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16 ベオウルフ・フェンリル

俺は昔から、体が人一倍小さく生まれた。

獣人という種族の中では、体の大きさや強さはとにかく地位を決める。フェンリル辺境伯家というのは獣人の中でも高い位にあたり、その強さは国境を超えて(うた)われている。

姉が一人と妹が一人。そして、たった一人の、後継ぎの男児として生まれてきたのに、病気になりやすかった。


「ベオウルフ、また熱を出して。昨日の雨の中、リュゼについていこうとするからよ」


「母さん、姉様は悪くない」


ベッドで熱を出しながら、俺はいつも母さんの優しい手に額を撫でられた。彼女の匂いはいつも優しい。


「外で走りたい」


「強がっちゃだめよ。あなたは体が弱いんだから。こんな吹雪で走っては、本当に体を壊してしまうわ」


窓を打ち付ける猛吹雪に、母さんは目を細めた。今年は珍しく、雪が強い。こんな雪は珍しいとばかりに、姉様は気軽に森をワンワンと駆けているだろう。父さんの背を追って走ることを許されている彼女が羨ましい。


「俺も…外に出たい」


狼の姿で走るというのは、とても楽しいのだ。いつもとは低い視線で、素早く変わる景色と、土の感触が肉球を通して伝わってくる。毛皮を撫でる風と、鼻腔をくすぐる森の香り。

思い出しただけで、体は獣になりたいと騒ぎ立てる。


「あらあら、待ちなさい。そんなにウズウズしていては、熱が収まらないわ」


「走りたいんだ。父さんみたいに強い足で。でも、こんなに体が弱くては…」


「大丈夫よ。大きくなったら、あなたの体はフェンリル特有の力をその体に馴染ませることができるわ。今は力が溢れる時期だから熱を出しやすいだけなのよ」


母さんはニッコリ笑う。白い髪が毛皮へと変わる時、彼女は雪に溶け込むような美しい白狼になる。父さんのように力強い黒狼もいいけれど、母さんのような優しくて美しい白狼にもなってみたい。


でもそうなるにはこの体はあまりに不便だった。


そういう思い出が色濃いのは、両親が俺を大切にしてくれていた時だ。


「この病弱狼がっ!!お前など、兄さんの出来損ないだ!!」


俺の耳をちぎれるぐらいに引っ張り上げた叔父の声。


「ごめんなさいっ」


「謝って済むものかっ!お前のせいで医療費がかかる。リュゼと同じように、他家に行かせたられたら良いものを」


ヴラジミールは、長い杖を握って床を叩いた。彼の持つ細長い三角錐(さんかくすい)の杖は、尖った先を地面に叩きつければ鎖を縛ることができる。

その杖が叩かれると、父から授けられたグレイプニルの鎖が体を縛り付けた。

心臓が鎖に直接巻かれたようにギュウギュウと締め上げては、息もうまくできなくなる。


「っ……やっ………めっ…てっ…」


「お前のような弱いやつが時期当主などありえない。この私の方が当主にふさわしい」


そういう叔父の目は本気で殺意に満ちていた。ここにいれば殺される。

そう感じ取っていたのは妹のゼムリャも同じだった。俺がいつも執務室で体罰を受けるのを、彼女は扉の隙間から見ていた。

叔父の気が済んだのか部屋から出してもらえると、決まって妹はオドオドしながら俺の体を支える。


「兄様、手当します」


「いらない。どうせまた治そうとも、新しくえぐられるだけだ」


杭による縛り付けも相当体に来るが、それよりも酷かったのは叔父の手で行われるものだ。狼族はそもそも根底の力が強いために、ヴラジミールの拳が頬に来るたびに、腫れてはアザになる。尻尾を踏みつけられたときなんて、背骨から骨が抜けそうになるほど痛かった。


「逃げ出しましょうよ。こんな家にいても、アタシたちが」


「ゼムリャ。黒狼はなんの証だ。フェンリル家だけに現れる黒い毛皮は。父さんが俺たちに残した血と毛皮だ。あんな茶色の毛皮の奴らに、ここを渡すなど。俺は死んでもしないぞ」


「そんなこと言っても……このままじゃアタシたちが」


小さなゼムリャは耳を下げた。幸い、ドジな妹は根っから頭が弱いせいか。叔父達には何も警戒されていないし、むしろ好都合ととらえられているようだ。おかげで彼女だけは怒声を聞くだけで済んでいる。

それでも狼の耳はよく聞こえるから、怯えてしまうのは我慢してもらうしかない。


「俺が守るから。お前は心配するな」


「兄様…」


妹のことを守れるのは俺だけだ。

同時に、この家を守れるのも。

だから何度、この身に傷が増えようと構わなかった。何度も鎖のせいで力をねじ伏せられては、心臓を握られることだって耐えられた。


でも、俺にも限界があったのだ。


真っ白な猛吹雪に、何度も赤い花びらみたいな血が体からポタポタと出ていく。温かなそれを、新しく降り積もる雪に隠されるおかげで、俺は何とか森を走れた。後ろから追ってくる恐怖と、体の限界。


日々を繰り返すたびに擦り切れた身と、叔父からの一言が俺の心を最後まで引き裂いてしまった。


『兄さんが死んだのはお前のせいだ。あの日、お前がもし熱を出していなければ、兄さんは魔物討伐に慌てていくこともなかった』


熱を収めるための薬。それは竜人の国のものが一番効き目が良い。辺境伯家はその年、猛吹雪にあっていたからしばらく薬が手に入らないと母は心配していた。それを父が、魔物討伐に行くついでに薬を買ってくると急いだのだ。

吹雪さえなければ視界も良く、移動の体力だって温存できただろう。


もし俺が病弱でなければ、薬が必要だと父が急ぐこともなかっただろう。そして、父が亡くなることも……なかった。


俺のせいだ。

俺のせいで、家が崩れた。


病弱でなければ、薬なんて必要なかった。

父は死なずに、母も生きていたはずだ。

こんなに弱くなければ、叔父に家を乗っ取られることも。

姉を失い、妹が可哀想な目に合うこともなかった。


俺が強ければ……


赤い血がベットリと黒い毛皮に染み込む。母のような美しい毛皮はそこになく、薄汚れてみっともない一匹狼が森を歩いている。

己の身から流れる血に、追手が来ると怯えては、尻尾を巻いて逃げる負け犬。


もう死んだほうがマシだ。

こんな弱い犬など、どこにもいらない。血を吐き出しながら、白い雪の中に身を置いた。

手足は鉛のように鈍く、そして重かった。


獣人というのは弱肉強食の世界。強きものほど誇られて、弱きものほど切り捨てられては見捨てられる。一族で弱いものが出たら捨てられるのなど当たり前の運命。両親が俺を捨てなかったのは彼らが優しいからだ。だから叔父から受けるような仕打ちは、当たり前のこと。

でも、俺は優しくされてきた分、そのように傷つけられることがより一層、骨身に染みてしまう。


生きるのを諦めた俺は、そのまま雪の中で死んでいくはずだった。手足を広げて、寝転んで。振り続ける雪が、俺の身を土に返してくれる。

あの家にとって、俺は恥じるべき犬だ。落ちこぼれで出来損ないで、弱い。


早く死のう………死なせてくれ


「あなた、大丈夫??怪我してるわ。私が助けてあげるね」


そう言う声がぼんやりと聞こえてくる。誰かがそっと俺の体を持ち上げて、何か温かいものを流してくる。


「私の腕の中はあったかいでしょ。それと、これはぬるま湯だから、寒い日の飲み物にはいいはずよ」


金色の髪が見える。

すりガラスに通されたほど、ぼんやりとした姿を見てから俺は意識を手放した。


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