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いい匂いがする。

バラのように甘い匂いで、それでいて風がさよめくほどに柔らかいもの。


「大丈夫。大丈夫。ひどい怪我をしていたけど、あなたの傷は私が治すわ」


軽やかな声。でも警戒しなくてはならなかった。何せその人には耳も尻尾も見当たらなかったから。


「ガルルっ」


目を覚まして、すぐに立ち上がった。周りは森ではなく、古い木の臭いもする。いつの間にか、雪の冷たい感触はなく、手足を支配していたのは毛布だった。立ち上がると同時に、自分の体がよろめいてしまう。

ヴラジミールから受けた胸の傷が思ったよりも深いらしい。痛みに耐えかねて、相手に警戒するより胸元を舐めようとすると、白いものが巻かれている。


「それは私が巻いたの。えっと…犬って…獣人語ならわかったりするのかしら。それは“包帯”」


「バウ!?」


包帯。だなんて、誰が巻いたのだろうか。匂いを嗅いで確かめると、酷い鉄の臭いと混ざっていい匂いがしてくる。


「ふふふ、大丈夫。ほらお食べ」


俺の頭を撫でてくるその手から漂う匂いと、何ら変わらない。体はすでに限界なためもあってか、警戒することなどすぐになくなった。それから小さな手に差し向けられたものは肉が乗ったお皿だった。

狼の本能がそれに食いつきたいとばかり知らせてくるが、俺はそれを拒んだ。肉を舐めることすらせずに、顔を背けて体を丸める。


「食べないの?」


俺に生きる資格なんてない。ヴラジミールなんかに殺されかけて。俺は家族までも壊した。叔父が来たのは父さんが死んでから。それも薬を買うために、あんな視界が悪い時に魔物討伐に出かけて。

姉は叔父に仕組まれて家を出され、妹は家においてきてしまった。

もはやあそこを家というのも滑稽に思えるが。


顔を背けていると、背中を何かが通り抜ける。


「“大丈夫。あなたを、守る”」


発音はつたなくてもどかしいけれど。言葉が耳をくすぐった。背中を流れるその手付きは、温かく俺の芯を刺激する。


優しい撫で方は、いつまでもつづいた。その少女は毎日を俺のそばで過ごし、本を抱えている。


「獣人語では好きっていう言葉がないのが残念ね。私、犬が好きなのだけど。えっと…」


「クーン?」


「そうそう。こうすればいいのかしら」


女の子が俺の鼻先に顔を寄せてきた。それから優しく微笑んでくれる。


「“あいさつ”」


狼は鼻を擦り合わせてあいさつをする。彼女もそれを知っているのだろうか。俺はすぐに首を伸ばして鼻をくっつけてやると、少女は太陽みたいにはしゃいで笑った。


なんだ、嬉しいのか。


これぐらい、いくらでもしてやっていい。もう胸の包帯も取れて、傷は回復し始めていた。彼女のおかげで、傷が治った。食べたく無いと拒み続けても、辛抱強く側にいてくれたこの子のおかげで。


そういう日々はすぐに去っていった。毎日毎日が優しい思い出だった。

心を許すのに、言葉など必要なかったんだ。

彼女が俺の頭に触れて、何度も撫でてくれる。母よりももっと優しくて、心が落ち着いてしまう。

人間なんて、獣人の敵なのに。彼女の優しい声が、奥底のところまで響いてくる。


「ふふふ、大好き。えっと……“あいさつ”しましょう」


ああ、この感情をどう表せばいいか。俺は犬のように尻尾を振って喜びを表現するしかない。

でもある時、辺境伯家にいるのを思い出す出来事が起きた。


「シンシア!そこにいるのか」


男の声がする。それも酷くどすの利いた声。その声が部屋の向こう側からする時、彼女は俺を胸に抱き寄せては震える。心臓の音が乱れて、恐怖の臭いを出していく。


「どうしようっ……お父様だわ」


彼女も俺と同じなんだ。俺と同じように、誰かに脅かされながらも生きている。


「ワウ!」


怖がらなくて良い。俺がそばにいる。

そう思って口元を舐めてあげると、彼女は薄水色の目を細めた。


「ありがとう。あなたがいるだけで勇気がもらえるわ」


彼女にしてやれることはそのぐらいだった。

夜に泣いたら全部涙を舐め取って。恐怖を抱いたら、何度でも体を擦り寄せに行った。


こんなに弱い俺でも、誰かを慰めることができる。誰かの涙の夜に寄り添うことができる。


それが嬉しくて、嬉しくて。

いつしか心の傷さえ癒えていった。


痛みきった心に、彼女の優しい声音と撫でる手が染み込んでいく。叔父達の手によって打たれていた頭が撫でられ、耳に焼き付いた怒声はあどけない声に落ち着く。


彼女を守れたらいいのに。


家も唯一の家族である姉も妹も。全部、この手で…





「俺は弱かった。でも、君にあって変わったんだ。その時も弱かったけれど、誰かのために変わりたいと初めて思った」


それまでは姉や父の強さに憧れて、力を追い求めていた。弱肉強食という獣人の世界で生き延びるために、俺には強さが必然的に必要だったから。


でもそれは変わった。守るために、力がほしいと。

弱い自分を責めるのを止めて、立ち上がるのには勇気が必要だったが、シンシアの存在が背中を押してくれたのだ。


「ありがとう。あの時、傷ついた黒い一匹狼を癒やしてくれて。君に拾われていなかったら今頃、俺はここにいない」


「そんな……酷い過去だとは思いませんでした」


「話したことがないからな。知らないのも無理はない」


ソファーの隣で、華奢な指を目にこすりつける様子が、またも胸を締め付ける。シンシアの目からはいつの間にか涙がたくさんあふれていた。それを昔のように拭ってやりたくて、顔を近づけた。


「ちょっ!?なにするんですか!舐めるなんて」


「泣くな。俺のために流す涙など、もったいない」


抵抗する彼女の手首を軽く握るだけで、俺の力は強いせいか組み伏せることすらできてしまう。もう今は、こうして人の力など簡単に抑えることができてしまう。

そのまま顔を舐めてやろうとしたら、薄水色の瞳が激しい眼光を帯びていた。何か言いたげにこちらを睨みながら、どこかその視線は下の方を向いている。


それに……甘い匂いと恥ずかしいの匂いが混じり合っていた。


「人間は顔を舐めるなんてことしません。そのぐらいは、私の文化に合わせてくれませんか」


「だが、君から嬉しいという匂いもある。甘い匂いはそうなんだろ?」


「っっっ…………変態狼」


そう言ってなじるくせに、肝心な匂いはどうしようもなく俺の尻尾を振らせる。やはり彼女の隣が一番の居場所だ。小さい時に助けてくれた人の隣りにいるのが、何よりも俺の心を和らげてくれる。


「これからまた叔父達が来るだろうが。俺が何とかするから。ずっと側にいてくれないか」


約束するようにその細い手を握ると、シンシアは首を横に振った。


「強くあろうと、格好なんてつけずに、私を頼ってください」


そこにいるのは、あの凍てつくように寒かった時期を、温かく塗り替えてしまった少女がいた。柔らかく、甘い匂い。それがまた俺の鼻をくすぐって、腕は自然と彼女の腰に回ってしまう。

顔をそのままシンシアの胸に押し付けて、こすりつけた。


「なにするんですか!」


「だって…俺のことそんなに思ってくれてたなんて。嬉しいぞ。いつも素直じゃない君が、こんなに素直になってくれるなんて」


甘い匂いとその言葉がキョウメイし合う。俺を思ってくれているのだと、心から大切に思ってくれているのだと。嬉しく嬉しくて、尻尾はバシバシとソファーを打っていた。


「す、素直じゃなくて悪かったですね」


そう言いながら、シンシアは俺の頭を撫でてくれた。妹にしているのを何度も目撃しているから、とても羨ましくて悔しかったけれど。もうこれで全部帳消しにしてやろうと、心のなかでゼムリャを許すことにした。


「にしても何で俺のことをそんなに知ろうと思ってくれたんだ?」


そう言うと、彼女は急に顔を真っ赤にした。ますます季節外れのバラのような香りが漂う中、彼女はなにかに気づいた様子を見せる。

教えてくれないかと問いつめたいけど、今は少しこの胸を借りていたい。幼い俺を抱きしめてくれたこの胸を。


俺は一生守ると誓いつつ、俺のものだと思っているから。




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