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本がぶつかった衝撃にタンコブができて、氷で冷やす頭がキンキンと痛い。

ベッドに完全にノックダウンした私は、もはや翻訳の仕事どころではなかった。

正直言うと、ヘレナが懐かしい。彼女ならば、私に気を使うところの場面と行動は完璧だ。それを一から新人教育なんて。


「奥様っ…ごべんなざいっ」


「ゼムリャ、お前は俺の番を傷つけて、何がしたいんだ」


「うっ……ひっく……兄様っ」


鼻水をダラダラと垂らして、涙までもボロボロと酷い。新人にして、こんなドジを始めからやるなど、ある意味で思い切りが良い。

それを叱るベオウルフ様は、いつもと顔つきが全然違う。ヘレナに向けた怒りよりかは幾分かマシだけど、殺気だけは嫌に目立つ。

兄弟の関係性をしばらく見ていようと思っていたら、ベオウルフ様はゼムリャに吠えて唸り、怒った。


「人間は獣人よりもとても繊細なんだ。だからゼムリャ、お前がしたことは、シンシアの命の危険まであったんだぞ」


「ううっ……だってっ……」


「言い訳は無用。お前はもうク」


「ベオウルフ様、そこまでにしてあげてください」


クビ、と言いかけたところで私は彼を止めた。ベオウルフ様の尻尾もツンツンと逆だっているけれど、私は彼の怒りに構うことはなかった。


「いいや、シンシア。君がいくら優しかろうと、ゼムリャは君を」


「そうかもしれませんが、謝っているではありませんか」


「そもそもクロウが悪い。なぜこのドジな妹を、君の使用人にと呼んだのか」


頭を抱えるベオウルフ様からして、ゼムリャはかなりのやってしまう女の子らしい。それでも私より少し年下ということだから、許してしまいたくなる気持ちばかりだ。それに、私が寝台に運ばれてからというもの、ずっと謝り続けている。


「ドジなんて言ってあげないでください。ゼムリャは少しハリキリ過ぎただけでしょうから。それにまだ一日目の新人ですよ。いろんな失敗はするものですから」


「だが……君を」


「怪我をした本人が言ってるんです。許してあげてください。それと、あなたたちは兄妹なのでしょう?血の繋がりは切っても切り離せないものですから。ちゃんと仲直りしてくださいね」


そう言うと、まだ肩を震わせて謝り続けるゼムリャに、ベオウルフ様は悪かったと一言だけ言った。表情に硬くて、あまり怒りの感情を出すことのない彼が怒ると、ちょっと怖いのは私も知っている。それからゼムリャを手招きすると、彼女の涙をたくさん拭ってあげた。


「そう泣かないの。ほら、抱きしめてあげるからおいで」


まだ涙が止まらないゼムリャを、背中をたくさんさすって慰める。人が泣いているのを見ると、どうしても夜にホロホロと涙を流し続けた昔の自分を思い出す。涙を止めてあげたいと心から思うのは、ヘレナが夜遅くまで私に付き合ってくれたせいだろう。

腕の中でまだまだ泣く彼女の、頭の上から生える三角耳に語りかける。


「あなたは悪くないわ」


「違いますっ…アタシ、奥様にっ……余計なことをっ…」


「余計なことではないでしょう?あなたのそれは気遣いだった。ありがとう、初対面でも気遣おうとしてくれる気持ちがあるのは、とても嬉しいわ」


「アタシっ…点で駄目なんですっ………何やっても…ドジでっ。『黒天狼の牙』の団員として、森の片隅をずっと任されてましたけどっ…今回は………クロウさんにっ…呼ばれてっ」


「それで、私の使用人にと選ばれたのね」


「はいっ……」


「じゃあ、あなたはまだまだ失敗してもいい時期ということよ。今のうちに、私のことをたくさん傷つける勢いのほうが良いわ」


「シンシア!それはいくらなんでも」


口を挟んでくるベオウルフ様には、視線だけで静かにするように合図を送った。彼はそれに言葉をつまらせて、側で(ひか)える。

少しずつ落ち着いてきたゼムリャには、もっとたくさん頭を撫でてあげて、ヘレナがしてくれたようにした。


「三ヶ月だけ全力で頑張ってみる目標を建てましょうか。三ヶ月、あなたは何をしてもいいわ」


「でもそんなことしたら、奥様が」


「そうよ、間違いなく傷跡が増える予感がするわね。でもこれは何をしてもいいと言うものだけれど、どんなことでもというわけではないのよ。人を気遣って、行動すること。これで何か失敗しても、その三ヶ月の間での失敗は怒らないという約束よ。私はただ、あなたにこれをしろ、あれをしろと、アドバイスだったり指示をしつこく言うだけ」


これは言わば新人研修みたいなものだ。三ヶ月もあれば、人の行動パターンや、好みなど、一日のルーティンもすっかり覚えられるだろう。その上、物覚えが良ければどう周りの人に手際よく指示をして頼ったり、気遣いをすれば良いのか覚えるに違いない。

三ヶ月の目標に、泣き止んだゼムリャは大きく首を縦に振った。


「アタシ、頑張ります。優しい奥様のために、今からでも頑張ってきます!」


意気込むと、彼女は台風のように去っていった。部屋から飛び出していく様子に、活を取り戻したかと安心する。

たしかにああいう元気がありあまりすぎてる子は苦手だけど。元気がなくなっているのを見ると、逆にこっちが元気を失う。


「あの子は私に任せてくださいね、ベオウルフ様」


「…わかった。だがこれだけ言わせてくれないか」


「何でしょう」


「俺のことも、ああいうふうに抱きしめてくれないのか」


「はあああ?」


思わず、(あき)れた声が出てしまった。新人のゼムリャに対して、あれほど敵意むき出しだったのに。この人は何て甘ったるい狼か。

もちろん、私は彼を甘やかすことなく、その顔を見ることすらしないで寝返りをうった。


「まだ頭が痛いのでどこかいってください」


「だ、だが、シンシアに」


「あなたになんか、抱擁も何もありません!」


枕を投げつけて、部屋を出ていくようにと追い出した。実の妹に対して怒る態度からの、私に対する嫉妬というか…。


ありえない。


その気持ちの変わりように、すごく違和感があってどうにも強くあたってしまった。怒りすぎたかとちょっと心配になるが。

夜を迎えると、寝室にまたベオウルフ様が入ってくる気配がする。夏も少しずつ終わりを迎えた今、布団の中にモゾモゾと入ってきた彼は、すごくバツが悪そうだった。


「その…シンシア。反省した。ゼムリャにもう一度謝ってきた」


「そうですか」


「だからその……抱きしめてくれないか」


「私があなたに望んだことをしたからといって、あなたの願いが叶うわけではないのですよ」


お父様のようにぶっきらぼうに言うと、彼は明らかに耳を垂らして、しょぼくれた。捨てられた犬を見るかのように胸が痛むけど、しつけはしないと。

犬を甘やかしすぎては、噛み癖も治らないし……


「シンシア……本当に悪かった…」


「っ……」


キューン、というような伏し目がちになるのに、私は弱いのかもしれない。ゼムリャにしたように、彼を胸に抱きこんでから、背中をよしよしすると、すぐに突き放した。満足そうな顔を見るのはまだ許せないので、体は彼と反対向きに寝返る。


「これで満足でしょう。もう、寝ますよ」


「っ……シンシア“好き”だ」


グライフ語で伝えながら、バシバシと布団の中でのたうちまわる彼の尻尾。それから、調子づいたのかベオウルフ様が腰に腕を回してくる。調子に乗るなと指摘してやりたいが、すでに日が暗くて眠くて仕方ない。

そのまま黙ってると、彼はますます背中に身を寄せてくる。


「おやすみ、シンシア」


最近、その鉄面のような顔が犬のようにコロコロ変わるようになったなと感じるのは私だけだろうか。グライフ語の“好き”という言葉を覚えた狼は、真っ直ぐすぎて、寝るときすら少しわずらわしい。

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