羊飼いの少女の勇気
羊の長い長い群れが、草原を横切っていたのだ。
右を見ても、左を見ても、羊、羊、羊。
何百頭もの羊が列を成し、草原を横断していた。
羊達は羊飼いと牧羊犬の指示に従い、ぞくぞくと歩いている。馬が通れる隙間など、まったくない。
リュザールは馬から降りて、鞍に吊り下げていた弓矢を構える。
五騎の馬との距離は、五百米突くらい。
侵略者一族の持つ旗がはためき、ハッとなった。
あれはいくつもの遊牧民を滅ぼした、侵略者の一族である。
自らの一族を表す印に、滅ぼした遊牧民を蜘蛛の形にして取り入れているのだ。
以前見かけた時より、ずいぶんと蜘蛛の数が増えていたので、初めて見た一族のものだと勘違いをしていたのだ。
どうやら、知らない間に多くの遊牧民を襲い、滅ぼしていたようだ。
この者達とは、調停者であるユルドゥスも戦っている。
そして、ことあることに侵略を邪魔するので、恨まれている相手でもあるのだ。
容赦は必要ない相手だとわかり、リュザールは遠慮なく矢を放った。
弧を描いて飛んで行った矢は――先頭を走っていた男の胸に命中する。即座に、落馬した。
操縦者を失った馬は、速度を落とし最終的には立ち止まる。
残り四騎。
相手も矢を放って来るので、リュザールは叫んだ。
「おい、馬から降りて、しゃがんでおけ」
アユは言われたとおり、姿勢を低くする。
馬の手綱も引いて、座らせていた。
リュザールは、馬が自分以外の者の言うことを聞いたことに驚いた。しかし、それを今気にしている場合ではない。
リュザールは続け様に矢を撃つ。
二射目はひと際強い風が吹いたので外れた。三射目は見事的中。敵の左肩を貫いた。
しかし、落馬しない。
四射目を撃つと、額に当たった。今度こそ、落馬する。
その馬にはアユの叔父も乗っていたが、一緒になって地面に転がっていた。しかも、タイミングが悪かったのか、馬に蹴られている。大きな怪我をしているようには見えないが、痛みからのたうち回っていた。
リュザールはザマアミロと思う。
追っ手は残り三騎。
しかし、五射目を撃つ余裕などなかった。
侵略者一族の者達は三米突の位置まで接近し、近接戦闘をするため馬から下りてくる。
リュザールも弓矢を投げ、腰に下げていた剣を抜いた。
一対三だ。
一人は背が高く、若い男。もう一人は中年で、筋骨隆々。最後の一人は、ずんぐりしていたが大剣を装備していた。
勝てるかどうかは、わからない。しかし、やるしかなかった。
歯を食いしばり、剣を振り上げて向かってくる男の剣を受けるため構えたが――想定外の事態となる。
「――エーイ!!」
それは、草原に響き渡るような、澄んだ大きな声であった。
アユが、羊達に向かって叫んでいたのだ。
道を横断していた羊達が、ピタリと動きを止める。
再度、アユは「エーイ、エーイ」と繰り返す。
そして、「アフ、アフ」という声がかけられると、羊達が侵略者のほうへと走り出した。
アユが発した言葉は――『コーリング』という、羊を操る羊飼いの言葉であった。
羊達は方向転換し、侵略者一族のほうへと走り出す。
「う、うわっ!」
「な、なんだ!」
「ひええ!」
何十という羊達が迫ってきたので、侵略者達は行動不能となる。
混乱状態となったその間に、アユはリュザールの腕を引いた。
「今のうちに」
「あ、ああ」
リュザールとアユは馬に跨り、隙間ができた羊達の間を縫うように先へと進む。
侵略者との距離はだいぶ離される。
リュザール達を追うために馬に跨っていたが、羊達がそれを妨害する。
それどころか、馬は羊の群れを恐れ、逆方向に走り始める。
遠くから、方向転換をした羊を不審に思った羊飼いが駆けてきていた。「ヘ、ヘイ」と、よく通る声で叫んでいる。
羊飼いの声量は驚くべきものだ。このどこまでも続く草原の中、広く響き渡っている。
ここで、声は仕事道具だと言っていたアユの言葉の意味を理解した。
たしかに、羊飼いには、羊を操る声は重要なものだ。喉を枯らしてしまったら、仕事にならないだろう。
だんだんと、侵略者一族との距離は離れていく。
一時間後、ようやく撒くことができた。
湖を見つけ、馬に水と角砂糖を与える。
リュザールはアユの隣に、腰を下ろした。
「……酷い目に遭った」
「ごめんなさい」
「お前は悪くない。運が悪かっただけだ」
「でも」
「悪くないと言っている」
アユが自分を責めそうだったので、話題を逸らした。
「声、驚いた。すごいな」
「いつも、していたこと」
「羊飼いの仕事だな」
声が出ないと仕事にならない。だから、普段のアユは囁くような小さな声しか発しない。
「最初のは、なんて指示だったんだ?」
「あれは、こっちに来い」
「次は?」
「急げ、走れ」
羊の群れはアユの指示に従い、方向転換した。
そのおかげで、こうして逃げ切ることができた。
「羊飼いが言っていた、ヘ、ヘイはなんだ?」
「戻ってこい」
「そうか」
羊の群れの移動の邪魔をしてしまったが、行動はすぐに修正されたようだ。
なんとか、アユの機転もあって逃げ切ることができた。
あのまま、一対三の戦闘をしていたらと思うと、ゾッとする。
侵略者一族の襲撃で荷物は失った。予定していた進路からも逸れてしまう。
しかし、何はともあれ怪我もなく逃げ切った。
そのことを、喜ぼうと思う。
あとは、仲間達と合流するばかりだ。
リュザールは立ち上がり、アユに手を差し伸べる。
「すまんが、あまり長く休んでいられない。ユルドゥスの夏営地はもうすぐだ。行くぞ」
アユはリュザールの手を掴み、立ち上がった。