宴のあとに
咄嗟に、男の手を掴み、行動を阻む。腕力には、自信があった。
しかし、アユがいくら力仕事を毎日しているからといっても、相手は筋肉の塊のような男だ。すぐに、払われてしまう。
ジタバタと暴れ、抵抗を試みる。どれも、男からすれば戯れにすぎないのだろう。
両手を押さえ、にやりとした顔を近づけてくる。それはまるで、アユの体力が尽きるのを楽しげに眺めているようだった。
せっかくリュザールの妻として選んでもらったのに、自身を守れないなんてあまりにも情けない。
瞼が熱くなり、悔しさと悲しさとふがいなさが、一気に押し寄せる。
泣いたらダメ。相手の思うつぼだ。
そう言い聞かせるが、生理的な涙が眦に浮かんでくる。
ここで、義母アズラの言葉が甦る。
──ユルドゥスの花嫁衣装には、ナイフを吊り下げられるようになっているのですよ。
ナイフの存在を思いだした。
だが、アユの細腕で屈強な男を倒せるとは思えない。剣を突き立てるならば、己自身だ。
ここで、男に貞操を捧げるわけにはいかない。
死んだ方がマシだ。
「いい加減、大人しくしやがれ!!」
そう言ってアユの両手を頭上に上げ、片方の手で押さえる。
空いた手は、アユの服に伸ばされた。
胸元に手を挿し込もうとしていたが──思いがけない展開となった。
『キッ!!』
アユの服の中から白い物体が飛び出してきた。白イタチのカラマルだ。
男の顔面に飛びかかり、鼻を齧る。
「痛てえ!!」
続けて、男は脇腹にドン! と重い衝撃を受けた。それは、驢馬のジャンの頭突きだった。
こらえきれなかったのか、男の体は吹き飛ばされた。
「カラマル! ジャン!」
カラマルはジャンの頭に登り、フン! と鼻息荒く男を見下ろしている。
ジャンも『ヒーハー』と鳴いた。
「アユさん!!」
ここで、シトラがやってきて、体を起こしてくれた。
「お、おい、お前ら、起きろ……!」
「あ、兄貴?」
「どうしたんすか?」
眠っていた細身の男と、ふっくらとした男が起き上がる。
「あいつらが、動物に命令して俺を襲わせたんだ!」
「な、なんて野蛮な!」
「とんでもないっす!」
野蛮なのはどちらだ。アユはそう叫びたくなる。
ジャンは騎士のように、アユの前に立ちはだかっていた。
とても勇敢な驢馬だ。しかし、武器を持った人には敵わないだろう。
羊の群れは、夜間放牧に出かけてしまった。以前のように、羊の力を使って難を逃れることはできない。
そもそも、どうしてこうなってしまったのか。奥歯を噛みしめる。
侵略者の一族といえど、職人達に手出しをしないという協定を結んでいたのに。
集落の男達がいないので、いいと思ったのか。
アユの中で憎しみがどんどん膨らんでいく。
カッと、アユの額にあるリュザールの精霊石が、強い熱を放つ。
──血塗レニシテヤレ……!
精霊の声が、聞こえたような気がした。風の力を使って、敵を屠れと。
精霊石の力を使えば、侵略者の一族を殺すことができる。
女達を、そして自分自身を守るためならば、腕の一本ですら失ったとしても構わない。
アユは息苦しさを覚えた。精霊と、感情が同化しているからか。
胸に手を当て、息を整える。
「はー、はー、はー……」
「ア、アユさん、大丈夫なの!?」
シトラの声は、届いていない。
腰ベルトに吊り下げられた大振りのナイフを引き抜く。石鹸を削るようにと、アズラがくれた品である。
アユはナイフを頭上に上げた。月光とナイフの刃が重なり、キラリと光る。
「アユさん!!」
シトラがしがみついて止めようとしたが、その肩を片手で押し返す。
「きゃっ!」
軽く押しただけなのに、シトラは吹き飛ばされて転倒した。アユが肩を押したのと同時に、強い横風が吹いたのだ。
もう、邪魔者はいない。精霊の力を、揮うことができるのだ。
「驢馬は殺して、女達は捕えろ!! 殺すのは、楽しんでからだ」
「おうよ!」
「久々に腕が鳴るぜ!」
昼間の羊と同じように鳩尾にナイフを入れて、心臓を強く握れば──大きな嵐を巻き起こすことができる。
アユは躊躇うことなく、ナイフを振り下ろす。
だがここで、立つことができないほどの強い風が吹いた。
「くそ!」
「なんだ、こりゃ!」
「ぐわっ!」
風は侵略者の一族だけでなく、アユの自立も不可能とさせる。
「うっ!」
倒れ込むアユを、ジャンが支える。腕の中に、カラマルも飛び込んできた。
心配そうに、アユを見上げていた。
そして、強風の中這いつくばってきたシトラは、アユからナイフを取り上げる。
「あっ──!」
「アユさん、これは、ダメ!」
そうだ、そうだと同意するように、カラマルとジャンが鳴いた。
シトラはアユの頬を打った。ここでアユは、正気を取り戻す。
「わ、私は、何を……!」
リュザールと精霊の力は使わないと約束した。それなのに、強い感情に身を任せ、精霊の力を揮おうとした。
負の感情をもって精霊の力を揮えば、それは悪影響を及ぼす。
さきほどのアユは、怒りと悲しみを糧として精霊の力を使おうとしていた。
もしもあのまま精霊の力を使っていたらどうなっていたか。
考えただけで、ゾッとする。
ここで、風がぴたりと止んだ。
侵略者の一族の男達は立ち上がり、ジャンへと襲いかかる。
「ジャン! ダメ、下がって!」
『ヒーハー!!』
これまでの中で一番大きな鳴き声を上げ、果敢に男達へ頭突きをしようとする。
ジャンの頭突きが届く前に、剣で斬り捨てられてしまうだろう。
アユは叫んだが、ジャンは止まらない。
「ジャン!!」
大きな剣が振り上げられ、ジャンへ下されようとした。
涙で、前が見えない。アユはジャンへと手を伸ばす。
斬られているところは、見ることができない。咄嗟に、瞼を閉じてしまった。
ジャンの声は、聞こえなかった。
「え?」
隣で、シトラの呆然とする声が聞こえた。
アユは恐る恐る、瞼を開く。眼前にあったのは、手足を広げて倒れる侵略者の一族の男。
「兄貴!」
「兄さん!」
そう叫び、駆け寄ろうとした男達も、次々と倒れる。
彼らの額には、矢が刺さっていた。
アユは振り返る。遠くに、黒馬に跨る男が見えた。褐色の肌に、小麦色の髪を持つ青年──リュザールだった。