グランドバザールへ
「──あ、猫!」
路地裏を覗き込めば、必ず猫が寝転がっている。
アユはしゃがみ込み、チッチと舌を鳴らして手を差し伸べる。
「アユ、お前それ、羊を呼ぶやつだろう」
「猫は違うの?」
「ピシ、ピシって呼ぶと近づいて来るんだ」
「そっか」
ピシ、ピシというのは、街言葉で「にゃんにゃん」とか「にゃんこ」とか、猫を可愛がる時に呼び掛ける言葉だ。
アユはしゃがみ込み、真面目な表情で猫に「ピシ、ピシ」と呼びかけた。
すると灰色の猫が立ち上がり、尻尾を揺らしながら優雅に歩いて来る。
アユの指先に、額を擦りつけてきた。
「か、かわい……」
アユは猫と同じアーモンド形の大きな目を細め、頬を紅く染めている。
それから、無心で猫を撫で続けているように見えた。
「ふわふわ……ふわふわ……猫、すっごく可愛い……!」
アユはリュザールを振り返り、猫が可愛いと報告してくる。
──可愛いのはアユのほうだ。
そんな言葉を危うく口にしそうになり、口を手で覆ったリュザールである。
幸せそうなアユと猫と、平和な路地裏。
穏やかな昼下がりである。
◇◇◇
猫を思う存分堪能し、広場の噴水の冷たい水で手を洗う。
アユは手で水を掬い、腰の鞄に入れていたカラマルに水を飲ませていた。
続いて、グランドバザールのほうへ足を向けた。
ここには、国中から集まった商店が自慢の品を販売していた。
遊牧民から買い取った織物も販売されている。
「あ、あの織物、可愛い」
アユが指し示したのは、幸せと豊穣を意味する『星』の文様である。
八つに輝く星々は、人々に祝福をもたらす。そんな伝承を表したものだと店主が話していた。
アユはしばし目を奪われていたようだが、店主が算盤で示した値段を見てぎょっとしていた。
「そんなに、するんだ」
「これは、草原の南部を生活拠点としている、羊飼いの遊牧民が作った逸品ですからなあ。遊牧民の織物はとにかく丁寧で、草原の宝とも呼ばれております。まあ、この絨毯もハルトスの作る織物に比べたら、値段も可愛いもんで」
「……」
「ハルトスの織物だったら、これの倍以上するんですよ。今年は織り目がズレていたり、模様が雑だったりと、粗悪品を売りつけようとしていたので、取引は断ったのですが」
「そ、そう……」
「ここ数年、人気があった織り手が亡くなったとか、連れ去られたとか。そんな話を聞きましてなあ。山のほうでは、誘拐婚の風習が残っているとも聞きますし、とにかく、絨毯商一同、皆、残念に思っているとかで……」
ここで、リュザールはアユの腰を抱き、絨毯を売る店から離れさせた。
アユは顔面蒼白となり、胸を押さえていた。
「すまない。もっと早く、連れ出せばよかった」
「ううん、平気……」
少し、休ませたほうがいいのかもしれない。
リュザールはグランドバザールにある大衆食堂へと連れて行った。
そこには、広場に張られた天幕の下に机と椅子が用意されている。屋台が並び、好きな料理を買って自由に食べる所である。
いろいろ連れ回したからか、アユは少々疲れているように見えた。
昼時で、屋台の周辺は人でごった返している。しばらくここで休ませることにした。
「ちょっとここに座ってろ」
「うん」
「紅茶と珈琲、どっちがいい?」
「紅茶……」
「山羊の乳が入った、甘いヤツにするか?」
その問いに、アユはこくりと頷く。
「食べたいものはあるか?」
「リュザールの好きな物を、食べたい」
「なんだ、そりゃ」
「リュザールの好きなものだから、きっと私も好き」
なんて可愛いことを言うのだと、リュザールは叫びそうになった。
しかし奥歯を噛みしめて、ぐっと堪える。
アユが肩を抱き、微かに震えていることに気づく。いつの間にか太陽は雲に覆われていた。吹く風もひんやりしている。
リュザールは裾に鍵模様の入った上着を脱いで、アユの肩にかけてやる。
「あ、リュザール、これ」
「いいからかけとけ」
鍵というモチーフには、魔除けの効果がある。今のアユに必要なものだろう。そう思って肩にかけた。
「ありがとう」
「おう」
行ってくる。そう言って、リュザールは食事と飲み物を買いに行った。
紅茶は温かいほうがいいだろう。そう思って、最後に買うことにした。
まずは、料理を選ぶ。
パン屋では、焼きたての丸パンを買った。
スープはどれにしようか。
そんなことを考えていたら、レンズ豆のスープの匂いに誘われる。
スープを売る店は五つほどあったが、迷うまでもない。レンズ豆のスープはリュザールの大好物であった。
最初に、アユが作ってくれたレンズ豆のスープを思いだす。
朝から手がかかるスープが出てくることはないが、あの日はリュザールの好物だと聞いてわざわざ作ってくれたのだ。
それから、アユは事あるごとにレンズ豆のスープを作ってくれる。
アユ特製のレンズ豆のスープは絶品なのだ。
列に並ぼうとしたが、人混みでどれがレンズ豆のスープを売る店のものかわからない。
昼時の鐘が鳴ったからか、どっと人が増えた。
人が増えたからか、なんだか落ち着かない気持ちになった。
なんだか心が騒めく。早く、アユのもとに戻らなければ。
そう考えていたら、ひゅうと強い風が吹く。
それは、精霊の忠告のように思えた。今すぐ戻ったほうがいい。リュザールはレンズ豆のスープを売る店から踵を返し、アユのいるほうへ急ぐ。
途中、肉の串焼きを売る店の長い行列に行く手を阻まれる。
早くアユのもとに行きたいのに、ツイていない。リュザールは舌打ちする。
胸騒ぎがいっそう強くなった。
ここでも、風が吹く。リュザールに警告するような、荒々しいものだった。
わざわざ言わずともわかっていると、叫びだしたくなった。
どちらへ向かったら早くアユのもとへ戻れるのか。そんなことを考えている中、背後から悪い気を感じた。
だが、人混みの中にいたせいで、反応が遅れる。
ドッ──と、何かを思いっきり殴る音が聞こえ、後頭部に痛みを伴う衝撃が走る。
ぐらりと、目の前の景色が歪んだ。
誰が殴りかかってきたのか。振り向いて確認する前に、視界が真っ暗になった。
リュザールは意識を失ってしまう。