175. バーチャルトラベル
シミュレーターにログインした僕等は期待していた以上に驚いた。 シミュレーターの中の自分は本当に自分そのものだったのだ。 まるでシミュレーター世界に僕の肉体そのものが転移してきたという感じである。 頬をつねってみると痛いし、体も違和感なく思い通りに動くし五感も普通な感じだった。
ピーケ(正式個体名はH56-SH56EI7XI475-43PK)さんは、僕等の案内役になってくれるとのことだった。 正式個体名は呼びにくいので僕等は彼女をピーケさんと呼ぶことにしている。
「ピーケさん。 このシミュレーターって凄いですね。 僕等がログインしたここは創作したゲームの中とかですか?」
「いえ、これは現在の現実世界を模した居住用のシミュレーターの中です。 まずは吉田様に私達アフィアリアの世界をご案内できればと考えました。 視界の左下隅にA1という記号が見えますか? それがシミュレーターのタイプを示しています」
お? 確かに記号が表示されている。 それにしてもこれはゲームじゃなくて居住用のシミュレーターなんだな。 フルダイブ型のゲームに興味があるが、まずこの世界をできるだけ知っておくのもいいかもしれない。 一体アフィアリアってどんな世界なんだろう。 言語は普通に通じるのだろうか。
そんな心配を察したのかピーケさんが解説を始めてくれた。
「まず基本的な知識をお伝えしておきます。 吉田様が話された日本語はアフィアリア語に自動変換されて相手に伝わります。 同様に我々側の人間やAIからの言動はすべて日本語に自動変換されてお伝えすることになります。 従いまして翻訳用のAI端末を使う必要はございません。 ただしアフィアリア人に対して地球に関係する会話は避けていただきたいと思います。 問題ある発言と判断した場合はこちら側でフィルタさせていただくことを御承知おきください」
な、なるほど。
シミュレーターの中では異星人との言葉による交流は簡単なようだ。
ファーストコンタクト関連の話題だけ避ければよいのだろう。
「ということは、現地の方と交流しても良いと?」
「はい、大丈夫ですが、今回は移動時間を利用した1日限りのログインですので、アフィアリア世界の概要紹介を主体に進めたいと思っております。 その関係上人との交流の機会は取れない可能性が高いです。 それでもあえてご希望とあれば交流しても大丈夫です」
「わかりました」
「え、エミちゃんは、この世界の美味しい食べ物が食べたい。 もしかしてカロリーとか気にせずに食べたいだけ食べたりできたりするの?」
「はい。 VR環境の過度快楽防止法により制限されてはおりますが、通常の食事量の3倍程度までは許可されております」
「まさに天国だぁ~」
「お前は食欲だけだな。 他に性欲とかはないのか?」
「お、お兄ぃ。 妹に向かって性欲とか……。 お兄ぃの変態伝説は本当だったんだね~」
「変態伝説ってなんだよ! さっきのは失言だ。 単なる言い間違えだ。 言い直すとだな、エミリは知識欲ってないのか? という意味だったんだ」
「知識欲と性欲を間違えるなんて、やっぱり変態……」
「ち、違うわ! こんな異星に来てみっともない事いうんじゃねー。 単なる失言だ。 失言」
「……ま、わかった。 異星まで来て、お兄ぃの恥をさらすのは可哀そうだからね。 エミちゃんは許してあげるよ」
「あ、あのピーケさん。 今の会話は無かったことにさせてください」
「はい分かりました。 記録から削除いたします」
ええっ? 察しはついていたけど僕等の行動は記録されていたってことか?
こ、これは思ったよりも僕等のプライベートは窮屈になってしまっているのかもしれない。
「ピーケさん。 僕たちの記録は出来る限り取らないで欲しいのですが……」
「吉田様。 申し訳ございませんがそれは受け入れられません。 吉田様をお守りするためにも記録を取ることは必要です。 もちろん先程のように吉田様の尊厳に関わると思われる変た……不適切な発言等については消去させていただきます」
AIのくせに今“変態”って言おうとした? いやAIだったらそんな失言はしないはずだ。
まさか故意に言いかけたってことか?
ということはこれってもしかして教育的指導ってやつか?
それに尊厳に関わるってそんな大げさな……。
ど、どちらにせよピーケさんやシミュレーターの中に居たんじゃすべてAIの監視下だろうし。 うん、これは地球のサロナーズオンラインと似たようなものかもしれない。 サロナーズオンライン上の出来事は公安のAIなどが監視しているはずなのだ。
「わかりました。 それでいいです」
「で? ピーケさん。 エミちゃんをどこのレストランに連れて行ってくれるの?」
「お前。 この世界に来て直ぐにそれってどうかと思うぞ。 まずはこの星の文化、芸術、科学技術とかに触れるべきだろう」
「食事は立派な文化の一つだとエミちゃんは思うのです」
「はいその通りでございます。 我がアフィリアの食生活は文化・伝統的なものはもちろん、芸術性を楽しむ側面も御座います。 エミリ様のおっしゃる通りまずアフィリアの食事から体験してみるのも宜しいかと思われます」
あ、あれっ? まさかピーケさんって、エミリの味方になっちゃった? これは不味ったかもしれない。 折角見目麗しいAIなのに僕の下心が見抜かれて嫌われてしまったのか?
「食事が芸術ですか。 それなら僕も興味があります」
一転して僕はピーケさんを向いて微笑みながら同意してみた。 これで僕への好感度を高めてくれれば良いのだが。
いやまてよ? ピーケさんは人間みたいだがあくまでもAIだ。 シンギュラリティを迎えてから大分洗練されて、AIは人間よりも思考力が上がっているはずだし、そうであれば人間への個別的な差別とかなんか有るはずもない。
こ、これはまだ僕への教育的指導が継続しているとでも言うのか?
だとすると、……かなり効果的であると言わざるを得ないじゃないか。
これは参ったな。 シンギュラリティAI恐るべし。
「ではご用意いたします」
ピーケさんがそう言った途端に部屋に大きなテーブルと、その上に豪華に飾られた多量の食事?が現れた。 確かにこのレベルだと芸術的と言えるのかもしれない。 見た目にも華やかで美しいと思うし、何より美味しそうで臭いもすごく食欲をそそる。
「こ、これ全部食べていいの?」
「先程も申しました通り、一回の食事量には制限がございますので、色々なものを少しずつお試しになられるのが賢明かと思います。 そして食事を進める際には食事量表示バーの表示をオンにすることを推奨します。 バーの表示はどの位まで食することができるかの目安になります」
バーの表示?
おっ、意識しただけで食事量表示バーを出すことができた。
す、すごいなこれ。
「その食事量制限バーはダンジョン技術を用いており、バーが満タンになると満足してしまい、それ以降は食欲が全く失せてしまいます。 一種類だけを集中的に試されるよりも色々な種類を少量づつお楽しみいただくのがお勧めです」
僕らは待ちきれないといった感じで食事を始めた。
出された食事はまさに絶品だった。 本能のまま夢中で食べていくと、どんどん食事量制限バーが伸びていき、すぐに表示が満タンにまで到達してしまった。
するとどうだろう、満タンになって直ぐに僕は満足の極みに達してしまった。 そして食卓の上のそれは綺麗な飾り物に見えるようになってしまった。 つまり一切の食欲が突然消え失せてしまったのである。
ダンジョン技術って恐ろしい。
人間の基本的欲求もコントロールできるなんて。
僕は改めてダンジョン技術に畏怖した。
だが食べ過ぎは良くないから、それを制御できるのは素晴らしいことである。
肉体的な健康上の理由だけでなく、精神的にも欲求を抑制してくれるのだ。 大げさに言うと快楽のみを追及すると人は次第に堕落し、ゆくゆくは知性を失って人間として重要な何かを失って動物と化してしまうと聞いたことがある。 それは人間の退化を意味する。
まさかダンジョンって人間のために存在している?
ってことはやはりダンジョン教の教えが正しいってことか?
あの、アイツ等の主張が正しいだって?
い、いやそんなことは受け入れられない。
例えダンジョンの存在意味がそのようであったとして、あのカルト的な宗教は生理的に受け入れ難い。
僕はダンジョン教に関する考えを頭の中から直ちに排除した。
食事に満足した僕等は、ピーケさんの勧めるがまま、オープンカーのような乗り物に乗り込むことにした。 シミュレーターならではの瞬間移動を使い、乗り場までは一瞬だった。
やがてオープンカーは緩やかに加速し始めた。
穏やかで暖かい晴れた日に乗るオープンカーは風を切る感覚が素肌に心地よい。
オープンカーは磁気浮上の原理を使っているとのことで現実に存在する技術をシミュレーターで再現したものだそうだ。 ただし僕たちの会話は直接頭に音声として伝わってくるため風切り音とはハッキリと区別されて認識できた。
「それではご説明します。 先ずこのオープンカーについてですが、現実世界で通常の移動手段として用いられている自動車を模しています。 シミュレーターの中では、移動手段に加えてレーシングスポーツのようなレジャー用途でも使われております。 レーシング自体は基本的に危険を伴いますのでその競技は専らシミュレーターの中で行われます。 公式競技ではマシンの種別や、シミュレーターでの付加能力別のクラスなどに分かれています」
「付加能力って何ですか?」
「それはダンジョン内のステータスと似たようなものです。 シミュレーターならではの機能で、これにより素の肉体の能力をある一定値に制御できます。 競技者全員のステータスを揃えることもできるため、調整することで老若男女が平等に楽しめる娯楽にすることが可能になっています」
「す、凄い。 つまり事情に応じてハンデを自由に設定できるってことですね」
「はいその通りです。 では次にアフィアリアの名所をご案内しますね」
ピーケさんがそう言うと、一瞬にして断崖絶壁から下を見下ろせる風景へと切り替わった。
以前僕はサロナーズオンラインのチュートリアルにて意図せぬ落下を経験した。 その時に負ったトラウマの影響なのか僕は完全にすくみ上がった。
「お兄ぃ、どうした?」
「こ、これはなかなか楽しいじゃないか」
妹に反射的に虚勢を張ってしまったが、それが間違いだった。
「それでは名物のグライダージャンプをお楽しみください」
えっ! と思った時には手遅れだった。 胴体にロープ状のものが巻き付いたと思ったらすぐに何かに押されて崖の上から空中へと放りだされた。
「ぐ、ぎゃぁぁ~~~~!!!」
僕の悲鳴が聞こえたような気がした。
そして気づいた時にはデルタ型の紙飛行機の下敷きになり地面に着地していたのだった。
僕は慌てて股間へ意識を集中させた。
その結果、やはりと言って良いかわからないが、ちょっとだけ不快な湿り気があった。
だ、大丈夫だ。 大まではいってない。
お尻に意識を集中させた僕は少しだけ安心することができた。
「楽しかったね~。 エミちゃんはもう一度やってみたいな~」
「ははは、そうだね。 でも今はこの世界を浅く広く知るべきだよね。 残念だけど次の機会にしような」
その後ピーケさんの案内で、水中庭園や活火山の火口、壮大な滝や山脈の見物、絵画や彫刻、建築物や歴史資料展示物などを堪能できた。
「観光の途中ではございますが、目的地のダンジョンへ到着しました」
ピーケさんからの報告を受けて僕等は名残惜しみながらシミュレーターからログアウトしたのだった。