猫に導かれて
ドクン、ドクンと胸がイヤな感じに高鳴る。
今までアユは街で一人歩きをしたことがなかった。いつも、リュザールが一緒だったのだ。
いつだって前を歩き、アユを導いてくれた男性の姿はない。
暗闇の中を、灯りもなしに歩いているような感覚に陥る。
しかし、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
リュザールを捜して、合流しなければ。
きっと、叔父や兄、姉妹たちがアユのことを捜し回っていることだろう。それを考えたら、ゾッとする。
今、歩き回るのはよくないのかもしれない。
かといって、このままではリュザールと合流できないだろう。
どうすべきなのか。
リュザールを捜している間に、ハルトスの兄弟や叔父に見つかったら大変だ。
むやみやたら歩き回るのは危険か。
そんなことを考えていたら、額の精霊石がジワリと熱くなる。
以前、リュザールが精霊石を通じてアユとの繋がりを感じたと話していた。精霊石に触れたら、リュザールの居場所がわかるかもしれない。
だが、人目のある場所では精霊石を出さないほうがいいだろう。額の精霊石を見て、ユルドゥスの者であるとバレたら大変だ。
人目のないところを、探さないといけない。
ふと、どこからか視線を感じ、肌が粟立つ。
もしや、見つかってしまったか。
視線を感じた路地裏のほうを見たら、先ほどアユが撫でた灰色の猫がじっと見つめていた。
アユを見ていたのは、猫だったようだ。
目が合うと、こっちへ来いと訴えているように思えた。
アユは猫を追い、路地裏を駆けた。
猫は低い塀を超え、民家を横切り、誰も通らないような叢を走る。
羊を追うことに慣れているアユは、難なくついて行くことができた。
街の喧騒から離れるようにして辿り着いたのは──白煉瓦の一軒家。周囲には木々があるだけの、不思議な空間である。
木漏れ日が、白い煉瓦に葉模様を作っていた。出入り口には、看板がかかっている。
「喫茶店、大きな海老?」
おかしな名前の店だった。
灰色の猫は入口に座り、にゃあと鳴く。まるで、中に入れと言っているかのよう。
足下には、営業中の看板が置かれていた。
小さな窓から店の内部を覗き込む。
店内には、モザイクランプがいくつも吊り下げられており、丸い円卓が置かれていた。
幸い、客は誰もいないようだ。
この辺りは人が来そうにない。しばし、ここに姿を隠すことにした。
扉を開くと、カランと音が鳴る。
「おや、いらっしゃい」
店の奥から出てきたのは、腰の曲がった老婆である。アユを見るなり、すっと目を細めた。
「たくさん、連れてきたね」
「え?」
振り返ったが、誰もいない。
老婆には目には見えない何が視えるのか。と、思っていたところに、アユが開いた扉から猫が入ってくる。灰色と黒とぶちの三匹だ。
いつの間にか、仲間を増やしていたようだ。老婆には猫が見えていたのだろう。
「あんた、ワケありだろう」
「え?」
「うちの猫に言っているのさ。困っている人がいたら、連れてくるように、と」
アユは灰色の猫を振り返る。ゆらゆらと尻尾を揺らし、にゃあと鳴いていた。
「好きなところにお座り。ミルクたっぷりの、チャイを淹れてあげるから」
そう言われ、アユは三匹の猫が円卓に座っている椅子に腰かけた。
老婆がこないことを確認すると、アユは大判の布と頭部と口元を隠していた布を取った。
そして、帽子を脱ぎ、額の精霊石に触れた。
すると、脳裏にここではない映像が浮かんでくる。
「──ッ!?」
赤い煉瓦で造られた薄暗い部屋の中に、兄と叔父がいた。手には、ナイフを持っている。
リュザールはハルトスの家族に捕まっているようだ。
急に息苦しくなる。額から手を離し、胸を押さえる。
「はっ、はっ、はっ……!」
どれだけ息を吸っても、上手く呼吸できない。額には大粒の汗が浮かび、木製の机に水滴の跡を作った。
急に降り出した雨のように、アユの汗はポタリ、ポタリと滴っていく。
熱く、強い感情に支配されそうになる。
外では強い風が吹いているのか、窓枠がガタガタと音を鳴らしていた。
ここで、腰の鞄に入れていたカラマルが這い出てくる。アユを心配そうに見上げていた。
ふわふわもこもこのカラマルを抱きしめる。すると、幾分か落ち着くことができた。
「お待たせ。ミルク入りのチャイだよ」
チューリップの花の絵が描かれた陶器のカップに、チャイがなみなみと注がれていた。
それから、老婆はゴマのパンと真っ赤なスープも出してくれた。
「ゆっくりおあがりよ。ここには、あんたを害す者はこないから」
アユはコクリと頷き、チャイのカップを手に取る。
今まで汗を掻いていたのに、指先は驚くほど冷たくなっていた。
チャイのカップで、手を温めながら飲む。
ミルク入りのチャイを、リュザールは買ってきてくれると言った。
人混みの中で疲れたアユを、気遣ってくれたのだ。それを思ったら、眦にじわりと涙が浮かんだ。
甘いはずのチャイは、しょっぱい味がした。
続いて、ゴマのパンを齧る。
リュザールと出会った日に、食べたパンだ。当時、空腹よりも恐怖が勝っている状況の中、ゴマのパンを食べた時「もう大丈夫だ」と言ってもらえたような気がして泣けてきたのだ。
初めて、リュザールの優しさに触れた瞬間である。
スープはレンズ豆が入っていた。言わずもがな、リュザールの好物である。
大好物のスープを前にすると、リュザールは笑顔になる。また今度、作ると約束したのだ。
もう一度、チャイを飲む。今度はしょっぱくない。
ここで、憤って、泣いている場合ではない。リュザールを助けに行かなければならなかった。
チャイを飲み干し、料理を完食したら、モヤモヤとした言葉にできない感情は吹き飛んでいた。
アユは大判の布を纏い、立ち上がる。
「すみません、お代を」
「もう、もらっているから必要ないよ」
「え?」
「行きな」
しっしと、猫を追い払うように老婆は手を振る。
「あの、でも……」
「聞き分けの悪い子は嫌いだよ。いいから早く行くんだ」
扉が勝手にキイと鳴り、大きく開いた。
外は強い風が吹いている。
アユは一礼し、外に出た。数歩進むと、嵐のような強い風が吹いた。
砂煙が巻きあがり、木々の葉が散り散りになって飛んで行く。
目を開けることも、立っていられることもできず、その場にしゃがみ込んだ。
風が止み、アユはキョロキョロと周囲を見る。そして、背後を振り返った瞬間、ぎょっとした。
「な、なんで!?」
先ほどまであった老婆の店がなくなっていたのだ。
チャイを飲み、ゴマのパンを食べ、レンズ豆スープを食べたのは精霊石が見せた不思議な光景だったのか。
今は、それを深く考えている場合ではない。
リュザールのもとへと行かなければ。
赤煉瓦の家を目指し、アユは再び街へ戻る。