アユの切り札
赤い煉瓦の建物はすぐに見つかった。路地裏にあり、廃墟のようになっている。
このまま乗り込んでも、拘束されるだけだろう。
だったら、どうしたらいいのか。
一度、リュザールの馬と驢馬のジャンがいる場所まで戻ることにした。
観光客用に用意された厩舎には、水を飲める桶と干し草が用意されていた。おまけに、ブラッシングまでしてもらったようだ。至れり尽くせりである。
外から厠を覗き込んだアユは、のんびりしている黒馬やジャンを見て幾分か安堵した。
そんなアユを、黒馬とジャンは不思議そうに見つめていた。
近づいてきた動物達の鼻先を撫でていても、何も作戦は思い浮かばない。
味方のいない街中で、果たしてアユは何ができるのか──。
天を仰ぐと、曇天を切り裂くように黒鷲が飛んでいるのが見えた。
切れた雲間から、太陽の光が差し込む。
あれは、リュザールの鷲だ。
リュザールがやっているように、手を振った。降りてくるわけがないとわかっていたが、体が自然と動いてしまったのだ。
すると、奇跡が起きる。
黒鷲がアユに向かって降りてきたのだ。
「えっ!!」
鷲は近くで見ると大迫力である。
リュザールがしているように、腕を伸ばす。すると、アユの腕を止まり木にして降り立った。
「わっ!!」
鷲は想像以上に重く、アユは倒れそうになった。
転倒しそうになるのと同時に、黒馬が首を伸ばしてアユの服に噛みついた。そのおかげで、転ばずに済む。
アユの腕は不安定な止まり木だったからか、鷲は地上に降りた。
すぐさまアユは、カラマル用に持ち歩いていた肉を与える。
黒鷲は趾で肉を押さえ、嘴で引っ張り器用に食べていた。
そんな黒鷲の様子を見て、ふと気づく。
鷲の嘴は鉤のように鋭く、爪はナイフのように鋭利だ。
もしも、この黒鷲がリュザールの救助についてきてくれたら、大きな戦力となるだろう。
だがしかし、アユは鷲の操り方を知らない。
リュザールは口笛と手の振りで鷲を操っていたが、それがどういう意味なのか聞いたこともなかった。
気になっていることだったので、質問しておけばよかったと後悔する。
何もできないが、できることもある。
話が通じるわけがないが、ダメもとでお願いをしてみた。
姿勢を低くして、鷲と目線を同じにする。
黒鷲は鋭い眼差しを向けてきた。正直怖かったが、ここで怖気づいてはいけない。
心を込めて、お願いしなくてはならない。
「あ、あの、今、リュザールが攫われていて、助けたいの。力を、貸してくれない?」
そう言った瞬間、鷲は高い声で「ピイ!」と鳴き、翼を広げた。
「い、今の、いいよって、こと?」
問いかけると、もう一度「ピイ」と鳴いた。まるで、アユの言葉がわかっているように思えた。
「じゃあ、行こう」
立ち上がると、黒馬とジャンが鳴く。彼らも、連れて行けと訴えているのか。
「わかった。一緒に、リュザールを助けに行こう」
アユの腰に吊るしてある小さな鞄の中から、カラマルの鳴き声がする。
まるで、自分もいるからと訴えているようだった。
「うん。カラマルも、お願い」
鞄からひょっこり顔を出したカラマルが、任せろと鳴いた。
◇◇◇
「──うっ」
ズキン、ズキンと、酷い後頭部の痛みでリュザールは目が覚める。
たんこぶでもできているのか。
患部に触れようとしたが、手が動かない。立ち上がろうとしても、足が自由にならなかった。
ぼんやりとした思考の中で、手足を拘束されているのだと気づく。
ここはいったいどこなのか。
「ア、アユ……」
返事はないし、他に人の気配もない。どうやら一人で拘束されているようだ。
灯りもなく、まっくらなのは夜だからか。
肌寒く、虫がなく音は聞こえない。窓がないからだろう。水がぴちゃんと跳ねる音だけが耳に届く。
ここで、腹がぐうっと鳴った。これは、一食抜いた時に感じる空腹だ。
ということは、今はきっと夜ではない。ここは、地下部屋なのだろう。だから、暗いのだ。
リュザールはどうしてこうなったのだと、一人憤る。
いったい誰が背後から殴りつけてきたのか。
足先を動かしたら、シャンシャンと音が鳴る。金のアンクレットは装着されたままだ。おそらく、襲ってきたのは強盗ではない。
考えられる可能性は──侵略者の一族。それか、アユの実家であるハルトスの人間だろう。
幸い、殴られた後頭部以外に怪我はない。ということは、リュザールを襲ったのはハルトスの人間か。
侵略者の一族だったら、すでに命はないだろう。あの者達に、容赦という言葉は存在しない。
縄で縛られているのは手首だけで、指先は自由だ。
人差し指に嵌めている指輪の、突起を弾く。すると、小さなナイフが突き出てきた。
これで、縄を切る。
硬い縄を選んでくれたようで、断ち切るのに時間がかかりそうだ。人差し指も、攣りそうになる。
ハルトスの人間に見つかる前に、なんとか縄を切りたい。
額に汗がじわじわと浮かび、頬を伝って滴り落ちていく。
アユはどうしているのか。捕まっていないといいが。
なぜ、あの時一人にしてしまったのか。後悔が押し寄せる。
しかし、あの人混みの中では、守り切れなかったのかもしれない。
どうか、一人で逃げ延びてくれていることを願った。
以前、アユが危機に陥った時、精霊石で繋がった縁を通じて知らせてくれた。
今回も、何かあったらアユの状態を知らせてくれるだろう。
一本、縄が切れた。二本目に移る。
人差し指はぴくぴくと痙攣しているような気がした。しかし、休んでいる暇はない。縄は四回巻かれていた。もうひと踏ん張りである。
しばらく闇の中にいると、周囲の様子が見えてきた。
地面は石で、壁は煉瓦が積み上げられているようだ。部屋の規模はわからないが、そこまで広くはないだろう。埃っぽくかび臭いところから、長い間放置されていたことがわかる。
手首の縄は残り二本。ふうと息を吐いていたら、天井のほうから光が差し込んだ。
石の階段のような物が見える。
開いた蓋のような物の隙間から、ぎょろりとした目が見えた。
リュザールはヒュッと、息を呑む。