アユの決断
咄嗟にアユは別の方向へと逃げようとしたが、叔父に腕を掴まれる。
「どこに行くんだ、家族が待っているぞ?」
自らの愚行を忘れているのか。悪びれもせずに、叔父は言った。
叔父が何をしたか、アユは忘れるはずがない。
──ど、どうか、命だけはお助けを!!
──わたくしめの全財産を差し上げます。この娘を!
──この赤毛に、青い目は非常に珍しいでしょう! 価値のある娘です!
──どうぞ、その娘はご自由に! 煮るなり焼くなりしてください!
叔父が侵略者の一族と勘違いしたリュザールに言った非道な言葉は、一語一句覚えている。
あの状況で、よくあれだけの口が回ったものだ。
当時のアユは何もかも諦めていた。絶望の淵に立たされ、自分がどうなろうと構わなかった。
だが、今のアユは違う。
この先もリュザールと幸せに暮らしたかったし、本当の夫婦にもなりたいと思っていた。
アユはここで、ハルトスの者達と決別しなければならない。
やっと、過去の出来事を笑い話にできるようになったのだ。これ以上、引きずりたくない。
アユは腹を括る。絶対に、ここから逃げ出してやる、と。
このまま捕まったらきっと、ハルトスに連れ戻されてしまう。
アユはキッと、叔父を見上げて言った。
「私を保護してくれたのは、侵略者の一族ではない」
「だったら、どこの誰なんだ?」
「遊牧民の、族長の五番目の息子」
「証拠は、どこにある?」
「あなたに、教える必要はない」
叔父がそう言った瞬間、掴まれた腕に力が入る。肉が悲鳴を上げ、骨が軋んだような気がした。
しかし、アユはそれを表情に出さない。
「洗脳なんてされていないし、誘拐されたわけではない。それは、あなたがよくわかっているでしょう?」
「さあ、なんのことだか。お前は、誘拐された先で酷い目に遭って、気がふれているんだ」
「そんなことはない。気が触れているのは、あなたのほう!」
正気であることを証明するのは難しい。
加えて、相手は叔父だ。何を言っても無駄なのだろう。
叔父は眉尻を下げ、アユを見ながら「可哀想な子だ」と言った。
「以前のお前は、何を言っても言い返さない、いい子だったのに」
「違う! いい子なんかじゃない。単に、あなた達に都合がいい子だっただけ!」
ハルトスにいたアユに自我はなく、家族のため言われるがままに働いてきた。
その中に喜びも幸せも、何もなかった。
けれど今は違う。アユはアユのために、自分で考えて働く。
すべては、リュザールと幸せになるため。過去の苦労は未来の喜びに繋がっているのだ。
自らの幸せのために働くということを、アユはユルドゥスに来て初めて知った。
「ハルトスには、戻らないから。私は、私のしたいことをする。だから、邪魔しないで」
「何をバカなことを言っているんだ。いいから早く戻るぞ」
叔父はアユの腕を無理矢理引き、歩かせようとする。しかしアユは、踏ん張って動かない。
「くっ、こいつ……! この、バカ娘が……!」
「絶対、あなたの言いなりになんか、ならない」
すんぐりと太った叔父は、意外と力が弱い。毎日羊や山羊の世話をしていたアユの抵抗を、止めることはできないようだ。
叔父はアユの姉チチェク、妹達ウシュクとクシュに命じ、アユの体を押すように命じていた。
さすがのアユでも、三対一では勝てるわけがない。
どうしようか考えていると、咄嗟に義母アズラから教えられていたことが思い浮かんだ。
──我が息子リュザールの嫁アユ。よく聞くのですよ。男性にはわかりやすい急所があります。股間です。え、よく聞こえなかった? では、もう一度言います、股間です。いいですか? もしもの時は、思いっきり蹴り上げるのです。確実に倒したい場合は、足ではなく膝を股間にぶちこむのですよ。一発で、倒すことができます。
侵略者の一族の男に襲われた時は頭の中が真っ白だったので、義母の言葉を失念していた。
しかし怒りを抑え、比較的冷静な今、アユはアズラの言葉を思い出すことができた。
リュザールに出会った日、彼がアユに言った言葉も思い出す。
──諦めずに、やるんだ!
アユはまだ、何もしていない。
やれることを、精一杯やらなければならない。
諦めないで頑張った結果、アユは幸せになれたのだ。
こうなったら、やるしかない。
アユは姿勢を低くし、跳び上がったのと同時に膝を叔父に向かって突き出した。
狙い通り、アユの膝は叔父の股間に命中する。
「ヴァッ!?」
叔父は魔訶不思議な叫び声を上げ、股間を押さえてその場に倒れた。
同時に、双子の妹がアユに迫っていたが、ひらりと回避する。
姉チチェクが正面に回り込んでくるも、ジロリと睨んだら道を譲ってくれた。
アユは迷わず駆けだす。昼食時の人混みに紛れ、屋台のほうへ走った。
紅茶を売る屋台に寄り、褐色に金色の髪を持つ青年がきたか聞いてみる。しかし、店員は首を横に振った。
ここで待っていたら、リュザールはやってくるだろうか。
屋台の周囲は昼食を求める者達でごった返し、人捜しができるような状態ではない。
さらに、狡猾だった兄が来ているとも言っていた。見つかったら、叔父のように出し抜くことはできないだろう。
人混みの中にアユの兄に似た男性を見かける。この辺りで赤毛は見かけない。
見間違いではないだろう。
ここにいたら、見つかってしまう。アユは回れ右をして、大衆食堂から一時的に離脱することにした。
◇◇◇
ドクンドクンと、胸が高鳴る。
まずは、この辺では珍しい赤毛を隠す大判の布を買わなければならない。
花嫁衣装の袖に、硬貨が縫い付けてあった。リュザールが何かあった時のためにと、アユに持たせてくれたものである。
引きちぎって、近くにあった土産屋に入った。
細身の年老いた男性が、笑顔を浮かべ出迎える。
「いらっしゃいませ。何かご入り用ですか?」
「あそこの、日よけの布をください」
「かしこまりました。柄がいろいろございますが」
武勇、男らしさを意味する羊の角模様、豊穣を願う小麦と大麦模様、宝、湖を意味する竜模様など。布にはさまざまな模様が刺繍されていた。
アユはどれでもいいと言いかけたが、慣れ親しんだ羊の角模様が刺繍された灰色の日よけ布を購入した。
買ったばかりの品を、すぐさま頭からすっぽり覆って隠す。
「おつりは──」
「いらない。その代わり、赤毛の女がきたことを聞かれても、黙っていて」
「それはそれは、もしや追われているのですか?」
「……」
沈黙が肯定のようになってしまった。
「商品のお値段よりも、おつりのほうが多いのですが」
「いいから」
「ふうむ」
納得がいかない店主は、もう一枚黒い布地をアユへ差し出した。
「これは?」
「オマケです。受け取ってください。頭部と口元をすっぽり覆う日よけです。日焼けしたくないご婦人方に人気でして」
「いいの?」
「もちろんです」
アユは店主に感謝し、布を受け取った。巻いた絨毯が立てられた陰に隠れ大判の布を取り、受け取った布地を頭部に巻いて口元も覆う。
宗教の関係で、このような恰好をしている人がちらほらといる。アユがこのような扮装をしても、目立つことはない。
「ありがとう」
アユはそう言って、土産屋を出た。