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ベオウルフ様の過去を聞いてから、私はどうにも自分がおかしくなったと気づくのは遅くなかった。彼の顔を見るたびに、その過去に変に気遣ってしまうというか。
「はぁ…」
「奥様、そんなに元気がないなんて、アタシのほうが元気なくなっちゃいます」
「ゼムリャ…主人を喜ばせるのが使用人の努めよね?」
わざとらしく聞き返すと、まんまと可愛い狼は罠にかかった。頷いて答える彼女に、私は畳み掛ける。
「狼の姿になって癒やして頂戴。その耳も、尻尾もモフモフしてあげるわ」
「ひっ…で、でもっ、兄様がっ絶対に許しません」
「安心して。今はベオウルフ様も外へ見回り中よ」
胸の前でもみもみ仕草に表すと、彼女はゴクリと固唾をのむ。ベオウルフ様が黒くて大きい狼になるなら、彼女の場合、きっと程よい抱き心地のもふもふになるに違いない。そう期待を込めているのだが、急に扉が激しくたたかれる。
「何事かしら」
「来客です。あの…ヴラジミール様とゾーヤ様が」
ドタドタと駆けつけてきた獣人の使用人に、私はすぐにこたえた。早くケリをつけなければと腹をくくり、玄関へと急ぐ。
大扉を開く痩せ型の男と、マダムのように着飾った赤い口紅の女性。
「お前!今度こそ婚約破棄をさせに来たからな。早くこの書類にサインしろ」
「あら?私、お返事を出していませんでしたっけ」
「出してないもなにも、いくらここに婚約破棄の手紙を出そうと、必ず私の家に帰ってくるのだが!」
ヴラジミールが叩きつけてくる婚約破棄状は、ここ最近毎日見ているものだ。正直言って、見飽きたと言ってもいいほど。ベオウルフ様が過去何年と公爵家に送ってきた手紙より、目に映したくないぐらい、面倒くさい。ヴラジミールが押し付けてくるその書状をとりあえず受け取ると、またニコニコと対応してあげた。
「よろしければ、中に温かなスープも用意しておりますので。いかがですか」
「その手にはひっかからないぞ!また熱いのをかけられるなど、まっぴらだからな!」
「それは残念ですねぇ。グライフ王国からお取り寄せいたしました、美味しい美味しい食材も混ぜてありますのに」
「美味しい食材?あなた、食べてみましょう」
やはり前回と同様、警戒するようなヴラジミールとは違い、ゾーヤは美味しいものに目がないようだ。彼女が細腕を絡みつけると、ヴラジミールは断れずに中へとズカズカ上がっていく。
今回はゼムリャにアツアツスープをぶっかける…なんていう同じ作戦では面白くないだろう。だから、ここは一つ、正真正銘、美味しい食材を使ってやることにする。
客間へと案内し、彼らを向かい側に座らせると、ゼムリャに例のものを持ってくるように頼んだ。
「で、婚約破棄をしてくれるのだな」
「そうですね。ですが一つお訪ね願いたい。あなた、今更ここによくノコノコとやって来られますよね」
握りこぶしを握る。
「ああ?」
「聞きましたよ。あなた方が私の夫であるベオウルフ様を、幼い頃に随分と可愛がってくれたようではありませんか。私の可愛い使用人も」
彼から聞かされた過去。それをこの方達は少しでも振り返ったことがあるのだろうか。
両親を失い、孤独と損失感に陥る小さな子どもたちから、お金をせびろうとした醜い大人たち。無知な子どもたちに手をあげて、家を壊し、彼の心すら壊した。
尋ねると、ヴラジミールはケラケラと笑い始める。
「それが何だ?獣人は弱肉強食の世界だ。あんな弱いやつは風上にも置けない。私の言うことに従っておけば良い」
「……弱い?果たして本当に弱いのでしょうか」
「私のような黒の毛皮を持たないやつにさえ、あいつは勝てなかった。それを弱いと言わずして」
「ふっふふふふ。よくもそんなに自信を持っておっしゃることができるのですね、うぬぼれ狼」
怒りを通り越して、情けないとばかりに笑ってやった。誰もコイツらを裁かない。姑息な手を使い、フェンリル家の親戚すら見過ごした彼の暗殺計画。
ベオウルフ様がどれほど傷ついた過去を背負っているのか、実際に見たこともない私にはきっと全てを想像してあげることなんてできないけれど。
それでも伝わっては来る。彼の胸元の鎖を見せてもらった時にあった、古傷の数々。ムチで打たれたものに、獣の爪痕が無数に残ったもの。
「なっ!よくも私をうぬぼれと言ったな!!」
「弱者とは一体何だと思いますか」
「弱者なんてもの、ただの負け犬だ!力でねじ伏せられてしまうような」
「そうかもしれませんね。力で負けてしまう者こそ弱いのかもしれません。ですが、弱いからこそ強くなれる」
ベオウルフ様はたしかに弱かったのかもしれない。病気がちで、雪の日に父親と遠駆けしたら、すぐに熱を出したと語っていたぐらいだから。野生の狼ですら、真冬の日を長距離移動して平気だと言うのに。フェンリルの特別な力を持っていても、彼は雪の日に外出するのを許されなかった。
そして、ヴラジミールという叔父に折檻を受けてさらに生きる希望を見失いかけて。
「弱いからこそ、守ろうと強くなろうと思える。人を傷つけ、力を見せつけ、従わせようとするような真似はしない」
「それを言えるのは、今のあいつしか知らないからだ」
「いいえ。私は、小さな狼を知っております。血だらけだった、まだ腕に収まってしまうほどの子犬を」
今はもう鮮明に思い出せた。
冷たく生き物の命を奪ってしまいそうなほどの、大雪の中。小さな犬が雪に埋もれていた。
「希望を失い、ぐったりと寝ていました。胸を深く刺されていたようでしてね。どこかの誰かさんが、暗殺計画という馬鹿げた計画を立てたからだそうで?」
「そ、そんなの言いがかりだ!」
「ああ、私の弱者の理論からすると、何か見えてきません?小さな者を傷つけ、優越感に浸り、自分は強いと力を見せつけ、従わせようとしているヴラジミールさん」
「っ………」
本物の弱者とは。
眼の前で歯をギリギリさせ、血走った目つきで私を見ているこの男ではなかろうか。
「力がたとえ劣っていようと、何度も立ち上がり家族を守ろうとしたベオウルフ様とは大違いですね」
「っ……サインするなら今のうちだ」
ヴラジミールが胸ポケットからペンを出した。まだその話を続けるのかと、内心呆れつつも、私はさらに笑ってやった。
「従わせるのですか、このか弱い乙女を」
これはこいつの弱さにズキズキと釘をさしてやる分。
「まさかとは思いますが、この婚姻の重大性をご存知なくって?これは獣人と人間の身分差に革命を起こすぐらいの異種族の婚姻なのですよ」
これはこいつの浅はかさに気づかせて、バカにしてやる分。
「で、あなたは辺境伯の“分家”だそうで。それが私という公爵令嬢、辺境伯よりも上の身分に物を頼む態度であって?」
これは私を侮辱してやってくれた分。
そうして十分笑ってやったときだった。相手の方からドスの効いた唸り声が聞こえてきた。
「グルルル」
耳を吊り上げ、相手の手には伸びた爪があった。
「よくも……私をうぬぼれだと散々にいってくれたな」
「あら?私という弱者を、今度は」
「お前を潰してやる!!」
もはや言葉の意思疎通はなかった。ヴラジミールが手を伸ばし、私の喉を掴み上げる。
「こんなことをして、本当に楽しいのですか」
正直に言うと、とても怖い。このまま私は殺されるのではないだろうか。でも伝えたいことだけは心の底にまだあった。
「弱いものがなんだろうが、あれは兄さんを殺した駄犬。私がしたことは間違ってな」
「本当にあなたが前辺境伯のことを思っているのなら。なぜその家族を守ってやらなかったのですか」
ヴラジミールの鋭い目は殺気に満ちている。片手で私の喉に鋭い爪を皮膚が切れそうな程で立てながら、ギリギリを保っている。
その様子に隣のゾーヤはどこか余裕そうだ。きっと彼女も、ヴラジミールの力で私を殺せることを望んでいるのだ。幼いベオウルフ様を簡単に従わせたときのように。
ああ、なんて胸くそ悪いんだろう。
彼らは気づかないのだろうか。尊敬していた前辺境伯夫妻が残していった、世界で一番の宝石たちのことを。




