葛の葉
由紀が草刈に山へ出かけたきり、もう何日も帰ってこない。
居なくなってしまったわけではない。なぜか山に篭もったきり里に下りてこないのである。
山に入った大人達が由紀を連れ戻さうとするが、逃げ足がすばやくて捕まらない。今朝も、荷馬引きの六さんも、山道がけのみちすがら由紀を見かけたと言う。声をかけたら、風のやうに笹原を分けて走っていってしまったさうだ。
由紀の家は去年まで父一人子一人だった。おっかさんはとうの昔に死んださうだ。それでも親子中睦まじく暮していたのに、由紀のおとっつぁんが後添えを貰ってから事情が変った。由紀はおれたちのとっても良い遊び仲間だった。なのに、新しいおっかさんが来てからとんとおれたちと遊ばなくなった。前は、村の娘の中でもとりわけ身奇麗だったのに、いまぢゃ継の当たった着物を着て、学校が終るとそそくさと家に戻ってしまう。手や足に青いあざを拵えてくることもある。
由紀はそれはころんだせいだと弁解していたが、おれは本当のことを知って居る。
いつぞや、由紀の家の前を通りかかったときのことだ。女のカナキリ声がする。ついでわっと由紀の泣く声がした。やがて由紀は重そうな桶を背負い、鎌を携えて裏の畑に下りていった。
“さっさと用をすますんだよ。この無駄飯食らいめ”由紀をみおくったのは、継母の喚き声である。
“由紀ちゃん、手伝うよ”おれは声をかけて豆摘みを手助けしてやった。手を動かしながら、由紀はひとしきり、澄んだ良い声で歌をくちずさんだ。なんとも胸のきやきやする、切ない歌声である。
“その歌は?”
“亡くなったおっかさんが教えてくれた歌。これを歌うと、力が沸いてくるような気がする。由紀はぽつりと答えた。由紀は尚も歌いつづける。
おれは黙ってその声に耳を傾けていた。しかし、しきりに由紀が手のひらで目頭をこすって居るのを見て、おれはいたたまれなくなり、仕事が片付くや、逃げるようにその場を去った。そういうことがあったのだ。
おれは、あたらしく見つけた葡萄の狩場に行こうと思って山道をあるいていった。
きょうもひどく暑い。ここよりもっと暑い村に由紀が帰りたがらぬ気持ちもわかる。
おれは村を見晴らすタワで一休みすることにした。ここはちょうど由紀が隠れてしまったあたりである。
“**ちゃん、**ちゃん”草陰からおれの名を呼ぶ声がする。女の子の声だ。
さては、と思っておれは振りかえった。やっぱりそうだ。
夏草の中に、腰までうずもれた、見覚えのあるその痩せた後ろすがたは由紀である。恥かしいのか、そっぽを向いたままである。
“ゆきちゃん、どうしたのさ、みんな心配してるよ。早く戻っておいでよ”
“うん、でもいいの”由紀は向き直った。大きな芋の葉っぱに目鼻を開けたお面をかぶって居る。
“どうしたのさ、そんな変なもの被って”
“これはね…”そう言ふと、由紀は叢から抜け出してきて、おれと並んで座った。
村はちょうと昼下がりである。豆のように小さな人やら馬やらがせせこましい家並みを出たり入ったりして居る。
おれたちはのんびりと話に興じた。由紀と打ち解けて話しをするのは、ほんとうに久しぶりのことである。雲がながれ、日が翳る。
“こんな山に一人で淋しいだらう”おれが訊ねると、由紀は呟いた。
“もう家にはかえらないつもり”
“どうしてさ”
“だって、もうあそこはあたしの家ぢゃないもの。おとっつぁんと、あたらしいおっかさんと、それから、こんど生まれるあかんぼの家。わたしのうちぢゃない”
由紀は相変らず芋の葉を被ったままで淡々と語った。
“そうはいってもだ、一人では生きてゆけないのが人間ってものだろう”おれが先生の受け売りの台詞を言うと、由紀は
“ふふふ”
おかしそうに笑う。
“心配してるのに、それはないと思ふぞ”おれは気分を害して言った。
“だってわたしもう人間ぢゃないもの”
“ええ?”おれは愕いて聞きかえした。
由紀は言葉で答える代わりに、芋の葉のお面を外してみせた。
その奥から現れるのは、綺麗な色白の由紀の顔の筈…。が、違っていた。由紀の顔には間違いないけれど、まう既に、切れ長の目を吊り上げ、口の尖った、狐の顔になってしまっていた。でもとっても美しい。
“わかった?”由紀は静かに言った。
そうだったのか。おれは頷いた。
“でもさ..”おれがさう言いかけると、由紀は遮った。
“それにね、こっちの世界は私の本当のおっかさんも居る、ほらおっかさんが来た”
背後の草を踏む音におれは振りかへると、そこには、由紀にとってもよく似た女の人が立っていた。
村ではまず見られないやうな立派な装いの、やはり狐の顔の、大層に気品のある女である。由紀の母は、おれみたいな餓鬼も一人前に扱ってくれるのか、ふかぶかとお辞儀をした。
“由紀を何時も気遣ってくださって本当にありがとうございます”
おれはわれにもなく照れた。
“おっかさんは先に行って下さいな”由紀の言葉に、彼女の母は。おれにかるく会釈して、峠道の方に歩みさっていった。
“実はね、きょうでこの山から離れるんだ”由紀は言った。
“わたしたちの仲間の暮してる国に、わたしたちだけの国に、おっかさんが連れていってくれるんだ”由紀は嬉しそうに言ふ。
“で、ね、その前に、あんたにだけはお別れを行っておこう、と思ってさ。あんたはあたしに親切にして呉れたし。”
その言葉の最後で、由紀が心なしか声を詰まらせているかのやうに聞こえたのは聞き違いだったらうか。
由紀とお別れか。おれはなんだか悲しくなってしまった。
“これをあげる”由紀は髪から簪を抜いておれに手渡した。
由紀の手のひらのぬくもりをおれは感じた。そしておれの手の中には赤い珊瑚玉の簪が残った。
“本当に行ってしまうのかい”
“ええ、”由紀はそっぽを向いていった。
“なら、おれも連れていってくれよ”おれは泣きそうになるのを堪へてさう言った。
“だめよ、わたしたちと一緒に行ったなら、あなた、お化けになるのよ、それでいいの?”由紀は向き直って静かに答へる。その目にも光るものが見える。
“それだって構わないさ”おれは由紀を真正面から見つめた。狐の由紀はこんなに綺麗であったのか、とおれは改めて思った。
“ありがとう、でもね…”由紀はかぶりを振った。
“また、どこかで逢へるよ、きっと。”
由紀はそうため息をつくやうに言ふや、わたしの手を握ると、身を翻し、
叢の中を風のやうな勢いで掛け抜けていってしまった。
もう夕方だ。夕陽は、森の中を斜めに、凄いやうな紅の光りに透き渡り、黒い長い陰を地上に落して居る。
“まってくれよ”おれは追った。
峠道の下にひろびろとした草原がひらけている。そこには一台の籠が止まっている。
絵本で見たような、昔風の装束の男女たちの行列が前後に控えている。前駆の者の手にする提灯がほの明るく光る。由紀は、籠のすぐ後ろの馬の上だ。つんと澄まして鞍の上に乗っている。“奥さまの御出立ぢゃ”露払いの男が呼ばはる。行列はおもむろに動き出す。
おれはその一行をめざして無我夢中で走った。しかし、運悪く、草に足を取られてすってんどうと転んでしまった。
打ち身をさすりつつ起き直ったときには、由紀の姿をすっかり見失ってしまったのである。
人気のない草原にはただ風が吹き、虫の声を聞くばかりである。それでもあきらめきれず由紀を探しもとめる。
おれの耳には、あの日、豆畑で、由紀の口ずさんでいた歌声が暫くの間、風に乗って、あるときは遠く、あるときは近く聞こえていた。これが彼女の別れの挨拶なのだらう、と思ったものである。