まだ平和な車内
「俺んち帰ろうか」
うん、とうなずく松田を引き連れてバスに乗る。"まつだや"での出来事が嘘みたいに、車内は平和だ。運転手は無表情でバスを走らせ、優先席に座る女子高生はスマホにかじりついている。
「俺さ、女の子家に呼んだことないから結構緊張してる」
俺は笑いながら言う。けど、松田は一点を見つめるだけで、何も言わない。
「生徒会長、全然変わってなかったな」
反応がない。足取りの重い会社員が見える。きっと辛い一日だったのだろう。
「店は結構普段から手伝うの? 俺"まつだや"ほとんどいったことなかったからさ」
自転車で横を通り過ぎる坊主の学生。部活のバックが今にも弾けそうで、年季が入ってるのがすくにわかる。
「そういえばさ、誠也に会っ―」
「黙って」
鋭く尖ったその言葉が、俺の忙しい口を止める。近くにいたOLがこちらを一瞬見たが、すぐに見ていないふりをした。
動揺を隠すため、喋っていないと正気を失いそうだった。
「ごめん、黙るよ」
【次は春ケ丘公園前、お降りの方はボタンを押して―】
ボタンを押し、席を立つ。大丈夫。見慣れた景色のままだ。
ステップを降り、後ろを向く。松田が店の制服のまま出ているので、乗客が珍しそうに見ていた。
「ただいま」
普段言わない挨拶だ。母親は「はあ」と言って訝しがんだが、すぐに洗濯物を畳む作業に戻った。
「入りなよ」
俺が言うと松田がゆっくりと入ってきた。
「あんた、え? ちょっと何勝手に」
「お邪魔します」
そう言って、ストンと床に座り込むと、松田は泣いた。
体内の水分をすべて出し切ってしまうほど泣いた。見かねた母親がソファに座るよう促す。
「誰なのよ?」母親が言った。
「松田。あの"まつだや"の子」
「飲み会に行ったのは聞いたけど、だから何でその子がうちに来るのよ」
「ちょっと、落ち着いて聞ける? 今?」
俺はポケットからスマホを取り出した。先月発売されたばかりの新品で、ほんの数十分前までは、龍吾が握っていたものだ。
俺はバレバレのパスワードを突破し、カメラロールを開いた。構図が全く同じの自撮り写真がずらりと並ぶ。スクロールし、一番最後にある動画を再生した。
"何か"が人肉をむさぼる。バリバリ、ビキッ、血が滴り、悲鳴がスピーカーから流れる。
「何このリアルなゾンビ映画」
「だからリアルなんだって」
そう言って俺はテレビをつけた。
髪を律儀に整えた女性アナウンサーが、昨日起きた殺人事件のニュースを読んでいる。タオルを被った殺人犯が、警察に手を掴まれて、どこかに連行される様子だ。
ピロリン、ピロリン、とテロップが表示される。
【埼玉県〇〇市で集団感染が発生。変異ウイルスと見られ、国内では初】
「嘘、うちじゃない」
「だからリアルなんだって」
「変異ウイルスって、ゾンビ?」
「かもしれない」
とりあえず、と俺は続けた。
「自宅を離れなきゃまずい」
松田が泣いているので肩をさすってやりたいが、母親がいるので遠慮した。
「離れられるわけ無いでしょ」
「お父さんは?」
「だからまだ帰ってきてないの」
「電話!」
俺はスマホを取り出した。トークをスクロールし、父親の連絡先を探す。あまり連絡を取り合っていないせいか、なかなか見つからない。
【もしもし?】
母親のほうが早く電話をかけた。
【まだ仕事?】
声のトーンで心配しているのがすぐわかる。俺は母親からスマホを奪い、スピーカーモードにした。
【おい、変異ウイルスって何だ? 大輔はいるのか?】
ほらアンタ、と母親に裾を掴まれる。
【いる。動画送るからそれ見てもらったほうが早い】
俺は慣れた手つきで動画を送信した。
【とにかく、父さんは帰るなって言われてる。だから、駐屯地だ。自衛隊の駐屯地に行け。それが無理なら警察だ。母さんを守れるのはお前しかいない。頼んだぞ】
電話の向こうでは、混乱が起きている。オフィスとは思えない音が、あちこちで響く。
【そんなとこ人が集まるに決まってる。俺、父さんの会社に行くから。それまでなんとか耐えて】
だから待ってて、と言ったが、無料アプリの電話は圏外を訴えている。
「私も行く」
いつの間にか泣き止んでいた松田が、腫れた目を隠すことなく言った。
「宮島に、いや、大輔に、私と同じ思いをさせたくない」
ずっと触れないでいた事実に、初めて触れた。俺は、”まつだや”での光景を思い出し、「うん」と頷いた。