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客室に戻ると、翻訳の仕事を続ける。今回手を付けているのは、竜語の文字。お父様とあのあとに何回か、手紙を交換していた。竜語でお互いに書き連ねては、それを辞書ではめていき、だんだんと文字を読むのも早くなってくる。


「シンシア、入っていい?」


部屋のノックに反応すると、今度は殿下が来た。


「なんでしょうか」


「手紙を書く練習をしたいんだ」


「お相手はどちら様でしょう」


「それがその…」


王妃様と同じようにモジモジする彼は、何だか年頃の男の子のようだ。最初に会った時はものすごく女性慣れしていそうな雰囲気であったが。彼は私とほんの少ししか違わないというのは知っていること。お父様からも、アル殿下との婚姻が一度は浮上していたと聞いている。


「まあ、相手は良いじゃないか。女の子に書くというのは教えておくけど」


「はあ……わかりましたが。私、ポエムみたいな情熱的なのを書くのは専門分野ではありませんよ?」


それでもいいかと尋ね返すと、殿下は何度も頷いた。客室に二人きりというのはちょっと体裁的に悪いかと思ったが、足元に変態狼もいることだから大丈夫だろう。アル殿下にいくつか参考になりそうな本を持ってくる。


「恋愛小説の類はこの辺ですかね。『ロミオとジュリエット』なんかはとても有名ですが。私は『美女と野獣』が好きですかね」


「君は野獣みたいな強い男の人が好きなのか?」


強い人が好きなんて、考えたこともなかった。そもそもあまり好きな人について考えを巡らせたことも少なかったので、今に思うと辺境伯邸にいた自分はかなり非常時の状態だったのだと分かる。


「どう…ですかね。好きな人ができれば、その人のことが好きになるだけで、好きになるのに特別な条件とかはないです」


「じゃあさ、僕のことは好き?」


「……はい?」


突然なにを聞いてくるのやら。ハテナマークが点在しながらも、素直に頷いた。

多分これは、殿下がお友達をつくるために必要なステップなのではなかろうか。

王族というのは常日頃より命を狙われる存在。だからこそ確かめ合わなければ、彼らは親しく語り合うこともできない。

これは言わば、殿下からの試練。


「そっか、嬉しい」


ニッコリと少年のような笑みを見せたかと思えば、向かい側に座っていた殿下は突然私の隣に移動した。それから、私の金髪をすくいあげて、口づけをする。


「僕ね、君が好き」


「は、はぁ…」


「ああ、手紙なんてどうでもいっか。実は一目惚れしたんだよ」


これはどういうことだろうか。

もはや目が点になるしかなく、私は殿下の強い押しに頭の回路がわからなくなってきた。


「あの………とりあえず、冗談でもそういうことはいけません。殿下、貴方様はとても高貴な方でございます。私のような傷物は」


「それって君がずっと被ってるベールのこと?」


殿下は興味津々になって手を伸ばしてきた。ベールを取り外してしまうと、アル殿下は私と強く目を合わせて離さない。


「大丈夫。そんな傷、たいしたことないよ。だからさ僕と結婚しない?」


手を掴んできたその瞬間だった。


「その手を離せ」


私の体を殿下から引き剥がすように、大男が腰に腕を回した。殿下の方から身を引くように引っ張られると、後ろに固い胸板を感じる。見上げれば、凛々しい彼の顔が歪んで、殿下を激しく睨んでいた。


「ハハハッ、やっと正体を現したね、獣人さん」


「グルルルっ。シンシアに“好き”と言っておきながら、無臭だとは。なにか薬を使っているな」


警戒する彼に合わせて、殿下は獣人語に切り替える。


「僕だって獣人の言葉ぐらいわかるさ。昨日の夜に君の部屋を尋ねようとしたら、話し声が聞こえてね。もしかしたらと思ったけど、それが君の旦那さんでしょ?」


確かめるように殿下は後ろのベオウルフ様を指さした。それから口の端を上げる。


「そんな獣が相手なんて、君もかわいそうだね。あれでしょ?僕たちに隠してたのは、ただの獣が自分の夫なんて言うのが恥ずかしかったからじゃないの?」


「っ!」


「ねぇシンシア、僕は本気だからね。君のこと、いつでも婚約者にしてあげるから」


何やら企みめいた笑みを見せて、殿下は部屋からいなくなった。後ろにいるベオウルフ様は最後まで彼へ威嚇し、鼻にシワを寄せる。

私なんかを婚約者にして、なんの利益があるというのだろう。冗談にもほどがあると考えながら、握りこぶしを握った。


「シンシア」


「ごめんなさい。今、ちょっと混乱してます」


「……そうか」


第一、獣人をケモノなどと表現するのはいけ好かない。私にとっては大切な仲間であるし、彼はたしかに私の夫。人間の獣人に対する差別が酷いから、彼を狼の姿のままでいさせた配慮をネジ曲がってとらえられるのは嫌だった。


「怒ってるのか」


「それはそうですよ」


あの少年の顔をしたような、冗談が過ぎる悪魔。何だかその顔の一部を見た気がして、身震いがした。

殿下には気をつけないと、どんな地雷を踏まれるかわかったものじゃない。


「とりあえず、授賞式までは乗り切りましょう。ベオウルフ様、引き続き狼の姿でいてください………ベオウルフ様?」


「……わかった」


なかなか動かない彼に強く促すと、ようやく狼の姿になってくれた。その後、王妃様のために竜語の教材をつくると、足元に毛皮の感触がしてきた。私の方をいつも見上げては顔色をうかがってくるのに。

その時ばかりは背を向けたまま大人しい犬は、見ていて少し胸が痛くなるのは錯覚だろうか。



それから何日も、殿下に会う日が続いた。王妃には以前として変わらず接することができるものの、彼を相手にするのには少し骨が折れた。


「ここの訳し方がわからないんだ。君ならどうする?」


「獣人語に好きという言葉ありませんからね。それを獣人語に直すなら、“君を月よりもきれいだと思う”ですかね」


グライフ語で有名な詩“月よりもあなたが好きだ”、をそうやって訳し変える。ただそう教えているだけなのに、殿下はいろいろ頭で膨らませてとらえているようだ。最近はなるべく自室ではなく、図書館で共に学ぶようにしているが、足元に犬がいなければ、私は今頃この城を抜け出していたところだろう。

机の上だからといって、殿下は調子に乗って何度も手を触ってくるのだ。


「やめてください」


「王族に反抗するなんて、ダメだよ?」


「……」


触られることに嫌気が差して手を引っ込めようとするものの、こちらにも仕事がある。授賞式の二週間前に城に来たのは、王妃様のお手紙を翻訳してあげるため。これは今日、彼女が竜人の方に送りたいというもので性急なものだった。


冗談じゃない。殿下に仕事を邪魔されるなんて。


羽ペンを取り、黙々と作業をするが、その間にもベオウルフ様の目がないところで、殿下は私に触れてきた。

時には隣の席に座って肩と肩を引っ付け。時にはペンを止めてしまうほどに、手を重ねてきたり。


なぜだろう。辺境伯邸でベオウルフ様がベタベタしてきたときは、全く嫌気もなかった。そこにあったのは、構うなとかちょっとした彼からの執拗さにイラッときただけで。

この場においては全くの別の感情である。まるで毒ヘビが私の体をくまなく巻き付きながら、探っているような。




「もう無理だわ。さすがにあのきれいな顔でも、嫌なものは嫌よ」


寝台にうつ伏せになった私は、枕に顔を押し付けた。部屋の声すら殿下に筒抜けだったこともあり、どうしようもない恐怖が押し寄せていた。


「あれはいわゆる、セクハラよね。もういいかしら、帰りたいわ」


「俺も帰ることをおすすめする」


「でも…やっぱり賞を陛下から受け取りたい気持ちが」


「そこまでこだわることなのか」


寝台に腰掛けてしょんぼりと尋ねてくる彼に、私は頷いた。

名誉ある賞。女性で初めて、翻訳大賞を取るのだから。


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