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圧せられた目元に、涙がこぼれる。ヘレナはそれを見てさらに笑う。
「にしても、本物の手紙も偽物の手紙も見分けられないなんて。世間知らずのお嬢様。私がいないと点で駄目なんですから」
「どうしてっ?ヘレナは優しくて、私の母親代わりだといつも言ってくれたのに」
「お嬢様、人の不幸は蜜の味なんですよ。そういう人がこの世界にはた〜くさんいるんです。捨てられて可哀想なお嬢様」
「違うわ。あなたは言ってくれた。私は捨てられたのではなくて、母から預けられたのだと」
たしかに彼女は言ってくれた。抱きしめてくれて、私が母から与えられた大切な小さな命なのだと。彼女の亡くなった子供の分までの愛情がそこには詰まっていて、私はすごく安心したのに。
「あははははは!この傷のせいで記憶も曖昧になったんですか。その言葉をかけたのは公爵様でございますよ。私が言ったのはですね」
彼女が私の耳元へ口を近づける。
「お前が生まれたせいで、フィーリアは逃げていった。お前は捨てられたんだ」
声色の低さに、私はゾッと身を縮こませた。
ヘレナはいろんな声を出せる。幼い頃に彼女のその凄さに見惚れて、何度もおままごとではしゃいだ。
お父さん役も、お母さん役も、お姉ちゃん役も、お兄ちゃん役も。
彼女の迫真の演技力と、声色の使い分けが本当に素晴らしくて。
「そうそう、その顔です。涙を流すより、これからもっと可哀想な顔になるでしょうね」
目に力がかかる。彼女の腕を必死に掴んで抵抗するけれど、力の差があった。普段から働く使用人と、翻訳の仕事でこもりっきりの私では、全てにおいて劣っていた。
声を上げようとすると、彼女は口を閉じた。痛みで叫ばないようにもするためだ。
「さ、もっと可哀想なお嬢様になりましょうね。これで辺境伯の奥様にもなれなくなりますよ。両目がまだ残っているからこそ、お嬢様はきれいに見えますけど、潰れたら本物の誰からも愛されない『いばら姫』になる」
ヘレナの顔がさらに歪んだその時、黒いものが飛びかかった。
「ガルルルっガウ!」
黒い大きな犬がヘレナに吠え立てる。彼女の後ろから肩に噛みつき、牙を突き立てていた。
「ああああ!!このっクソ犬!!」
ヘレナが大きく腕を振り回して、犬の額に殴りかかるが、大きな犬は獲物を離さなかった。彼女が私から注意を反らした瞬間に、部屋の隅へと私は腰を抜かしたまま逃げていた。
黒い大きな犬なんて、公爵家に飼っていただろうか。でも、その犬はヘレナの肩からすぐに牙を離して身をひるがえすと、今度は太い首を鳴らして遠吠えを響かせた。
「ウオオオオオン」
洞窟にいるかのように、その声は長くこだまする。その途端、ドタバタと騒音が廊下から来ると、白銀の髪の男を筆頭として獣人たちが入ってくる。
「その女っす!」
「な、なんですか!私は何もしていません!」
『黒天狼の牙』の団員たちはすぐにヘレナの身柄を床に抑えつけて確保する。その様子をクロウが冷酷な目で見下していた。
「何もしてないわけないっすよね。ダンナが教えてくれたっすよ」
「ダンナ?」
「わからないんすか。そこにいる黒い狼はダンナの獣の姿っすよ」
疑問を浮かべるヘレナに、黒い犬は牙を向けて、毛を逆立て始めた。口を噛み締めて唸りだし、徐々にその姿は変化する。
黒い毛皮が黒い髪へと収まり、尻尾と耳が生えた人の姿へ。普段とは違う、肌に張り付くような黒いシャツに、迷彩柄のズボンは、彼が魔物討伐へと出かける時に身につけているもの。
黄金色の目が、普段とは違って冷えていた。
「よくも俺の番に手が出せたな」
獣人語で告げる彼に、ヘレナは身をよじって抵抗し、『黒天狼の牙』の団員に脇を抱えられて起こされる。
「獣人語なんて、意味が全くわかりませんね。まあ、獣の言葉なんて理解する時点で野蛮なものです。お嬢様も、こんな言語を公爵様から教えさせられて、獣になり下がったんじゃありませんか」
「ダンナに悪いことを言うのは、おすすめしないっすよ」
「何を言っても同じでしょう?あなたはグライフ語を理解できているようですけど、このクソ狼にはわからない。あ〜あ、こんなことになるなら、母親に生み捨てられた、あのウジ虫顔をもっと手酷くしていれば」
その瞬間、ベオウルフ様はたてがみのような黒髪をますます逆立てた。雪原のように凍えるような寒さが立ち込め、首筋に冷や汗が伝い始める。
それは他の獣人である『黒天狼の牙』の者たちも同じらしい。各々に耳や尻尾を丸めて、震え始めた。
「やはり何となく、わかるものだな。悪口というのはどうやら、言語が違えど声音だけは似ているらしい」
彼はヘレナの首へと手をかけて、爪を立てた。
「次に言ってみろ。お前の首を八つ裂きにしてやる」
その爪は皮膚へと食い込んで、ヘレナは苦しそうに鳴いた。彼から立ち込める殺気には、力で群れを統べる圧倒なまでの迫力があった。
獣人は弱肉強食の世界であり、力を全てとする思想がある。それ故に、最も力を持つものがリーダー格へと立ち上がるのだ。ベオウルフ様の恐ろしい声音には、周りの獣人の本能を呼び起こし、言動をねじ伏せさせるほどの力があった。
それは種族を超えても同じで、ヘレナは血の気の失せた顔をして、エプロンを濡らした。自分の排泄物で汚れた彼女は、殺されたような顔をして膝から崩れ落ちる。
「言ったじゃないっすか。ダンナを怒らせるのはおすすめしないって。この殺気、俺たちでも耐えるのに訓練が三年もいるんすから」
「いのち………いのちだけは……」
「あ〜あ、精神までやられちゃったすかね」
苦笑いするクロウに、ベオウルフ様は獣人たちへとヘレナを縄にかけるようにと指示を出した。手際よく彼女が部屋を運ばれていくのを部屋の隅で見ていると、ベオウルフ様が私の方へと近寄ってくる。
先程の、種族の違いすら関係ないほどの恐怖に、私の足は震えていた。
その様子に彼は気がついたのか、さっきまでとは違ってその瞳が悲しそうな色を宿す。
「怖いものを見せたな。もう君の前でこんなことをしないように、心がける」
「あ……その、これは違うんです。私はその…す、少し驚いただけで」
「声が震えている」
大きな手が私の右側に寄せられて、頬に少しずつ触れようとする。
指先が触れて、一瞬だけ肩を震わせたが、その後はもう恐怖は抜けていた。彼がゆっくりと火傷跡を包んできて、頭の上の獣の耳を寝かせた。
「君の顔は綺麗だから、傷つけさせたくなかったんだ。君を追いかけたことを知られたくなかったが、我慢できずに手を出してしまった」
ベオウルフ様が辺境伯家から公爵家までずっと追ってきたということは、彼がここにいる時点で周知の事実だ。竜語を学ぶことを、好きにしろと言っていたくせに。私がフェンリルの辺境伯家に戻らないとでも不安になったのだろうか。
「私はちゃんと帰るつもりでした。ここでの学びが終わったら、約束通りステルクに帰って。なのにあなたは、私を疑いなさるのですか」
「疑わないといけないほど、君はすごくきれいなんだ」
「こんな傷跡のある令嬢なんて、どこの誰がきれいなんて思うのでしょうか。冗談はやめてください」
冷たく出てしまう言葉は、歯止めが効かなかった。このままベオウルフ様の優しい手に心を許してしまったら、また傷つけられると怖じけている。
一番信用していた人に裏切られて。今までの優しさが、全て幻想だと気づくには時が経ちすぎて、その分、失ったものが大きいのだ。
誰かに期待して裏切られたくないと、突き放そうとしてくるのに。彼はお構いなしに、獣人語を話す。
「冗談などで、俺は君を褒めないぞ。そもそも、狼は人間には嘘つきと思われがちだが、嘘は嫌いだからな」
童話の中で見られる狼は悪者の印象が強い。それは人間たちが獣人を奴隷にしている時代につくられたせいだ。
「そんな昔からの偏見、私にはありません。言語を学ぶものとして、種族の差別など」
「だったら、わかってくれないか。俺はシンシアを本当に綺麗だと思っている」
「っっっ……」
目が合わせられない。
その瞳があまりに真っ直ぐすぎて。ヘレナに裏切られたばかりの私には、眩しいほどだった。
「目を合わせてくれなければ伝わらないぞ」
「っ……合わせなくとも伝わります」
「人間はそうかもしれないが、狼族は互いに目を合わせなければ、それは真のことだという証拠にならないんだ」
言語を理解するものとしては、その国の文化も学ぶべきだ。
そう、だからこれは決して彼に心を許したというわけではない。
言いがかりを心でつけながらも、顔を上げた。
「これでいいですか」
その瞬間、ペシペシと床を叩きつける音がした。腰から流れる黒い毛の塊が幾度となく振り回される。
「ブフッ……ダンナ、これじゃあ犬っすよ。さっきまではあんなに狂犬だったすのに」
傍らでお腹を抑えて笑うクロウに、ベオウルフ様は何一つ顔を変えなかった。変わらない表情からは普通なら感情を汲み取れないのに。その尻尾の揺れ方からして、喜んでるとは周りの誰もが思うことだった。
ヘレナのことから助けられてもらい、部屋を出ようと立ち上がった時、またドタバタと足音が聞こえた。
「何事だ。シンシア、お前、ヘレナに何をしたんだ」
お父様が青筋を立てて、部屋に入ってきた。