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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏果

 エスキモーコート。丈は僕とそんなに変わらない。

 フードの下の、真っすぐに切りそろえられた柔らかそうな黒髪に、雪が吹き込んで、まだらにする。

 黒髪のすぐ下の青みがかった緑色の瞳が、僕を射抜いている。小さく白い手が僕の耳たぶをつまむ。

 手袋をしてなかったのか、指はとても冷たい。

 その子の充血した唇が、言い聞かせるように、はっきりと大きく動き、最後は両端があがる。

 下弦の月の形。僕は身を固くする。痛みに耐えるためだ。次に何が起きるのか、分かっている。もう何 回も繰り返しているから。ほら、鈍く光る先端が……。


「勇気? 勇気?」

 ゆうき。僕の名前だ。夏果の声に目を薄く開き、ソファーから身を起こすと、我ながら酒臭い口の端から涎がこぼれた。あごの皮膚がぴりぴりする。

 激辛ラーメンの唐辛子が口に残っている。チューハイですすがないと。テーブルに伸びる手が柔らかく制止される。

「駄目。飲みすぎ」

 夏果の声に、僕は今度こそちゃんと目を開く。

 ウエハースみたいな形の黒ぶち眼鏡がきらりと光っていて、奥の目が潤んでいる。ぼってりとした一重まぶたの下に小さくおさまった、茶色がかった黒。緑色ではない。

「あ~、ごめん。寝てた。悪い夢見てた。あいつらは?」

「帰った。とにかく読んでみてって、鷲田さんが」

 夏果がローテーブルを指さす。

 スナック類や飲みさしの缶が散乱している真ん中に、聖域みたいなスペースが確保されている。その中央に、台本が1冊鎮座している。


 僕はちらりと夏果を見るが、彼女はフローリングを雑巾で拭いている。多分、鷲田が連れてきた誰かか、または鷲田本人が、ゲロでも吐いたのだろう。


 胸糞悪い。でも、そうまで言う鷲田の台本に、少しだけ興味がもたげて、僕の手は自然にそれをとってめくる。

 が、どうしても目がすべってしまう。


 やっぱり、駄目だ。これには真実がない。胸やけが起こり、塊がせりあがり、唇が内側からめくれるのを、夏果のふきんが押さえた。

「……汚ねえなあ。げろ拭いたやつだろ」

「汚しちゃ台本に失礼でしょ。せっかく誘ってくれてるんだし。ちゃんと読んでみたら? 一生懸命だったよ。鷲田さん」

「なげといてくれ。雑巾も一緒に」

 回った酒で頭が痛く、しかも全てが面倒くさい時、北海道弁がでてしまう。なげる、は北海道弁だ。

 僕は脚本を顎でさして、夏果のよこすポカリのペットボトルと、台本を交換。

 鷲田もいい加減しつこいと思いながら、飲み口を唇に運んだ。一瞬、夏果は不思議な顔をして、ああ、と言う。

「ちゃーるのね」

 今度は僕が訊く番だ。飲み口をくわえたまま、目で問う。

「ああ。ほかす、ね」

 ほかすはこの前の飲み会できいた。あの時の鷲田がいた。

 僕に糞みたいな役をやらないかと糞みたいなだみ声で言って、妊婦の夏果に糞みたいなやらしい目を使った。

 ほかすは近畿圏の方言で捨てる、だ。あの時僕は、この子は京都出身だと思ったが、違うらしい。

「ちゃーる、は栃木弁でね。捨てるって言うの」

「ほかす、じゃないのか」

「今日は栃木の気分。京都と栃木で育ったから。お父さんは山口に住んでるらしいけど、ちょっと複雑でね。連絡は10年くらいないし、こっちからもしたくないの」

 遠い目をする夏果。哀切に、喜びがほんの少し混じっただけで、表情は複雑になる。

 複雑という意味では僕も同じだ。けど、いい加減僕がお国言葉を使うのにも慣れて欲しい。なげるは、北海道弁で、捨てる。もう何回も使っている。


 籍も入れるし子供も年内に生まれるんだから、お互いにもっと腹を割らないと、と思う。

 が、どうしても抵抗を覚える。僕は29歳で、8歳の子供ではないのに。

 ……とりあえず、一度吐いてすっきりしたいと願う僕の目の端で、妊婦である夏果が床に散乱する何かにつまずいて、転びかけた。

 僕は叫ぶ。

 夏果は踏ん張り、黒ぶち眼鏡の奥のつぶらな目をもっと小さくして、こちらに笑いかけてくる。

「絶対に転ばないから。安心して」

 無邪気で、誇らしげな笑顔だ。夢に出てくる微笑みとは違う。

 軽い言葉を交わしてから、僕は立ち上がり、トイレまで歩いて、便器の手前のマットに嘔吐。

 やってしまった。僕の手は口を押える代わりに、耳たぶを押さえていた。


 7歳の時、実の父と3人目の継母が襲われて、死んだ。僕も耳に錐を刺された。

 詳しいことは覚えていない。車窓の向こうの闇。闇に吹雪く白。尻の下の振動。あわせて揺れる大きな座席。怒りやすかった父の舌打ち。3人目の母の髪の、むっとする臭い。

 横にかかる力。父の怒鳴り声。座席から転がる僕の耳に届く、無機質な音。緑色の瞳と、言い聞かせの呪文。


 それくらいだ。

 10年以上後で知ったのだが、父は危ない集団相手に危ない橋を渡ろうとしていたらしい。

 迷惑な話だ。おかげで僕は、言葉をしゃべれない子供になってしまった。引き取られた施設ではとても大変な経験をした。

 でも、高校への進学を機に、何故か会話ができるようになった。

 そのまま演劇部に誘われて入った。卒業して、施設も出て、バイトで食いつなぎながら、劇団員になった。

 身分証の上では2歳下の夏果とは去年、居酒屋のバイトで知り合った。何となく付き合い始めた。

 妊娠が分かったのが2カ月前だ。僕は入籍と退団を決めたが、今でも鷲田はもったいないと言って、僕たちのアパートに押しかけてくる。

 俺たちはようやく芽が出そうなのに、とかなんとか言ってさ。


『誰にも言っちゃ駄目だよ。耳じゃなくて、目になっちゃうからね』


 鼓膜に響く声。緑の目。痛みは真実の証明。


 妊娠を告げられたのと、夏果の留守中に、カラーコンタクトを発見したのは、タイミング的にほとんど同じだった。茶色がかった黒のコンタクトレンズ。


 僕はレンズの奥の夏果の瞳の色を知らない。

 夏果は、僕が彼女のコンタクトレンズの使用を知っているということを、知らない。

 方言の話をするとき、どうして決まって哀切に喜色が混ざった顔をするのかも、知らない。


 大きな嘘をついた時、僕はどうやって安心するだろうかと、発見の時からずっと考えている。やっぱり小さな嘘をたくさんつくのだろうか。

 木を森に隠すみたいに。砂金を浜辺に埋めるように。そうして、森や浜辺を眺めるみたいに、つかの間の安心を喜ぶのだろうか。

 だから糸魚川弁や信州弁や遠州弁や伊勢弁や近江弁を日常会話にちりばめては、ごまかすのだろうか。

 そして今日みたいに、本当に方言を使う時には、ささやかな真実を喜ぶのだろうか。

 夏果の悲喜こもごも。嘘に真実を混ぜる時の複雑な喜び。


 やたらと全国各地の方言にくわしくなってしまった僕。


 全てができの悪い喜劇なのかどうかは……。つまり、僕の考え過ぎかどうかは、夫婦として腹を割れば分かる。でも、その後の夏果を僕はうまく想像できない。

 だからこの手は耳たぶを押さえている。

 錐は、見えない楔は、今でもちゃんと僕の耳に打たれている。

 勇気という名前なのに臆病な僕は、夏果の前で演技を続ける。高校の時から、演劇をずっとやってきて本当に良かったと思う。

 演技。嘘。

 でも、夏果の方がもっと大きな嘘をついている。

 瞳は茶色がかった黒ではなく、エメラルド。

 身分証の年齢だって、多分違う。

 そもそも夏果という名前だって偽名だろう。

 本当は、冬の花、冬花とかかもしれない。

 いや、雪花か。こっちの方が名前らしい。


 何故、雪花は僕だけを見逃したのか。幼かったからか。それとも、あの時から僕たちがこうなることを予見していたのか。全ては謎だ。僕は、演技的な僕たちをどうにかしたいなら、言い出さなければならない。腹を割らなければいけない。暴けば全てが裏返る。まるでオセロみたいに。でも、本当に始めるなら、そこからなんだ。

 けれど……僕には勇気がないので、口元のげろを手の甲でぬぐって、マットの掃除を始める。

 居間から物音が響いてくる。僕の妻になる人が、掃除をしている。名前や、真実がどうだろうと。その事実は変わらない。

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