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人の心はとても移ろいやすいものだ。私の母は公爵家の婦人として私を身ごもったけれど、産んでから彼女は度々姿を消すようになった。毎晩、母がいない日が続いて不倫だと確信したとき、父は気をおかしくしていった。

ある時、お酒に溺れた父が私に向かって手を上げた。


「お前のせいでっ、フィーリアがいなくなったんだっ。なぜ俺との子じゃないお前なんかがここにいるっ!」


紛れもない公爵様との子だと、ヘレナはいつも言っていた。でも私は父と全く似ていなかったのだ。金髪は母から譲り受けたものでも、薄水色の瞳だけは父にも母にも似なかった。だから父と目を合わせる時、いつも叩かれてしまう。

でもその時ばかりは運が悪かったとも言えば良いだろうか。父が振り上げたウイスキーの瓶が、幼い私の頭をかち割った。そして運悪く暖炉の側にいた私は、火の粉がかかってお酒に燃え移り、皮膚を焦がした。


「シンシア様!!」


ヘレナがかけつけた時はもうすでに、額から赤い鮮血と炎が溢れ出ていて、片目は見えなくなっていた。父が荒い息をしたまま、冷静になったのかその日の晩はそれだけで済んだけれど。代わりに私の片目は開いていても何も見えず、大きな火傷の跡が右頬に残ってしまった。

それからというもの、父は私を突き放すことにしたらしい。教養を身に着けさせるためだと、時間の多くを教育にあてて、彼と話す時間はパッタリとなくなった。


私は傷物になってしまった。だから代わりに、人一倍、言語を習得する勉学に励んだ。

ラグ大陸共通語から、グライフ王国の言葉、それから隣国の習得が難しいとされる獣人語。


「お前に縁談が来ている。獣王国ステルクの辺境伯との縁談だ。これは国に貢献(こうけん)する、政略結婚のまたとない機会。受けることにしろ」


「はい、お父様」


拒否することなんてできなかった。お父様の言うことは絶対で、それに従うコマとなるのが、私の役目だから。反抗さえしなければ、打たれることもない。

それに、額から頬にかけて作られた火傷跡は一生涯消えない傷跡だ。それでも三か国語を習得したおかげで、良い縁談が来たと思う。エストレリャ公爵家に子供は私だけであったが、獣王国のフェンリル辺境伯家へと嫁ぎに行くことになった。




「ベオウルフ・フェンリルだ。よろしくお願いしたい、シンシア・エストレリャ嬢」


初めてあった時、彼の低くて響くような夜の声に驚かされた。黒いたてがみのようなクセのある長い髪に、三角耳が頭から生えている。服越しにもわかる(たくま)しい肉付きに、腰から流れる尻尾はフサフサとしていて触りたくなる心地すらした。

精悍(せいかん)な顔立ちをした彼は、黙っているだけでも迫力があった。


「この婚姻によって、ますます獣人と人との結びつきは強くなるだろう」


「私もそのことについては嬉しく思います」


「それでその…顔にあるベールを取ってくれるのはいつになりそうだ?」


ベオウルフ様は私の顔にかけてある分厚めの青いベールのことを気にした。これを脱げば、彼は傷跡を見ることになる。

私の傷跡を見て、公爵家に何かしらの報告が行けば、父が何かするに違いない。お父様の機嫌を損ねれば、幼き頃のようにまたお酒に溺れられ、殴られるような未来が見える。

そう思うと、今ここで見せるのはできそうになかった。


でも、いくら政略結婚だとしても、これから夫となる相手に隠し事などできようか。答え方に戸惑うと、彼は興を反らしたのか、お茶を一杯飲んで立ち上がった。


「まあ、ゆっくりするといい。ここは比較的過ごしやすいからな」


気遣わせてしまっただろうか。申し訳ない気持ちになりながらも、やはり顔を見せることはできなかった。設けられた自室に閉じこもり、私はこの度の政略結婚に際して与えられた役割だけは全うしようと心に決めた。




朝から晩まで、ヘレナに獣人の本を運ばせて、それを大陸共通語とグライフ語に訳す仕事。


「お嬢様、お休みになられましょうよ。旦那様を茶会にでも誘ってはどうですか」


「そうね。お茶の文化はこっちにも少しずつ馴染んでいるらしいし、お昼休憩には丁度いいかもしれないわ」


ここに来て一週間。少しは翻訳の仕事にも慣れてきたので、心にも余裕ができていた。だから彼と少しぐらい、話す時間を増やしてもいいと思った。辺境伯の庭園は立派で、赤いバラが咲き誇っているこの時期に。ヘレナにグライフ王国から持ってきた紅茶クッキーを頼み、すぐに準備をする。


重厚な黒い木の扉を叩けば、向こうから低い声で返事が返ってくる。


「どうしたんだ、シンシア」


「ベオウルフ様とお茶をと思いまして。いかがでしょうか、庭園は見事な花を咲かせております」


「わかった。そちらに向かおう」


立ち上がれば、頭二つ分は大きい体格の狼獣人。『黒天狼』とも呼ばれるベオウルフ様は無表情ながら、私についてきた。もしかしたら、仕事の邪魔をしたかもしれない。先程、執務室の机を見たら書類がたくさんあったから。


「ベオウルフ様は……その…魔物討伐でいつもお忙しいですよね」


「ん?ああ。辺境伯は気候が良いせいか、魔物もまた住み着きやすい。それを討伐するには『黒天狼の牙』が必要だ。あれは俺がいなければ機能しないからな」


ベオウルフ様を筆頭とするフェンリル辺境伯家の魔物討伐隊の異名。『黒天狼の牙』はグライフ王国にまで名が(とどろ)くほどに魔物を狩ることに長けている部隊だ。

移動までの間にも何を話そうかと話題を探りながら、庭園の東屋(あずまや)についた。小さな屋根があるここなら、昼間の日差しも眩しくなくて静かにお茶をたしなめるだろう。向かい側に座った彼に、早速ヘレナはお茶を出してくれた。


「いい匂いだ。りんごの匂いがする」


「アップルティーです。りんごの果肉を乾燥させたものを使っているんですよ」


カップを大きな手でつまみ、彼は口につけた。体格の大きさと違って、小さく見えるカップがなんとも可愛らしい姿に見える。三角耳がピコピコと動き始めて、彼はピクリと広角を上げた。


「っ………甘い」


甘いのは苦手だっだろうか。彼の好みがわからず、とにかく顔色を見る。


「疲労回復の効果もあるのですが」


「そんなに気遣わなくてもいいぞ。俺は日頃から疲れているというわけではないからな」


「そ、そうですか」


余計なお世話だっただろうか。

獣人は力を誇りにし、力が全てという考えが根強い。

弱そう…などと思われるのは恥であるから、この気遣いは余計だったかもしれない。


完璧な妻でいなければ、獣王国に対して、グライフ王国の人間としての示しがつかない。この結婚は外交的なものなのだからと、相手の好みを知らない自分を責めた。


「こちらのクッキーはいかがですか」


「リンゴジャムのクッキーか。今日は甘いものを久しぶりに食べるな」


大きい手がクッキーを口に運んでいく。犬歯をつかって(くだ)いていく姿に、また不安をつのらせた。私が知っているお茶会というのは、甘いものを食べて心を休めることだ。でも、この方達にとっては休憩なんて違うことなのだろうか。

獣人の文化をまだ完璧に把握したわけではないから、やはり不安ばかりが…


「風が強いな」


「え?」


辺境伯の山から降りてくる風が、私の頬を撫でていた。吹き付けてきた空気の流れに、顔につけていたベールは舞い上がって、彼の眼がしっきりと見えてしまう。黄金色の切れ長な瞳に、私の顔が鏡のように映っていた。

右の額から頬にかけての酷い火傷の傷。誰もがこの顔を見て、口を揃えていった。


『いばら姫』


バラはトゲさえなければ美しい。その意味を取って名付けられたあだ名は、現に私の顔を皮肉っていた。


「その傷は」


「っ見ないでください!」


必死で風に煽られたベールを手に引き寄せた。


「大丈夫なのか、痛まないか」


「さ、触らないで!」


近づいてきた手を、私ははねのけていた。ベオウルフ様の手は宙をかいて、下がっていく。彼の頭の上から生える三角耳は垂れていき、彼は拳を握り始めていた。


怒らせてしまったと気づくのは早かった。三角耳も尻尾も、獣人の感情はよくそこに現れるものだ。表情に(とぼ)しいベオウルフ様の機嫌を損ねたと知るのは、簡単だった。

それからは覚えていない。彼と眠る時は、最初から時間が別々だったし、朝と晩にしか彼と食事をする機会はない。それも、魔物討伐に何度も行く彼は帰りが遅くていつも食事の機会はズレてしまう。


謝る機会も、弁解する機会も、どこにもなかった。


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