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いつも通りに図書館に朝早くから行くと、私はまたあの本を探した。


『ベオウルフ・フェンリル』の記録書物。

その古ボケた分厚い本を手に取ると、食い入るように初めから読む。

彼が誕生したのは雪が深い時だったとか。幼い頃はとにかく病弱だったともあった。

そんな中、グレイプニルの鎖という言葉を見つける。それは公爵家から帰った時に、最後のページに挟まっていた、機密書のようなもの。


「おっす、また奥様に会っちゃいましたっすね」


「クロウ…」


「ん?なんかお悩みっすか」


彼なら知っているのだろうか。この何度も見かける“グレイプニルの鎖”という言葉のこと。

前は通過儀礼だと言っていた気がするが、ただそれだけなら観察記録の書にそう何度も登場するはずがない。


「教えてくれないかしら。この鎖の」


「前も言ったっすよね。ジブンに頼ることはあんまししないことって」


クロウの赤い目が、猛禽のように鋭くなって睨まれる。賢いカラスからしたら、二言を言わせると言うのはタブーなのかもしれない。キレ気味になるクロウに負けて、私は落ち込んでしまう。


「ベオウルフ様を手伝いたいのよ。分家から酷いことをされていたというのを知ったのも昨日で。私は何も知らなかったわ。あの人の両親が亡くなっていたことも」


「まあ無理はないっすね。奥様はここにきたばっかっすもん。

だ•け•ど、そういうのはジブンに聞くべきじゃないって一番わかってるっすよね。なぜダンナに聞かないんすか」


「それは…」


あの人への接し方がわからないから。

いつも彼から話を迫られて、体をくっつけられて。私はそれを跳ね除けることしかできない。

父との和解も、彼がいなければ成立しなかった。もらっているばかりだったと気づくには、少し遅いようで、いまさら私が彼に対する態度を変えるなんてできそうもない。


「ベオウルフ様にどう聞けばいいのよ。分家のことを教えて欲しいなんて…あの人が経験してきた悲惨な過去を思い出させてしまうかもしれないじゃないの」


「ぶっはははは!そんなことを避けるためにジブンに頼ってきていたんすか」


「笑い事じゃないわよ。聞くにしても、相手の思いを尊重して」


「そんな甘っちょろいことしてたら、いつだって大切なことを聞き逃すっす」


クロウは私の手から日記を取ると、あるページを開いて見せてくれた。


「これが鎖計画の実行日っす。この日からダンナは力を抑えられることになったっす。加えて、分家に従わざるおえなくなった」


その日付は、彼が殺害されかける前の日付だった。それ以降の行には空白が続いていて、ゼムリャが言っていたように夏まで帰ってこなかったということなのだろう。この空白のページと、鎖計画のこと。クロウの言う、分家に従わなくてはならなくなったことがここに書いてあるのか。


「私に聞く資格なんてあるのかしら」


「そんな自信なく言うもんじゃないっす。奥様はダンナの番っすから」


こんなにベオウルフ様に聞くのを怯えていると言うのは、自信がないからなのか。

自分の右頬には火傷跡が大きく残っている。『いばら姫』と何度言われて笑われたことか。加えて、今の今までお父様に嫌われているとも思っていた。

ベオウルフ様にだって、嫌われているのだと考えたこともある。だからうまく彼に聞き出す方法より周りに聞く方法を探っていた。


もし可能なら、本人から聞く方がいい。その方が彼自身の辛い思いも全部分かち合えるから。


「手助けさせてもらうとしたらコレっすかね」


クロウが懐から取り出したのは一枚の紙だった。そこには分家が今までしてきたことに加え、私が婚約破棄した場合の婚約相手の素性までキッチリ書いてある。


「……妙に用意周到ね。もしかしてここで私が悩むのを待っていたのかしら」


「勘の鋭さは敵に見せびらかすもんじゃないっすよ。カラスはいつだって導き手っすからね」


とにかくその紙を私は目で覚えるとすぐにビリビリに割いた。こういうものは残さないに限る。


「『月』は狼の道しるべ。ジブンが奥様を導くのはあんましオススメしないんすよ。カラスは『太陽』の使いっすから」


「何よそれ」


「獣人の古くからの教えっす。そんなことは置いておいてっすね。早く行っちゃってくださいっす。朝の訓練からダンナの威圧感に皆、泡吹いて大変っすから。ダンナの癒しはただ一人っす」


クロウが背中を押してくるので自然と図書館から廊下へと出ていた。そのまま押しやられては、進んだ先にゼムリャが待っていた。部屋の前で待っていましたと言わんばかりに、彼女は私の背をクロウから預かってすぐに部屋に入れていく。


「兄様のことをお願いします」


小声で投げかけてきたゼムリャは、もう全部私に任せるようなノリだった。

まだここにきて半年にも満たないのに。

しかも種族も母国語すら違うというのに。

彼らはみんな、私を頼りにしてくれている気がする。その期待に応えられる自信はもちろんないけれど。


部屋のソファーで片膝を組んでいる彼へと向き直る。

黒い髪は長くくせっ毛で、黄金色瞳はいつも優しい。表情がコロコロ変わることはないけれど、耳や尻尾のおかげで彼は感情豊かにみえてしまう。そんな彼の過去を、もっと知りたい。


「シンシア、何か用事か?」


「聞きたいことがあるのです」


「君から聞きたいなんて…何でも言うと良いぞ」


私は少しだけ喉をつまらせた。それでも、クロウからの言葉に背中を押される。大切なことを聞き逃さないように。


「グレイプニルの鎖とは、どう言うものなのですか」


「そのことか。君は何も」


「何も心配なくなんかありません」


それのせいで分家にしたがわざるおえないのなら、なおさらだ。

クロウが言っていた別のことを思い出しながら、ベオウルフ様の向かい側に腰を下ろした。

彼のことを見つめ直す。その顔には不安も、恐怖も、動揺もなにもないけれど。


「鎖のことに関して知りたいなら、少しだけ長くなる」


彼は少しため息を吐くと、すべてのことを話してくれる。


「フェンリル家は代々、黒いオスの狼が家督を引き継ぐ。そしてソレは子供へと成長した時、危険な力を持つ。国を滅ぼせるほどの強い力を。だから力を抑えるために、グレイプニルの鎖で繋がれるんだ」


「生涯ずっと繋がれると言うことなのですか」


「それは違う。大人になれば、力の制御も覚えて、両親の手で解放されるはずなんだ。だが俺の両親は死んだ。その解放する鍵は叔父たちにゆだねられた」


「では、分家を解体してしまうのができない理由は」


「鎖を解放するためだ。これがある限り、俺はあいつらに手懐けられたままだ」


そういうと、彼はシャツのボタンを開いて見せてくれる。男の人の肌を見るのなんて初めてだから恥ずかしいけれど。隆起する立派な胸板に、禍々(まがまが)しく紫に絡んだ鎖の文様が浮かんでいた。

それは怪我の(あと)のようでもあって、彼のことを縛り付けるような鎖の形だ。


「分家に逆らえば、これが俺を縛る。向こうにある(くい)が対応していてな。奴らがそれを振るうだけで鎖は俺を締め付ける。だが心配するな、君だけは守りきる」


優しい声音で言う彼に、私は握り拳を握った。

首を振って、かたくなにその言葉を否定した。


「何も心配するな、ですって。心配、させてくださいよっ…どうして、こんなに大事なことを言ってくれないのですか」


「こんなもの君がどうこうできる問題じゃ」


「そうですね、私は確かに弱いです。ゼムリャみたいにたくさんの本を持ち上げられませんし、クロウのように賢いわけでもなく、ベオウルフ様のように『黒天狼の牙』をまとめる力もない。ただの人間の令嬢です。それでも……あなたの妻なのですよ」


両親が亡くなっていたこと。

それから、彼が見せてくれた鎖と、体のそこかしこに散らばる切り傷の跡。

私はこの人のほんの少しのことしかわからない。それは愛情表現もで、どれだけ獣人なりに教えてくれていても、私がそれに気づくことは少ないのだ。

伝わる言葉で伝え合わなきゃ、向かい合わなければ。


大切なことを聞き逃してしまう。


「私にも分けてくれませんか。その痛みを、怒りを」


「こんなもの、君が知ることない。小さい頃の俺は情けないことばかりで」


「それでもです。あなたの過去を知りたい」


自然と立ち上がって、私は彼の隣に座っていた。

その手を握って話を進める。

彼は私の目を見て、耳を伏せた。ワシワシと尻尾がソファーを叩いていく。

相変わらず彼の表情は変わらなかったが、朝は清々しくなった。

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