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会場には戻らず、その日の晩をどうやり過ごそうかと思っていたら呼び出しがかかった。こっそり自室にいた私達を強制的に呼んだのは陛下である。接待部屋に通されると、陛下はどっかりソファに腰を下ろしていた。
「そうかしこまらんでよい。我も悪かったと思っておる」
「いえ、そのことなのですが。私も王族の方々に無礼な態度をとってしまい、申し訳ありません。どうか、私の首で許してください。
獣王国は本当に良いところなんです。自然に溢れ、部外者である私を歓迎してくれる辺境伯家。決して悪いところでは」
「フッ……ハハハハハ!」
どうか隣国との戦闘だけはやめてくださいと謝罪しているのにも関わらず、陛下は笑い声を上げた。落ち着いた笑いは、緊張の糸を一気にほぐして、痛い目に遭わされると警戒していた私がアホみたいに思えてくる。
「いや、すまん。なにぶん、獣人に関してのことを直接扱うのは初めてでの。そのように妻をこよなく愛す狼なんぞ、見ていて微笑ましさしかなかったのでな。そこまで謝罪されると、笑うしかない」
肩と腰がビッチリ、風が通る隙間すら許されないほど、隣りにいるベオウルフ様はくっついていた。部屋に入る前、人の姿のままで面会するが抱きしめることに関して忠告をいれてなおこれである。
「はじめまして、ベオウルフ殿。我はグライフ王国の八十七代目の王」
獣人語で挨拶する陛下。
お父様で慣れていたかと思っていたが、やはり偉い人がその言語を覚えているというのはどうしても目がお皿のようになってしまう。
「ベオウルフ・フェンリルだ。人間の王、俺の番は渡さない。お前の愚息にも」
「あ、あなたはバカなんですか!ああ、これはですね陛下。ちょっと獣人語を知っている陛下に驚いただけで」
後ろ手に彼の尻尾をギュット握った。その瞬間、彼の肩は飛び跳ねる。
「し、シンシア!だからそれは…………我慢できなくなるぞ」
「いいですから。あなたはもう少し、礼儀というものを」
「いい?いいのか?俺はもう、そういう意味で君と付き合うからな?」
フサフサの尻尾が手の中でブンブン動く。その様子を見て、陛下はまた笑った。
「よいよい、実に良い。お主ら、元から我の前でそうしてくれておったら良かったというのに」
「ですが陛下。城にその……獣人は」
「ふむ、そうだな。そういうルールはあるが、もう随分と昔に設けられたもの。我は別に気にしてなどおらぬ」
のんびり答えた陛下に、机の上にあるものが乗っていることに気がついた。金の本を模した盾は、トロフィーである。陛下は改めるように私に受け取るようにと前へ押し出した。
「お主の功績はずば抜けておる。たった三日で、異国の分厚い書を訳しあげるからの。それと、フェンリル殿、お主のことも知っておる。魔物討伐に貢献してくれているおかげて、我らもそちらとの交易路に支障なく馬車を通せる」
「当たり前だ。『黒天狼の牙』は獣人で一番強い隊…………だからシンシア、俺の尻尾はだなぁ……」
彼は礼儀というものを知らないようだ。人間の国の文化では、王というとても高貴な人に対して言葉遣いも言動も琴線のように張り巡らせて注意しなければならない。またもギュッと尻尾を握ると、ベオウルフ様は顔を手で抑えて力をなくす。
「夫婦揃って、国際的に活躍していること。我が讃えよう。それから、今晩の無礼を詫びたいのだ。我が息子があろうことか、獣人の番に手を出そうとしたこと。誠に申し訳ない」
頭を下げる陛下には、慌てて顔を上げるように言った。
「ほらベオウルフ様も。もう怒ってないですもんね」
「……怒ってるに決まっている。そういう謝罪は、本人にさせろ」
「ばっ……そういうことは!」
「いや、良いのだ。我らはそういうことまでしてしまった。だからどうか、謝罪のために冬の間はのんびりここにいてほしい」
そう告げられて、まんまとハメられたと思うのは遅かった。謝罪を受け入れるというのはつまり、彼らの“好意”をありがたく受け取れということ。それが彼らにとっての利益につながることだからこそ、陛下は決して安くない頭を下げたのだ。
「冬は魔物が眠ると聞く。しかし獣人の素晴らしい身体能力からすれば、肩身も狭いことだろう。ベオウルフ殿にはどうか、我らグライフ王国の騎士団に稽古をつけてもらいたい」
「む、それではシンシアは」
「引き続き、我が妻と息子に言語を教えてやってくれ」
「話が違うぞ、人間の王。俺は謝罪を受け取っていない」
「そうかもしれないが、君はシンシア嬢の夫だろう。妻の決断は、夫婦の決断にもなろう」
「そうだな。妻の決断は…夫婦の……」
と、そこでもやはり後ろ手に尻尾を掴む私の手の中でユサユサと尻尾が動いた。彼が何を思っているのかは知らないけど、まんまと罠に狼がハマった。見事に論破を見せてくれるのかと思ったが、夫婦という言葉や番というのに彼は弱い。
それほど獣人は、ツレを大事にするという習性がわかってしまう。
「ま、客室はお主ら二人で使っても良いぐらいに広いはずだ。城は広いからの、夜に関してもお主ら二人水入らず」
「陛下……」
「おや、シンシア嬢。元気がなく見えるが」
そりゃそうだ。
辺境伯にいたときも、隣の狼のひっつきぶりと言えば目に余る。目に入れて、とても痛いほどに彼は抱き寄せては、痛いほどに絞めてくるのだから。
正直言うと……わずらわしい。
部屋を出たあと、一瞬の身震いがしてきた。ため息とともに自室に入ると、ベオウルフ様が急に狼の姿になった。
「バウ!」
「何ですか」
「ワウウ!」
尻尾をブンブンふる黒い大きな狼に釣られると、寝台に寝転がっていた。狼のお腹を枕にして頭を預けると、温かくて眠気が押し寄せてくる。
「ちょっと、これはまずいです……本当に眠ったら……化粧を落とす……………のも……」
もはや眠気に勝てることなどなかった。狼のお腹は手足を温めるほどぽかぽかで、鼓動はゆりかごのように落ち着くリズムを刻んでいた。
静かに眠ったシンシアを確認する。化粧がどうのとか言ってたので、柔肌を傷つけないようにタオルで拭ったり、オイルを使ってなんとか取ることにした。
「臭いがわかりやすいな。どの薬草が使われてるのか俺でも理解できる」
肌にどういう効果をもたらすのかは、鼻で聞けばすぐに扱えた。月のような髪も解してやると、シンシアは小さな口で呟いた。
「かあ…さま………」
「グルルル。俺の名前はないのか」
「んっ………」
口をつむぐ彼女に、なぜか少し腹が立った。
いつもいつも俺を遠ざけるような言葉ばかり言ってくる。自分が傷物だの、ふさわさくないだの。そんなの、聖人君主じゃあるまいし、誰だって欠点はあって当然だ。
「俺は君だから好きなんだ。欠点も含めて、俺にだけ見せてくれればいい」
裏切られるということを、彼女は身を持って知っている。だからこそそういう自信のないことを言うのだと考えると、納得できた。
でも、やはり怒ってしまう。俺の感情を嘘だと言い張ったことに加えて、尻尾を掴む罪の重さを知らないこと。
「こんなに匂いをつけているのに。まだ気づかないのか?人間の鼻など、あってないものなのか?」
正直言うと、匂いも、行為も、気持ちさえも全部信じてくれるまで彼女を閉じ込めたい。どこにもいかないように、この月を全部食べてしまいたい。
周りは憎悪や偏見に満ち溢れる世界。そんなの分かりきっている。だからこの月は俺だけのところで昇るようにしたい。暗闇を照らす唯一の光。
「君は少し、人間とは違う匂いがする。バラと……それからハチミツの匂い」
ペロッと首筋を舐めると、彼女の匂いが広がってきた。ふと、寝相が変わり彼女の腕が俺の腰に巻き付いてきた。
「ワウ」
人の姿で頭をグリグリ押し付けられると、油断したせいで狼の姿になってしまう。
「ふふっ………いい……におい」
寝言で笑う彼女に、尻尾が動いた。よく聞こえる耳は、彼女の鈴のような声を聞き漏らさない。




