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手紙にはグライフ王国からの報せが記されていた。こと細やかに、どの本を至急訳してほしいか。それから、別の言語についても学んでほしいとの要請が書かれてある。


「新しい言語の習得なんて、これは大変なことよ。しかも、竜語ということだし。古代語にも通じる、難しいものじゃないの」


「これはすごいことですよお嬢様。お嬢様の言語に対する多才さが認められたっていうことじゃありません?」


いくら認められているとしても、期待が重荷になるときだってあると思う。グライフ語、共通語、獣人語。三カ国語をマスターするにも、この年までかかったし。でもまあ、公爵家では他のエルフ語やドワーフ語も少しばかり触れたことがある。無茶をすれば、半年ぐらいで…と脳筋に考えた。


「お嬢様は人間にとって一番難しいと言われてる、獣人語を習得なさっているんですから。きっと他の言語なんてちゃっちゃとできますよ。それにこんないい機会、ありません。辺境伯家から抜け出して気分転換にも行きましょう!」


拳を振り上げてワイワイと踊る勢いのヘレナ。少しぐらい、ここを空けたって構わないだろう。ベオウルフ様は私のことを文句も言わず住まわせてくれているけれど、それは私たちが国同士の結婚ということだし。ここからいなくなったって、彼にはなんの迷惑もないだろう。


「たしかに、良い口実かもしれないわ。早速準備を始めておいて」


「ラジャー!」


私はその日の夜のうちにすぐに準備を進めた。ヘレナがここに来る時にこさえたトランクケースに、最低限のものだけをまとめる。辞書と着替え、それから道中に野宿するためのお金と、ランタンの換え。

自分の荷物をまとめつつ、早々に寝室へと入った。


実のところ、片方の目だけでは暗くなるとよく見えなくなる。寝室では暗いとすぐ眠ってしまうから、今日は寝落ちしないようにと、明かりをともした。

ベオウルフ様が来るのを待っていると、部屋に静かなノックが響いた。大柄な大格にしては、そのノックの音は小さく感じられる。


「シンシア、起きていたのか」


「今日はその…お話しがありまして。実は、グライフ王国から手紙が来たんです」


話しだそうとすると、ベオウルフ様は私の側に寄った。夏の暖炉の前はもの寂しく、その前に椅子をあらかじめ並べ置いておいた。隣り合った彼が椅子を寄せる。


「それで?」


「半年、ここを空けてもいいでしょうか」


必ず良いと言ってくれるに違いない。この人は、私に魔物討伐と嘘をついて他の人と逢瀬(おうせ)を重ねているのだから。ヘレナが言っていたことを思い出して、言い訳も付け足しておく。


「グライフ王国で竜語が必要なんだそうです。それと、至急に訳してほしい本があると。私はその要請に応えたくて」


「……嫌だと言ったら?」


金色の目が私のことを伺ってきていた。小さなロウソクが彼のことを優しく照らしている。ベオウルフ様はまた少しだけ身を近づけてきたかと思うと、膝の上に乗せていた手に手を重ねてくる。温かい体温は、獣人の特徴だ。人間よりもホカホカと、寂しい夜に寄り添ってくる。


「俺は伝えているつもりなんだが。シンシアは獣人が嫌いか?」


「そんなことありませんよ。私は、種族を差別するなんて馬鹿げたことなどしません。エルフも、ドワーフも、竜人も、獣人も、人間も。それぞれの文化と言語にとても惹かれていますから」


「なら、竜語を学ぶ前に、俺達の文化を先に知ってくれないか」


彼はそう言うと、いきなり抱きついてきた。身を寄せ合い、髪の毛がクシャクシャになる。ベオウルフ様が頬を擦り寄せてくるせいで。


離れたい。なぜこんなこと、彼は急にしてくるのだろうかと、頭が混乱した。


薄暗い部屋でも、パタパタと椅子に尻尾が叩きつけられる音が、微かに湧いてくる。


「これは抱擁(ほうよう)だ。獣人が仲間と認めたものにする」


「っ、は、はい。その意味ならわかります。人間も親睦(しんぼく)を深めるために」


「そんな意味だけではない。もっと、もっと深い」


何を伝えたいのか分からない。ベオウルフ様が頬をくっつけてきて、スリスリと寄ってくる。

それで心がなぜか、キュッと締め付けられる。


抱擁とは、身を寄せて抱きかかえること。それは国によって、挨拶の意味にもなる。


本を意訳する時とそこには何ら変わらない意味があるけれど、文だけじゃ考えたこともない胸の動悸(どうき)がした。スンスンとベオウルフ様は髪の匂いを嗅ぐように、鼻さえも擦り寄せてくる。


「相手の匂いを嗅ぐのは、仲間だと覚えるため」


「は、はあ」


「シンシアの匂いは、よくバラの香りがする」


「それでは『いばら姫』の異名によく合っていますね」


皮肉を言いたいのだろうかと思って言うと、ベオウルフ様は最後に私の頭を撫でてきた。


「俺が気に入っている匂いだ。その匂いを持つ君自身が気に入っていないようなことを言わないでくれ」


大きな手が頭の後ろに回されて、より一層距離が近づく。また、胸が痛い。


言葉で、文で、表現するだけでは簡単なのに。そこには、本で読むような淡々とした文字ではなく、何か色のような鼓動の流れが感じられてきた。

青の暗さに、淡くて優しい黄色の色が流れ込む。またキュッと胸が心地よいほどになって。

今まで把握したこともない自分の体の輪郭がハッキリしてくるような。


「この…胸が苦しくなるようなのも、獣人のもつ特性のせいなのですか」


おかしい。

いつもの自分じゃないみたい。

エルフや竜人などは、種族的に見ると長寿で魔力をたくさん持っているから魔法を扱えると聞く。

獣人もそういう魔法みたいなのを使えるのだとしたら、このドキドキと早まる胸も納得できそうだ。

けれど、ベオウルフ様はかすかに口角を上げた。


「シンシアの心臓が早くなっているし、甘い匂いもたくさんする。もう分かってくれたか?俺達獣人の、求愛行動」


体が離れて、ベオウルフ様が真剣に言ってくる。それが少しおかしかった。

クツクツと笑ってしまう。


「そんな真面目に求愛行動とおっしゃられても」


「ようやく笑ってくれたな。シンシアの笑顔を見てみたかったんだ」


「っっっっ」


普段は表情に乏しくて何を考えているのか分からないベオウルフ様。でもその彼の顔が崩れて、微笑んでくる笑顔が可愛らしい。犬が笑った時に見せてくれるような、かわいい顔だ。

しかし、今度は私がどう反応をすれば良いかわからなかった。夜の暗さで、傷跡が隠れると思い、ベールを外していたけれど。無性にベールで顔を包み隠したくなる。


「その手をどかしてくれないか」


「無理です。絶対今、私もわからないぐらい不細工になってますから」


ただでさえ、顔に傷があって醜いのに。熱があふれるせいで、顔の形が今どうなっているのか不安でしかない。顔を手で覆っていると、彼は手首をつかんでしまってどかしてしまった。通った鼻筋も薄い唇も、彼の顔はよくキリリと見える。


「綺麗だ。君は昔から変わらず、照れた顔もかわいい」


「っっっ……見ないでください」


「なぜ?人間は顔を見合うのも番に対する行動なのだろう?」


「人間に番なんていませんよ」


番なんて相手がいたら、どれだけ単純な恋愛になろうか。誰かを一途に思い、よこしまな考えがないのなら、母がいなくなるというようなことは起きなかった。


「そうか。だが俺には番がいる。シンシアという、『月』のように綺麗な人間だよ」


真っ直ぐな目で伝えてくる彼が、とても見ていられなかった。目をそらして暗闇を見ていたくなる。


「“好きだ”。俺はシンシアがすごく“好きだ”。今日、部下から習ったんだ。グライフ語で、この感情を何と言うのか」


獣人語の書物では見かけたこともない、“好き”という言葉。それを彼は、獣人語でなく、人間の言葉のグライフ語にして伝えてきた。


でもわからない。

彼自身、その言葉にどんな意味があるのか理解しているのか。

別の言語で自分の心を表すというのは一番難しいことだ。そこには、いつだって小さな誤解が生まれる。

きっとベオウルフ様はその意味をわからずに使っているのかもしれない。


「…わかりません。私はあなたのことを、分かってあげられそうにありません」


「今はそれでいい。でも、いつかは俺を理解してくれると嬉しい。番という役目も、俺の匂いも」


彼から獣人の行為について一方的に教えてもらうばかりで、私から何も返すことはできないし、伝えて教えることもできない。


だって、獣人と人間は違うところばかりだから。


互いが理解できあうのは、きっと物事の研究や事実ばかり。そこに互いの感情など、言葉や行為で伝えられるのは限度があるというものだ。

ベオウルフ様がしてくれた抱擁も、頭を撫でることも。人間は言葉で伝え合うばかりだから、それを行為でされたことなんてない。だからその行為も、私はどう受け取ればいいのか。


「それでその……グライフ王国に行くことは許してくれませんか」


再び切り返すと、彼は無表情に首を縦に振った。その三角耳をよく見ると、垂れている。


「君がしたいことをすればいい。竜語を学びたいなら、学んで来ると良いさ」


その声がいつも以上に低くて、火がない暖炉のように冷たく感じてしまうのは気のせいだろうか。


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