-見えた文字-
右隣に座っている女性に対して、右目を隠し左目だけで覗き見る。一瞬視界がぶれ、思わず両目を閉じてしまう。気を取り直し再び彼女を見た瞬間、今まで経験したことが無い様な感覚に陥る。
「ん・・!」
声が漏れた。その声は彼女に届き、彼女はこちらを見て訝しげな眼でこちらを見てくる。
「何か・・?」
そう彼女に聞かれた僕は咄嗟に答える。
「いえ、目にゴミが入ってしまって・・。もし目薬を持っていたら貸して頂けないでしょうか・・?」
一つの賭けに出る。決して他意など無いように控えめに頼み込み、もしかしたら彼女が近づいてくれるかも知れない。
「・・。」
どうやら彼女は優しい方のようで、親切にもバックから目薬を探しくれている。
「あ、あった。」
目薬が見つかり彼女がこちらに歩み寄って来る。一歩一歩確実に近づいてくる。
「これで良ければどうぞ・・。」
彼女が右手で目薬を渡してくる。その目薬を受け取る為、左手を前に出す。
「わざわざすみません。ありがとうございます。」
彼女と一瞬だが視線を交わす。そして彼女の頭上に浮かび上がる文字がはっきりと見える。右手を戻して目薬を差し、彼女に返す。再びお礼を言うと彼女は席へ戻っていった。
コーヒーを一口飲み、先ほどの文字を冷静に振り返る。彼女の頭上に書かれていた文字は、「金」と言う一文字。
(どういう意味があるのか。)
僕は残り一口になったコーヒーを飲み干し席を立つ。
「美味しかったです。」
そう喫茶店のマスターに一声かけ会釈する。会計を済ませ、出口へと向かう。扉を開け出ていく瞬間、一瞬だが彼女を一瞥する。
長い間眠っていた僕だが一つだけ良かったことがある。それは人並み以上に記憶力が長けていること。確実に彼女の背格好、顔を記憶した。次に会うことがあれば直ぐに彼女だと気付けるだろう。
「一連の流れを傍から見たら、まるで怪しい男じゃないか。」
自分でそう口に出しながら苦笑する。昔の自分はどんな人物だったか今では分からないが、どこか自分のことも客観的に見ている節がある。それも良い点なのかも知れない。
(さて、どうするか。)
彼は既に彼女のことで頭が一杯だった。彼の中に残る唯一つの感情。それは誰かを幸せにすること。
偶然かも知れないが、彼女は僕にとって特別な人物らしい。僕自身の力?も不可解だが、それよりも彼女の方が気になる。どうにかもう一度彼女と接触する機会は無いだろうか。
更に怪しい男になっていることに気付いていない彼であった。
「明日も気分転換にあの喫茶店に寄ってみるか。」
そう呟き彼は帰路に就く。彼女のこともだが彼自身の勉強も疎かにはしない。
都心から彼の地元の駅まで1時間弱ほどの距離。家に着く頃にはすっかり夜になっていた。
「おかえり。どう?久し振りに気分転換になった?」
帰宅早々、母が出迎えてくれた。靴を脱ぎ母の方に向き直り答える。
「少し疲れたけど楽しかったよ。明日も時間出来たら出掛けてくるよ。」
「そう、何か良いことでもあったのかしら。」
僕の顔を見るなりそう言ってきた。楽しいことは特に無かったけど良いことならあったよ。僕の感情を動かす出来事が。
「そうそう、コーヒー飲んだんだけど苦いねあれ。」
「口はまだお子様なのかしらね。ふふ。」
母は笑いながら台所へと向かって行った。時間的に夕飯を作っている途中だろう。今までリハビリや勉強で母に任せっきりだったから、今日くらいは手伝うとしますか。
「母さん、夕飯作るの僕も手伝うよ。」
「あら、珍しいわね。でも・・優真、料理の仕方覚えてないでしょ。昔は良く一緒に作ってたけど。」
「そうなんだ。確かに何も覚えてないけど身体が覚えてるって良く言うし。」
「そうね、やってるうちに何か思い出すかも知れないわね。」
「じゃあ、まずはー。お米は炊き終わってるし、お味噌汁を作ってもらおうかな。味噌と豆腐とわかめを冷蔵庫から取ってくれるかしら。」
「分かった。味噌と豆腐と・・。あれ、わかめが無いね。」
「あ、乾燥わかめだから食品庫の中だわ、ごめんね。」
この一年で物の名前もある程度は覚えて来た。覚えたと言うよりも知識と実物を照らし合わせた感じ。生活に関わるものなら一通り分かるようになってきている。これも両親が毎日教えてくれたお蔭だ。
「次はね・・。」
母に言われた通りにやる。お玉で味噌を取り、少しずつ箸でかき混ぜるように溶かして行く。どこか懐かしい感じがする。
この一年は自分の時間を取り戻したいがため、疎かにしていたこともあった。少しずつでいい。家族との時間も作れるよう努力していこう。
最後まで読んで頂きありがとうございます。