筒だ。革でできているのか、防水性に長けていそうで、ロウには金泊も混じっていた。中身は縁談の話で、どうやら第一王子との婚姻、という件らしい。

年を確かめると、私が傷物になってからのものであった。


「その傷があろうとなかろうと、お前は城には重要な存在だった。本当は第一王子のもとに嫁いでほしかったんだがな」


「でもお父様が、ベオウルフ様を選んだのではありませんか」


「そうだ。私は第一王子ではなく、あの狼を選んだ。なぜだろうな、他国の獣人に嫁ぐより、間違いなくグライフ王国の王子に嫁がせたほうが、公爵家には利益がある」


お父様だって賢いのだ。

たった一人で、この家を支え続け、城では外務省も努めているお父様。もし利益を求めるなら、私をこの国の王子に嫁がせるに違いないのに。

それをしなかったのは、きっとお父様なりの私に対する思いがあったからと思えてならない。


「どちらがお前を幸せにしてくれるかと考えてしまったんだ。そうしたら、間違いなく、こっちの手紙だろう。国からは二通しか来ていないからな」


「お父様っ……」


「私は酷い父親だ。娘に傷を負わせたのに、嫁ぎ先すら私の利益を取ろうとしてしまった。それに、お前に対してキツイ態度でしか接することを知らない」


結局、彼は私を随分と守ってくれている。

公爵家の本当の子供ではないと、瞳と髪の色から言われた。ヘレナに裏切られてから、もう少しずつ分かっていた。このお父様は私の肉親ではない。


なんて不器用な父親なんだと思った。

言い方こそぶっきらぼうだけれど、彼は最初から他人の子である私を、育ててくれた。


「あれほど私に怒鳴れるのに、泣き虫だな」


「う、うるさいです」


「昼だけはここで食べていってもいいが、すぐに引き返しなさい。もう全てを、あちらに託したつもりだからな」


「全てですか?私、まだお父様と打ち解けたばかりな気がするのですが」


私のことを最後まで見る気はないのだなと、親の思い切りの良さに少し笑ってしまう。お父様は頬にシワを寄せて笑うと、私の傷跡を優しく撫でた。

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