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次の日からゼムリャはいろんな失敗をし始めた。
最初はお茶をこぼして、朝からドレスを三回も着替えることになったし。次に起きたのは、図書館での仕事の時に資料がごちゃごちゃになったこと。それからも、彼女のドジっぷりはかなりすごい。
「ここまで続くと慣れてくるわね」
「アタシ、本当にダメで。その…すみま」
「謝らないの。謝るだけが誠意ではないのよ。これからもたくさん学んで、あなたも慣れていけばいいの」
そもそも、たくさん失敗しろと言ったのは私だ。長い目で見れば、ニ週間も経って少しずつその成果は上げている。
私の着替えや、髪を整えることだったり。翻訳の仕事の合間に休憩を挟んでくれたりする気遣いには、彼女はもう完璧になりつつある。ベオウルフ様も、最近はそういう妹の姿を見てか、いろいろと辺境伯の仕事について精が出ているようだし。
昼間のお茶を飲みながら、ゼムリャの姿を眺め見ながらかすかに笑った。
「にしても、あなたが頑張っている姿を見るのは悪くないわね。台風みたいな子だから、張り切っている姿を見ることのほうが楽しいわ」
「元気しか取り柄がないですから。奥様のためになら、もうたっくさん頑張っちゃいます!」
「ふふふ、体調は崩さないようにしなさいよ」
拳を振るう彼女を見ていたら、屋敷を訪ねてくる人の影が見えた。辺境伯家の屋敷の扉を叩こうとしている人が二人。貴族の馬車から降りたその人たちが何かしらの用があるように思えて、お茶の席を立った。
「私は、ベオウルフ辺境伯の妻、シンシア・フェンリルです。フェンリル辺境伯家に何か御用ですか」
二人の貴族は、どちらも焦げ茶色の髪をした獣人だった。見るからに、どこかベオウルフ様と似ているような気もしなくはない。年はお父様ぐらいだろうか。
背が高く、獣人にしては繊細さを思わせるほどの痩せ気味な男のほうが口を開いた。
「そうか、人間の国から来たという、この醜い傷者の令嬢があの駄犬の妻か」
そう言うと、男は見るからに嫌がるような顔をする。
「私はヴラジミール・フェンリル。ベオウルフの叔父だ。その後ろにいるもう一人のチビは、あいつの妹だろ」
ヴラジミール、と名乗った男性は、ゼムリャの方を指さした。私の後方に控えていた彼女は、ブルブルと震えている。三角耳を垂れ下げて、尻尾は丸めて萎縮していた。元気さだけが取り柄だと先程までいっていたけれど、この変わりようには何か理由があるに違いない。
「あなた、ここに来た目的を言わなければ」
もう片方の口紅をベットリと塗った、白粉も分厚い女性の方はヴラジミールに腕を絡めていた。大きなつばのある帽子は、ご立派な婦人が着ているようなものだ。首周りには白い狐の毛皮が巻かれている。
「そうだなゾーヤ。この者はあいつの妻、ということだったが。身を引いてもらいたい。ここに、婚約破棄状を持ってきたから、すぐにサインをしてくれ」
いきなり紙を渡されたので、私はどうしようかと少しだけ思考が停止した。
まず、この相手がベオウルフ様の叔父様だということ。おそらく、彼が血縁関係にあたり、女のゾーヤという方はその奥さんなのだろう。
それで、婚約破棄というのを勝手に決めようとしているということは、彼の両親というのはこの人たちなのではなかろうか。つまり、彼は実の両親が行方知らずになっているのか、もしくは亡くなっている。そうでなければ親権というのは、身内に引き継がれないもの。それは人間の国でも獣人の国でも制度は同じなはず。
まさかとは思うけど、ゼムリャをここまで震わせて怯えさせたり。身内の婚約破棄を勝手に進めようとするのが獣人の文化というわけじゃないだろう。私は大体の本を読んでここの文化についてはかなり把握しているつもりだ。
ベオウルフ様からもらう愛情表現は未だに本に全然載ってないからわからないけど。
悩んだ末に、私はただ笑顔で対応することにした。
「とりあえず、こちらへどうぞ。私が用意いたしました、獣人専用の特別なお茶と茶菓子がございますので」
「そんな時間、私らには」
「いいじゃないの、あなた。私、飲んでみたいわ」
ひっかかった、とばかりに婦人の興味津々そうな茶色の眼に内心安心する。
ゼムリャの様子を見る限り、彼らはロクなやつじゃなさそうだから。これだけ頭が悪そうな犬だと、不安がなくなる。
先程まで私がお茶をしていた席に彼らを座るようにうながした。庭園のバラは枯れてしまったけれど。
「どうぞ、お召し上がってくださいな。ゼムリャ、お願い」
目の前にあるクッキーを進めたその瞬間。
「あっ!」
ゼムリャは震える手でお茶をよそっていたせいで、机にぶちまけると、ヴラジミールとゾーヤの二人にぶっかけた。熱々のお茶が顔にかかってしまう。
「アツっ!!」
「すっ……すみません!」
「このっクソ犬!!!お前というやつは!」
早々に本性がむき出しになるヴラジミールは、拳を握り始めた。ゼムリャはそれだけで足を震わせ、さらには耳をビクビクと後ろに下げる。その瞬間を見逃さず、私はすぐに前に出る。
拳は見事に彼女を背にかばった私の左頬に打ち込まれた。
ゴッ、という鈍い音が頭に響いてかなり痛い。というか、この人は頭こそ悪そうな犬なのに、ものすごく腕だけは強いらしい。
ゼムリャでなく、私の頬に打ち込まれた拳に、ヴラジミールは不服そうだったが、怒りは最高潮だった。そのままの勢いで言葉を続ける。
「使用人の管理は主人がしなければならない。これは、お前のせいだぞ!!」
「そうでございますね」
「謝れ!!お前が頭を地面につけて誠意を見せて謝るなら」
「嫌です」
「何だと!」
「だって、たしかにこれは私の使用人のミスですが。あなたたち、フェンリル家の分家に当たりますよね?たとえベオウルフ様の親権があなたがたに渡っていようと、本家を継いでいるのは彼ですから。
それに私は辺境伯の妻でございます。先にミスをしたのは私の使用人だとしても、手を出したのはあなた。それも、辺境伯の妻であり、グライフ王国がエストレリャ公爵の娘、このシンシア・フェンリルにですよ」
胸を張って、声たかだかに叫んでやった。私はこれだけ後ろ盾があるのだと思い知らせるように。
実際、使用人のミスは私の責任で。それを謝らなければならないのはあるが。私としては、ヴラジミールが気に食わないので、ちょっと脅してみることにした。
あいにく、私は人の顔ばかり伺ってきたから、人の事情を最初に話した時から十分把握できる力がある。周りの人の反応によって、その人物がどういう性格で、どういう立ち位置にあるのか。
「っ……帰るぞ」
「え?あなた、これはどうするのよ。私、ドレスがこんなにも」
「いいからっ。婚約破棄の件、必ず次に取り付けてやる。それまで待っていろ」
「はい。お待ちしておりますね〜」
ゾーヤの手を引いて、ヴラジミールは帰っていく。やはり図星だったようだ。本家の辺境伯を継いでいるのはベオウルフ様で。この二人はただの親戚。家督を継がず、名乗るだけなら分家にもできること。
自分の推測が正しかったことに、思わず喜んでしまう。と、左側に何やら冷えたものが当てられた。
「ゼムリャ?」
ナフキンに包んだ氷を必死に私の顔に押し当ててくるゼムリャは、何だか泣きそうな顔をしている。
「今回はあなたのドジが鍵だったのよ。よくやったわね。あれほど盛大に頭からかけるなんて、私も予想してなかったわ」
「……ってください…」
「?」
「もう、無茶はやめてください。奥様が傷つくたびに、アタシ……もう気が気じゃないんです。本当はこの三ヶ月頑張ってみようっていう目標も、もう耐えきれません」
「嫌だったかしら。三ヶ月耐えるというのは、あなたに荷が重すぎたかしらね?」
彼女の顔を伺うと、フルフルと首を横に振る。顔つきはベオウルフ様に似て凛々しいのに、悲しげな表情になるとますますそっくりになる。
可愛い狼。
泣きそうなゼムリャの頭を撫でて、シレッとその三角耳まで含めて撫でてあげた。やはり、このモフモフとした感触だけは譲れない。この耳を守るためなら、いくらだって殴られても構わない気が……
「何をしてるんだ」
「兄様っ!」
「ゼムリャ、これは何だ。このお茶が溢れた机と、シンシアの頬の」
「兄様、聞いてください。あいつが、あいつらが来たんですっ」
いつのまにか背後に立っていたベオウルフ様は、ゼムリャに事を聞いて直に鼻をスンスンとかいだ。それだけで顔を歪ませて、尻尾や耳を逆立てる。
「叔父かっ…」
「ベオウルフ様、お聞きしたいのですが。ヴラジミールとゾーヤという方々、一体あなた方とどんな問題を」
「シンシアは何も心配するな。これは俺がケリをつけるべきものだ」
そう言うと彼は、私の傷を見もせずに屋敷の奥へと入っていった。いつもなら、私が紙で手を切っただけでも、重い病なのかとうほどに心配してくるくせに。
この兄妹をここまで脅かすほどの、叔父達の存在というのは、どんな関係があるのだろうか。




