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機嫌悪そうに動く尻尾に向かって私はつぶやいた。
「翻訳はお父様なりに考えてくださった、私への生きる術だもの。これだけは誇りを持って言えますから」
『いばら姫』といわれようと、これだけは胸を張って言えた。言語において、右に出るものはいないと。
グライフ語、大陸共通語、獣人語。
それから、竜語にエルフ語、ドワーフ語。後者三つは、実のところ少しだけかじったことがある。幼い頃こそ、六つの言語を理解して本を読んでいた記憶もある。
それは異例の事態。種族も違う言語を、全て習得できたというのは、この世にはまだ誰も存在していないから。だから言語は私の武器。それが認められたとあらば、父のおかげでもあったし何より私の誇りにつながる。
「ベオウルフ様たちにとって、己の牙や爪を誇らしいものだと国に褒められるようなものですから」
「む…そうなのか。それは仕方ない。でも、殿下とのスキンシップは過ぎるところがあると思うのだが」
プンスカ拗ねる彼に、私は少し頼んだ。狼の姿になってもらい、寝台に来てもらう。
「んんんっー」
「キャウ?」
仰向けにした大きな狼の腹に向かって、顔を押し付ける。グリグリと鼻を押し当てながら、満足するまで吸い込んだ。
「ベオウルフ……なんか癒やされます。王妃様の言っていたことって、本当なんですね」
本気で、犬のお腹というものは気持ちいいのだと思った。フサフサの産毛が顔に当たりくすぐったいのに、ゆたんぽみたいに温かい。加えて、プニプニとお腹がへこむ。
「ま、満足したか」
と、いきなり人の姿に戻られるので、私はすぐに身を引いた。旦那様に抱きつくなんて、そんな甘ったれに育てられた覚えはない。完全にお父様の教えが染み込んでいるのだ、そこのところの切り替えは早かった。
「殿下のアレはアレですが。ベオウルフ様のはアレですね」
「む、どういうことだ。全く言っている意味がわからないぞ」
「わからなくて結構です」
こんな感情、知られる方が赤っ恥だ。
私は少しずつ気づいてしまった。美形でもある殿下に触れられるのには、令嬢たちも黄色い声を上げる。昔から、舞踏会で彼は『ほほえみの王子』なんて言われるほど人気だった。その彼に触れられるより。
私は今、この眼の前にいる狼に触れられることのほうが心が安らぐということ。
「またお腹に顔を埋めたくなったら言ってくれ。いつでも腕は空けておく」
「結構です」
「う……シンシアが冷たい」
「今に始まったことではありません。というより、本当、あのセクハラをどうにかしてほしいですよ」
「なら俺が噛もうか?」
「それも結構です。噛んでしまったら、あなたが捕まってしまいますから」
獣人が殿下を噛むなんて、もはや言語道断。そこまでくると、国際問題にまで発展しかねない。
国と国とでまた戦争が起きるなんて、頭が痛くなってくるので、ここは我慢するしかないのだ。
「シンシア、帰ったらお仕置き」
「わかりましたから。ほら、早く寝ますよ」
「聞いてるのか?」
もう殿下に何かを教えることも、本当に骨がたくさん折れる。彼の手つきは令嬢たちの扱いに慣れている、夜伽で行われるようなもの。太ももを触られそうになったときは、さすがに足元の狼が何度も吠えて威嚇してくれたので助かったが。
胸騒ぎと、緊張が明日の授賞式に残る。最初こそ好印象だった殿下の顔がもはや見る影もなくなっていたので、ますます不安だ。明日エスコートするのは、殿下だし。
「もう無理…」
「なら帰」
「まだです。まだ……まだいます」
ごっそり体力を持ってかれているが、大丈夫。だって隣には、心強い狼がいるから。
舞踏会が始まり、私はドレスに着替えた。使用人たちにすべての髪をあげてもらい、首筋はいつもより涼しい。
「シンシア、今日は僕がエスコートしてあげるよ」
あのときの言葉なんか嘘のように接してくる殿下は、部屋から出てすぐに腕を貸してくれた。
親切心か、はたまた何か裏を持っているのか。
私にはその判断が苦手である。ヘレナのときもそうだったが、私はどうにも人を深く信じてしまうところがあるようだから。
「その犬も、今日は着飾ってる…のかい?」
「グルルっ」
「そう威嚇しないで。僕はただ事実を述べてるだけじゃないか」
蝶ネクタイをした足元の狼は唸り声を上げる。今ここで噛みつきそうでもあるが、彼は私の約束は守ってくれた。決して人の姿にならないということを。
会場の方につくと、ようやく殿下は手を離してくれた。数々の翻訳家や、外交官、それから小説家たちが集まっている。
「あら、シンシアちゃん。ご機嫌麗しゅう」
「ボーモン様!」
ふくよかな女性に話しかけられて、私は殿下のことなどそっちのけになった。授賞式は彼らとの交流を少し深めてから。それまでの時間を壁の隅でご飯でもつまんでいようかと考えていたけれど、彼女がいるなら別である。
様々な恋愛小説を書いているボーモン様はあの有名な『美女と野獣』を書いただけではない。彼女はれっきとした本のコレクターであり、古書に関してはものずこい蔵書を持っているのだ。
「その大きな犬、どうしたのかしら」
「ああ……この子は最近拾った子なんですよ」
「ふふっ、よろしくね。そうそう、聞いたわよ。獣人の人と結婚したんだって?おめでとう」
ボーモン婦人が祝福してくれるだけでも、私は十分だった。この結婚は最初こそ政略結婚だと思っていたけれど。やはり誰かから祝われることのほうが、けなされるよりもよっぽどよかった。殿下からケモノと婚姻したのかと言われるよりも。
「最近珍しい本が手に入ったのよ。シンシアちゃんにもこの喜びを分けてあげるわ」
「それってもしかして、古書ですか?」
「あたりよ。ふふふ、そんなに目を輝かせちゃって」
まるで親族のように彼女は分厚い手を私の頬に寄せた。それから目を細める。彼女は私に翻訳の力を教えてくれた先生でもあった。獣人語の家庭教師であったために、親しくされるのは必然である。
「シンシアちゃん、小さい頃からあなたを見てきた私にはとても喜ばしいことだと思うのよ。あなたの外せないベールのことも、本当は気にかけてたもの」
「ベールのことは私も気にはしてました。でも…それでも、私の隣りにいたいと言ってくれた人がいるんです」
ここは人間の国。グライフ語であるから、その全ては足元の狼には聞こえない。
ボーモン婦人は私の言いように何かを察して、笑い声を上げた。笑い声は会場に響き、それにつられて人が押し寄せてくる。
「何の話を?」
「あら、シンシアちゃんの話題よ。この子、獣人と結婚したんですって」
私をまるで娘同然に紹介してくれるボーモン婦人に、周りは様々に声を上げた。
「え、獣人と?」
「あんなケモノと??」
口々に噂し始めては、急に会場が静まり返る。会場の照明が落とされ、前の方で授賞式が始まった。次々と名が呼ばれて、陛下から賞を与えられていく。褒美とともに、祝の言葉も添えられて。
名誉ある賞は、私の番まで来た。
「シンシア・エストレリャ。これがお主の多大な功績に見合うかはわからないがな」
冗談めかしに言う陛下からトロフィーを受け取ったときだ。頭を垂れていた私に、殿下がグラスを渡してきた。
「ワインをどう?祝福にはいつもワインの味が似合うからね」
「ありがとうございます」
素直に受け取り、私は口をつける。その時、隣りにいた狼は唸り声を上げて、私の手にあったグラスをひっくり返した。会場の皆んなはその様子に、もはや固まりつくしかない。
殿下からの差し出されたワインというのは、王族から与えられる褒美と同等である。それを拒むというのは、もはや王族を愚弄しているのと同じ。
殿下はニッコリした笑みのまま、尋ねてきた。
「これはどういうことかな」
「あ……あの」
「ガルルル」
「それってさ、君の犬だよね。ということは、今のも君の失態だ」
「は…はいっ」
凍りつく現場に、もはや否定も入れれなかった。殿下は私の手を掴むと、立ち起こす。
「責任、取ってくれるかな」
「っ」
耳元で悪魔がささやいてきた。何をどうすれば、こんなことになるのだろうか。やはり、ベオウルフ様が勝手に突っ走ったことのせいで問題が起きた。彼がこの城に来なければ、そもそもこういった面倒なことは起きなかったはず。
殿下の真意がわからなくて、握られる手に力が込められた。
「手始めに僕と」
「シンシアを離せ!!」
不意に腕を引っ張られると、会場は指を指していった。
「見て!耳と尻尾が生えてるわ!」
「じゅ、獣人じゃないか!なぜ獣人が!」




