28 白状
私は決して、聖人などではない。誰かのために本を訳して、役に立たせるためにとあくせく働くような人ではないのだ。
「狼の姿でいてくれと頼んだのは、人間の城に獣人を招くというルール違反をするのを恐れたからです」
もう二度とこの城に足を踏み込むことを許されない。そのような真似をされるのは嫌だった。結局、我が身の可愛さに保身に走ったのだ。
夫である彼と差別に立ち向かうのではなく、自分が罰せられることを怖がったから。そんなの、妻としてふさわしいと言えるだろうか。
「だいたい、この結婚のことも少し難儀するところがあるのです。昔、私はあなたを助けたことは認めましょう。ですけど、そのことを私はずっと忘れてました」
「それは違う。俺のこと、ちゃんと思い出してくれて」
「思い出すというのは、遠い昔の記憶だと、私にとってはどうでもいいものだったということですよ。あなたには重要な思い出だったかもしれませんが。その出来事にずっと執着されて、あろうことか番と間違えて定めて」
ここまで来ると、彼がかわいそうに思えてくる。
私はただ小さな犬を救ったに過ぎない。なのに彼は、獣人の最も大切な相手である番として私を見てしまった。何年と、何百通もの手紙を送り、人間と獣人という壁すら乗り越えようとして。
これが獣人同士の婚姻なら、同種族の結婚ならとれだけ祝福されることだろう。
これから先、彼が進むもうとしているのはイバラの道。
「これでわかりましたでしょう。私達人間は……あなたたちに偏見がある」
人間の持つ醜い心を今日、見られた気がする。それを私も持っていると、彼に見られた。
毒を吐く口は止まることがなかった。なぜ尻尾も垂れ下げているベオウルフ様を慰めるのではなく、罪を白状するようなことしか出てこないのか。
それはきっと、ベオウルフ様に嫌われることが怖いから。
もし嫌われるならここで終わりにしたい。
きっとその方が、ヘレナに裏切られたよりずっと少ない傷で済むはずだから。
「かわいそうに。私のような傷物を、番として認めなければよろしかったのですよ。これが他のきれいなご令嬢、もしくは獣人の方であれば違ったのでしょうけど」
気づいたら全てを吐いていた。
「幼い私は、あなたを獣人としてではなく小さな子犬として拾い上げました。もし獣人だとわかっていたら、もしかしたら拾っていなかったかもしれないのです」
正直に話そう。
私は『黒天狼の牙』を率いる、獣王国で最も立派な狼獣人に執着されるほど聖人ではないのだと。
「ですから、私に対するその感情は全部無駄なんですよ。良いことなんてなにもありませんよ?私と歩む道は常に偏見まがいの目にさらされ」
と、何か冷えたものが首筋を伝った。凍えるような、息をすることすら許さないような魔力の気配。
「全部…全部嘘だと言いたいのか」
拳を握りしめる彼は、次の瞬間、獣のように目を光らせていた。
「俺の大切な思い出を、君は嘘だというのか」
「嘘でなかったらなんですか。私にとっては、昔のあなたを助けたことなど、どうでもよかったことで」
次の瞬間、私は両手首を掴まれていた。強すぎる獣人の力は、抵抗もできそうになく、彼は狼の喉から低い威嚇を発した。
「俺を助けてくれたシンシアは嘘じゃない」
「それはあなたが思い込んでいるだけです。私が拾ったのは、単なる子犬で」
「それでもだ。それでも君は、俺を救ってくれた。小さな犬としてでもだ。その思い出は、ここにある」
そういう彼は、自身の胸板へと私の手を押し付けた。そこにある無数の傷跡は、叔父からの折檻のもの。呪いの鎖が残る心臓。
「温かいだろう。君が救った命だ。君が子犬を拾っただけだと思っていても。俺は君に救われた」
次の瞬間には、彼の腕の中にすっぽり収まっていて、ぎゅうぎゅうに抱きしめられていた。ベオウルフ様のユサユサと揺れる尻尾の音に、暗い夜の表情は良く見えないが気持ちだけは伝わってくる。
「ただの偶然ですよ。馬車で通りかかったのが私でなければ、あなたはきっと他の人に」
「どうだろうな。俺は思うんだが、結婚してから君をどんどん求めるようになっていた。最初は手紙だったが、だんだんと君から離れられなくなっている。
最初こそ手紙のやり取りでなんとか感情を抑えられていたのに。今ではこうして、身を寄せていなければ気が済まない」
スリスリと頰を金髪に寄せてくるのでくすぐったい。止めるように言おうとしたら、低い声が暗いバラ園に響いていた。
「君を知っていくたびに、惹かれている。本を訳すときの君の優しい顔も、苦しいときに向けてくれた君の笑顔も、使用人の憎悪に絶望して泣いた顔も。全部、俺の前でだけにしてほしいぐらい。そのぐらい、俺は君を誰かに取られたくないんだ」
言葉にして囁かれるそれは、心に染み込んでハチミツのように溶けていく。その甘すぎる感情に漬け込まれるのはどうしても、拒んでしまいたくなった。
裏切られるときの痛みが、大きくなるだけだから。
ヘレナに言われたときの傷は、どうしても治らない。彼女を実の母として受け入れようと、あのときに裏切られた記憶はなくならない。
「信じてくれ」
それでも必死で伝えてくる彼のことを、信用するなと言われることのほうが難しかった。
「それに、君は意外と善人だぞ?あの使用人の臭いを変えたり、父親殿が溺愛するほど、君はとっても人の心に寄り添う。訳された絵本も、温かさが見えた」
「それはまたベオウルフ様が都合よく解釈して」
「違う。これは絶対に断言できる。君は傷つけられる痛みを知ってるから、まっ先に前に立ってしまう。良いところならいくらでも言える」
そういった瞬間には、どんどん過去の話を掘り返すものだから困ったものだ。
ゼムリャの不器用さを許したときとか、ヴラジーミルからゼムリャを守ったときとか、鎖の呪いから彼を解放しようとしたときまで。懐かしく思えてくるのを一つずつ長々と話そうとするので、切り上げるタイミングに困り果てていたらくしゃみが出てきた。
「人間には寒いか」
「そうです。そろそろ中に」
「城の中には入ってはいけないルールなんだろ?」
そう言うと、噴水に腰掛けて、膝の上に私を乗せた。ベオウルフ様の抱擁がいつにもまして強い。その太い腕を解こうとするものの、ビクとも動かない。
「城に入れなければ、寒くて凍えてしまうな。だが安心しろ、俺がいくらでも温める。だって君は番で、俺の妻だからな」
なんだか言いように解釈されている気がするのだが。
「あの……寒いので戻りませんか」
「冷え切った君を温めるのは、俺の役目。幸い、俺は獣人で体温が高い」
「あの、聞いてます?」
「だからな、俺の番として君は絶対に離れちゃダメなんだ………………ダメ」
うなだれるように言ってきた。不安な狼は、何度も存在を確かめるように臭いを嗅いできては、こすりつけてくる。獣人特有の所有物に対するマーキング。その匂いの強さが分かれば、私は少しでも彼の愛を受け止めることができるだろう。いつも思っては申し訳なく思ってしまう。
「かわいそうな狼」
「?」
「私のような人間を番にしたの、きっと後悔しますよ」
「ありえない」
小さな思い出を都合よく受け取る彼は、続けていった。
「俺は君だから、こんなにも“好き”になった」
「っっっ!」
満月の夜に、彼の目はよく光る。その眼差しは真っ直ぐで、狼なりの文化だった。
目を合わせて言うことは、真に限る。
冷えた心が芯から温められてしまったことに、こみ上げる顔の熱を彼の胸板に埋めた。




