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そのまま昼食に誘われて、私はグライフ王国の王とお話する機会すらいただけることになった。
長机の端に座る陛下は、真っ白な髪もヒゲも、雪のように細い。しかしその黒い瞳は穏やかに話しかけてくれる。
「そなたの噂は前々から聞いておった。よくもまあ、あれほど本を訳すものだな。若いというのに」
「いえいえ、ただの趣味から始めた仕事でございますから」
「そうそう。まだ本をたくさん用意してあるのだ。良ければ、また国のために仕事を任せてくれるかね」
「それはもちろんでございます」
嬉しそうな顔で王は頷くと、私とは向かい側に座る王妃様にも何かを言うよう催促した。
「あの…私にも頼みたいことがあるのだけど」
「はい、なんなりと」
「その……竜語を教えてほしいのだけど」
モジモジという王妃様は、殿下と似ているが、彼よりも透き通るような美しさだった。陛下と王妃様は同い年だと聞くけれど、王妃様の老いは全く感じられない。彼女の可愛い仕草に、陛下は付け加えた。
「我が妻は最近、竜王国ヨルムンガンドの方で、友ができたようでな。手紙のやり取りをしておるのだが、いかんせん、竜語というのは、難しいであろう?だからな、お主のような三つも言語を巧みに操る者ならばできると思っての」
「ごめんなさい。こうして授賞式前にあなたを呼んでたのは、実をいうとこのためなのよ。アルヴィンがあなたのファンだということもあったけれどね」
居心地が悪そうに言う彼女。竜語というのはヘレナに騙されたときに使われた内容と同じ。
何という縁だろうか。私は今ちょうど、竜語習得の仕上げ段階に入っていたところだ。
「ぜひともやらせてください。私、竜語はまだまだ習得とはいきませんが、かじっていたところなんです」
「まあ!ありがとう」
「それはすごいことだな。そなたは、かなりの天才のようだ」
「母上、僕との時間も取っておいてね。シンシアは僕の先生にもなるんだから」
先生?
疑問に首を傾げると、陛下はニッコリ笑った。
「手紙で知らせたであろう?外は今、とても大雪だ。雪が降るのが少し収まるまで、そなたには我が妻と息子の先生になってもらいたいのだ」
「……え?」
「ハッハッハ、そうとぼけた顔をして。我らをからかっておるのか、天才さんとやらは。そなたの翻訳は文豪たちの中でもかなりの腕前と見られている。若き天才が生きているうちに、我らはそなたから教わりたいのだ」
どういうことだろうか。
全く意味がわからない。
授賞式が終われば帰らせてもらえると思っていたが。
手紙にそんなこと書かれていたかと振り返るものの、そんな記憶が……
いや、待て。
私、授賞式が行われるとかいう言葉を見ただけであとの内容をすっかり確認していなかった。思えばゼムリャがついてこなかったのは、長期間屋敷を開けてしまうことを危惧したためか。ベオウルフ様はどうせ魔物討伐もお休みで暇だし。
足元にいる狼が一つ吠えると、陛下がステーキ肉を使用人に持ってこさせた。それをガツガツと机の下で食べる音が聞こえてくる。
「そなたの犬もまた賢いと聞いたぞ。見たこともない犬種だが、たしかに利口そうな顔をしている」
「犬なんてより狼っぽいわ。シンシアさんにしか従わなさそうな大きな犬ね」
微笑ましそうに見てくる夫妻に、私はまた顔がひきつる。ただでさえ、夕食の時間も変に緊張して喉に食べ物が通らないのに。
足元の狼は緊張など知らないようで、相変わらず呑気に食べている。
「ははは、利口なら少しぐらい飼い主の緊張に反応してくれたらいいですが。陛下と王妃、殿下を前にしても、食べ物が喉をよく通るものですよ」
「ワウ?」
「犬が私達の身分まで把握していたらさすがに笑っちゃうわよ、シンシアさん。利口というのは、飼い主のそばに常にいて、顔色を伺ってくれることなのですから」
黄金色の目が二つこちらを見て、犬は私を見上げる。たしかにその点は利口かもしれないけど、この犬、実は狼で獣人なんです、とは言えない。というか食事の席で犬食いしてる人が私の旦那なんて、もはや恥ずかしくて言い出せない。
高貴な人達の前で、彼はこんな扱いをされていていいのだろうか。屈辱ではないだろうか。
私がはじめたことに罪悪感が浮かんできながら客室に戻った。大きくなる黒い感情に、ベオウルフ様は臭いで気づくこともなかった。
「あの肉、かなり調味料がつけられていた。自然の味じゃないから、舌がピリピリする」
「獣人の国とは料理の文化も違いますから。家畜から取れる肉を保存するために、塩漬けにしていたりしますよ。その点、獣王国は新鮮な獲物を狩って食べる狩猟ですからね」
「全くそのとおりだ」
「お気に召しませんなら、帰っ」
「君の文化を知れるのは嬉しい」
帰ろと言いかけた口が塞がってしまう。純粋な狼は、私の顔色をうかがうことなく、静かに笑う。彼を追い返すこともできないとなると、私は狼を連れながら日中教師の仮面を被らなければならない。そう思うと、気が重くなってきた。
夜の間、後ろから抱きついてくる重い男の体にうなされながら、朝早く目を覚ました。早速、王妃様のところへ出向いて、彼女の手紙とやらを読み上げる。
採光窓が大きく、何十人入っても生活できそうな王妃様の部屋。中はフリルやら可愛らしい犬の小物など飾られていて、彼女の腕の中には灰色のモップみたいな犬がいる。
「これは、心が温まる内容ですね」
「そうなの?」
「ええ。王妃様とまたお茶をしたいとか、グライフ王国の塩漬けの肉には、たしかに香辛料が合ったと」
「よかったぁ。私、心配していたのよ。向こうの竜人たちは薬や香辛料を貿易してくれているでしょう?だから自慢の香辛料を使った料理が、向こうの国になくて驚いたの」
竜人たちは薬と香辛料を生業としている。そんな彼らには、貿易品というのは自国にとってあまり必要のないものなのである。
体が丈夫で長命な彼らに薬はいらないし、獣人と同じように獲物を狩る彼らに保存料は必要ない。
「文化を知るというのは難しいことだと、わかり合えないと思っていたわ。だからこの手紙が悪い報告じゃなくてとっても安心よ」
「そう…ですね。文化というのはたしかに分かり難いです。好きな相手に好きだと理解してもらうために、自分の匂いをつけてくる者だっていますから」
「ふふふっ、まるで犬みたいね。それって、ベオウルフのこと?」
彼女が指摘するものだから、ギクリと胸がざわついた。ソファの足元にいる黒犬を指さした彼女は、クスクスと笑った。
「犬ってかわいいわよね。素直に感情を表現してくるし、かまってほしいとたくさん甘えてきてくれるもの」
「犬が甘えすぎてると思うときもありますが」
「そうなの?」
「だって、体重をのしかけてくるんですよ?暖炉の炎を消して、私にすりついてきたり」
本当、はた迷惑な狼だ。
腕を組んで主張すると、王妃様は更に笑った。
「シンシアさんの犬は本当にお利口なのね。あなたにかまってもらいたいから、そんなに賢くなったのかしら」
「それならこれ以上賢くなられると、こっちも大変です」
「そうね。でもいいこともあるわ。ほら、これを見てて」
と、胸の中にいた毛むくじゃらの犬を彼女は抱き上げると、突然の犬のお腹の方に顔を埋めた。スリスリ顔を寄せて、両者とも心地よさそうな表情をする。
「こうすると、癒やされるのよ。シンシアさんも今度試してみてね」
彼女はそう言うと、午後のお茶会があるからと出ていった。
犬の腹を吸って、嗅いだら、少しは癒やされるのだろうか。大きい狼の方に目を向けると、彼は首を傾げた。
いや、そんなことしたら絵面的にまずい。
大きな男のお腹に顔を埋めて、犬吸いするというのは、さすがにこっちの身がもたないだろうと、首を振った。




