16.
「今日の朝ご飯はクロワッサンです!」
カウンターにでんと置かれたのはバスケットいっぱいのパンである。
三日月のような形で、色はちょうどカウンターと同じような色をしている。焼きたてのパン独特の小麦が鼻を誘惑するような香りと、じわっと溶けたバターの香り……。
クロワッサンというものは知らないが、さぞかし美味しいのだろう。
「クロワッサンか……。他のが良かった……」とボヤくグレンは無視して、バスケットの中から一ついただくことにする。
まだほんのりと温かいそれは、指の当たるところからパリっと音を鳴らす。
これはボロボロと落ちないように気を付けないと……。そう思うものの、お綺麗に食べることには向いていない私は精々、気を付けるだけは気を付けて、大口を開けて頬張ることにした。
初めはサクっと音がするが、すぐに唇に触れる生地はふんわりとした柔らかいものへと変わっていく。そして鼻腔をくすぐっていたバターはその範囲を私の口の中へと拡大していき、幸せを伝染させていくのだ。
「おいひいわ~」
サクふわの感触と、バターをふんだんに含んだパン生地に思わず頬が緩んでいく。
いくらでも食べていいですからね、という声に一つ、また一つとバスケットに伸びる手は止まってくれそうにない。
朝はあまり食べないタイプなのか、はたまたクロワッサンが苦手なのか、グレンの手は早々に止まってしまっている。どうやら彼は一足先に食後のコーヒーを楽しんでいるようだ。
そして私の視線に気づいたらしいグレンは一度席を立つと、キッチンの中へと入っていった。そして先ほどとは違うマグカップを片手に帰ってくる。
「ミッシュ。ここに紅茶置いておくからな。喉に詰まらせるなよ?」
「ええ」
どうやら紅茶を淹れてきてくれたらしい。
自分はコーヒーなのに、私の分は紅茶である。コーヒーって苦くて苦手だからとっても有り難い。
だけど私、コーヒーは苦手だってグレンに伝えていたっけ?
たまたまかしら、ね。一度気になってしまうと、どうもこんな小さなことまで気になってしまう。私の悪い癖だ。だがここで躓いていても仕方がない。何より、実りのあることには繋がりはなさそうである。ここは紅茶でよかったわと飲み込むことにしよう。
ほどよく冷めた紅茶を啜って再びクロワッサンへと手を伸ばす。
すると私の目の前に男性のガッシリとした腕がにゅっと現れる。そしてバスケットから一つ、クロワッサンを取り出した。
その腕を辿っていくと、そこに立っていたのは昨晩カウンターにいた男であった。男はクロワッサン片手にグレンの隣の席に腰かけると、私に有力な情報を与えてくれた。
「嬢ちゃん、クロワッサンならマーマレード付けて食うと美味いぞ」
「本当に!?」
「ああ。ルカ、嬢ちゃんに出してやれ」
「何で先に言っちゃうんですか! それ私が教えてあげようと思ってたのに……」
ルカさんはもうっと頬を膨らましながら奥へと下がって、マーマレードが入ったカップを二つ持ってきてくれた。そして私と男の前にそれぞれ一つずつ置く。
男はルカさんに「わりぃな」と軽く謝ってから、クロワッサンを半分に割った。そして断面に惜しげもなく大量のマーマレードを乗せて、口いっぱいに頬張った。あまりの量の多さに口の端に付いてしまったマーマレードは親指の腹ですくって舐める。その顔はひどく満足したような表情を浮かべている。
私は今までいくつもクロワッサンを平らげていたことも忘れて、新しいクロワッサンを一つ手にとる。そして男と同じように、割ったクロワッサンの断面に多めのマーマレードを乗せて頬張った。
するとどうだろうか。
先ほどと同じクロワッサンであるものの、全く違う表情を見せてくれる。
たかだかマーマレード。されどマーマレード。
柑橘系の酸味と果実本来の甘みがクロワッサンの味を邪魔することなく、両者の良さを引き立てあっているのだ。
ほおっと幸せになったところで、もちろん口端に付いたマーマレードを指で掬うのも忘れずに再現する。これが追いマーマレードという形になって、一層ふんわりとした甘さが口の中で広がるのだ。
確かに初めのだけでも十分美味しい。
だが甘いもの好きにはこの二段階用意された甘みの変化がたまらない。なるほど、これは計算づくでのことだったのかと理解する。
行儀は悪いからレニィちゃんには勧められないけど、一度この変化を知ってしまえば忘れられそうもない。
癖になりそう!
「美味いだろ!?」
「ええ!」
すっかりクロワッサンとマーマレードの虜となった私は、グレンが「あんまり食べ過ぎるなよ。この後、鍛冶屋に行くんだから」とつぶやくのを軽やかに無視する。
そして再び、クロワッサンにたんまりとマーマレードを乗せるのだった。




