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「お嬢様、いい加減にここを出ましょう。こんなところにいても、噂の的になるだけでございます」
ヘレナは周りの獣人の使用人を気にもせずに大声で話し始めた。彼女はここの屋敷の者たちが知らないグライフ語を使っている。人目を気にせず、彼女は堂々と計画を明かしてきた。
荷物を整えて、馬車を拝借して公爵家に帰ればいい。簡単なことだとヘレナは言うけれど、公爵家に戻って果たして私の居場所はあるのだろうか。
「向こうに戻っても噂の的よ。それに、お父様がそんなことを許すはずないわ」
「公爵様なら放っておいてくれますよ。それにお嬢様のお世話なら、向こうでする分には私が全てできますので」
グライフ王国ならば、料理の器具も材料も、ヘレナが慣れ親しんだもので作ることができる。でもこちらは隣国と言うだけでもっぱら違うのだ。料理は味付けが薄く、食材自体の味にこだわりが強い。故郷の料理は長時間漬けておく煮物や、香辛料を大量に使ったものが多かった。
その舌を思い出したのか、ヘレナはますます戻りたいという表情だった。
「悪いけれどヘレナ、それはできないわ。もし戻れば、政略結婚としての意味がなくなるのよ。そうすればまた、獣人の差別制度が緩くなってしまう。民を困らせるわけにはいかないのよ」
「ですが、お嬢様の気持ちはどうなるのですか。こんなに毎日、あの男は魔物討伐と称して出かけていって……許せません」
「こんな顔を見たんだもの。当然のことよ」
「どうして皆、お嬢様のことを嫌うのでしょうか。太陽の日のように美しい金髪も、晴天のように透き通る瞳もお美しいのに」
ヘレナは実の母のように私を育ててくれた。一回りだけ年上の彼女は、かつて子供を亡くしたと言っていた。私をこんなにも大切にしてくれるのは、亡き子供と重ねているからだろう。私の傷跡を優しく手で包みながら、彼女は亜麻色の目に涙を浮かべだ。
「なぜ公爵様は、可愛らしいお嬢様にこのような傷を負わせる真似をしたのでしょうか。いくらあの時、妻に逃げられたからといえど…私には理解できかねます」
「ふふふ。ヘレナがそう思ってくれているだけで、もう私は十分幸せよ。ありがとう」
「妻を大切にするという獣人だからこそ…私は安心したのですよ。ですが、これではあの男の感覚も疑うしかありません。もしかしたら、裏では人食いの狼かもしれませんよ。だからこんなにも遅くにしか帰ってこないのかも」
恐ろしいことを言うヘレナは、周りの耳も目も全く気にしていない。なまりあるグライフ語を話す彼女に、私は答えた。
「獣人が妻を大切にするのは、相手が運命の番だからよ。私はベオウルフ様の運命の人ではなかった。ただそれだけのことよ」
吐き捨てるように言うと、ヘレナがますます涙を流しそうになるので、苦笑いするしかなかった。翻訳の仕事をする傍ら、段々とこの国の文化と獣人のことについて知っていく。
番と定められているものを、運命の人と呼び、彼らはそのものを生涯大切にする。それは赤い糸のようなものであり、切っても切れないもの。
一心同体、ソウルメイト、運命の人。翻訳すればいろんな呼称で呼ばれるけど、ようは相手がそれほど大事になるということだ。私はベオウルフ様のそういう人にはなれなかった。
「もう私、我慢なりません」
「ちょっと、どこへ行くのヘレナ」
腕をまくって、ヘレナは拳を振り上げた。彼女は私に答えることなく、部屋を出ていくと早々に速歩きでどこかへ行ってしまう。
お母さんみたいにしっかりしたヘレナは、私のためにとなると突拍子もない事をすることもある。だから見張っておいたほうが良いのだけれど…
「シンシア」
「はい」
扉がノックされて反射的に答える。部屋の出入口に背の高い男が立っていた。肩幅は広く、たてがみのような黒髪は彼の威圧感を増長している。ベオウルフ様がそこにいるとわかった瞬間、慌てて鏡台に置いてあったベールを手にして被った。
「話をしてもいいか」
「は、はい。ですが、魔物討伐は」
「それは別に構わない」
魔物討伐こそ緊急の用事であるだろうに。構わないということはやはり、他の女性と会いに行くための理由付けだったのだろう。今日の朝も、寝台の上から彼の姿は早くにいなくなっていた。
いつもの魔物討伐に行っているのだろうと思っていたが、彼が昼になった今にここにいるという事態は、嘘をついているということになる。
夫の不倫にどういう反応で出迎えればいいか分からず、ベールの下で表情に困った。でも自分の顔は相手には見られていないのだからと、彼の言葉に答えてソファーに座る。
彼はソファーに座ることなく、私の後に立つと、何やら首にかけてくる。
金のチェーンをしたネックレスだった。三日月にはめ込まれた琥珀が、キラリと光っては、胸元で静かに馴染む。
「これは?」
「君に似合うと思ってな」
急に優しくするなんて。
やはり、これから切り出されるのは不倫のことについてだろう。これは他に番を見つけたから、許してほしいという前触れなのだ。改めて彼が他所に女を作っているのだと思うと、胸が傷んだ。いくらこれが愛のない結婚だろうとも。過去の母の姿を、思い描いてしまうから。
私を公爵家に捨て置いた母。つながりの決裂は未だに心をえぐっている。
「許してくれないか」
「それは……仕方ありませんものね」
「良かった。君との茶会の時から俺は」
「せめて、私からも言わせてください。これからは魔物討伐と言わずとも、どうぞご勝手に他所へ行ってください」
これから先、彼が私に答えることは一切なくても。獣人の番という命運に縛られて、私は飾りの妻で一生を終えようとも。
ベオウルフ様の側は心地よかった。傷を見られて不安が沢山あったけれど、三ヶ月も彼は私に何不自由ない生活を用意してくれた。
それに、私は獣人の文化なんて全然知らなくて。茶会に出すものが紅茶というのは、良くないことを最近知った。犬や狼の獣人にとって、紅茶や緑茶は苦みが強いらしい。普通なら麦茶を飲むところを、私は彼に紅茶を出していたのだ。
それでも、甘いと嘘をついてまで飲んでくれた。
「私は不甲斐ないでしょうが、飾りの妻としてこれからも」
「誰が」
頭上からドスの効いた声が不意に聞こえてきた。
なんだろうと思い顔を上げると、彼の黒髪は威嚇するように逆だっていた。耳は後ろに向かって釣り上がり、力が込められた鼻筋はシワが寄っている。静かに上げられた口角から鋭い犬歯が垣間見えた。
「飾りの妻…と…誰がそんな事を言った」
「そんなの、誰でもいいではありませんか。そもそも、この婚姻は白い結婚でございましょう?ですから私は飾りの妻で」
「そういうことか……通りで君から、俺に対する良い匂いはあるのに、全く話しかけてくれないと思った」
ベオウルフ様は額に手を当ててため息を付きながらも、尻尾は忙しなく左右に動かしていた。何か悩ませるようなことを言っただろうか。番との関係も許すつもりだったし、私は変に彼を縛るようなつもりはないと言ったのだけれど。
「これは初めから、政略結婚であって政略結婚じゃないんだ」
「どういうことです?これは獣王国ステルクとグライフ王国の結びつきを深めるための結婚では」
「それは後付されたこと。最初は俺が……グライフの国に婚約を申しだしたところから始まった」
彼は静かに私のベールの端をつまむと、布を外してしまった。直接人と目を合わせるのは慣れていなくて、その一瞬を反らしてしまいたくなる。
「目を合わせないと上手く伝わらないぞ。俺は君を見たときから、ずっと尻尾が止まらなかった」
尻尾が止まらない…なんて。獣人の文化はまだよく理解できていないようだ。どういう言い回しなのだろうかと思いつつ、彼の肉食獣の如き金色の目が光った気がした。
「シンシアは噛みたくなるほどいい匂いをしている」
「へ?」
「ああ、獣人語はまだ習得しかけだと聞いていたな。この言葉の意味は分からないか」
わかるもなにも、彼が言っていることの文脈が不思議で仕方ない。噛みたくなるほどいい匂いって……私はそんなに美味しい肉の塊に見えるのだろうか。ただの令嬢として、翻訳の仕事ばかりしているから運動不足な気さえするのに。まさかとは思うけれど、この婚約というのは最初から仕組まれていて。私を食べるために計画された……とか?
「そのネックレスは俺のものだという証だ。毎日、ずっとつけておいてほしい」
「は、はい」
これは完全にまずい気がする。これから食べられるという、このネックレスは言わば豚につけるタグなのだ。内心、喜んで受け取ったばかりに首輪ともなるなど聞いていない。
「これからは夜寝るときは、時間をできるだけ合わせよう。君にだけ獣の姿となることも考える」
獣人の中には、稀に人と獣の姿を持つ者もいる。だからベオウルフ様が獣の姿になると、大きな黒い狼になるというのは噂話で耳にしていたが。
人食いの狼かもしれませんよ
ヘレナの声が蘇って、頭の中では数珠つながりに妄想が膨らんでいく。これはつまり、夜に食べられるということだ。狼の姿になった彼が、私の寝首をかいて……ガブリ
「シンシア?」
「ヒッ……わ、わかりました。全て分かりましたので」
「そうか。それならいい。これからも、翻訳の仕事は続けると良いぞ。できれば、グライフ語を獣人語に直すのもしてほしいな」
バカ正直に何もかも伝えられた気がする。
私はエサで、政略結婚という名の羊の皮を被った生贄の結婚。
白い結婚じゃなくて、これでは真っ赤な結婚じゃないか。
身震いしていると、ヘレナが帰ってきた。彼女の手にはグライフ王国の王家の紋章が刻まれた手紙がある。
「お嬢様、国から手紙が来てますが。大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
「だ、大丈夫よ」
手紙を受け取り、内容を読む。ヘレナに心配させないよう、表情を取り繕いながら、その手紙を開いた。