下り立つ白鷲
空は晴れ、雲は穏やかに流れる。
太陽はわずかに傾き、雲を橙色に染めていた。夕暮れ時になりつつある。
ヒタプの集落では、青空の下に台所が作られている。
移動式家屋の中は、商品があるので匂いが移らないように分けているようだ。
煉瓦を積んで作られたかまどに、火を熾こす。
忙しい職人夫婦に代わって、リュザールとアユが料理を作ることになった。
リュザールはぐつぐつと、沸騰する鍋をぼんやりと眺めていた。
湯の中にはマッシュルームが茹だっている。
そのすぐ近くで、アユはパン生地をこねていた。
「あ、あううう……」
「はいはい」
ゆりかごの中の赤子ヨーヨがぐずりそうになったので、リュザールは抱き上げる。
アユに習った抱き方をして、あやしたら泣き止んだ。
子どもを泣き止ませるコツは、根気強く相手をしてあげること。それだけだと、アユは言う。
リュザールが火の前から離れると、アユが二倍速で動く。
沸騰した湯を切り、茹だったマッシュルームと分ける。鍋にオリーブオイル、ニンニク、タマネギを炒め、火が通ったらマッシュルームとトマトを加える。
仕上げに、発酵唐辛子、ザクロ酢、香辛料を入れ、最後に塩で味を整えたら、キノコのソテーの完成だ。
リュザールがヨーヨをあやしているうちに、料理を一品仕上げてしまった。
息つく間もなく、二品目に取りかかっている。パン生地は発酵中のようだ。
「リュザール、お前は本当にいい嫁さんをもらったな」
休憩にやってきた兄ヒタプが、しみじみ言った。
「子守りに料理と、なんでもできるんだな。他に何ができるんだ?」
「アユは──」
ハルトスの一番の織物の織り手でもある。
それを兄に話すべきか、リュザールは迷った。
ヒタプは口が堅く、誰かに喋ったりしない。けれど、父メーレのように酒を飲んで口が軽くなったりしないだろうか。それだけが心配だ。
兄とはいえ、すべてを知るわけではない。言うべきではないと判断した。
「あれくらい、最近の娘は普通にでき──」
言いかけたところで、白鷲が飛んでくる。
「あれは、親父さんの鷲じゃないのか?」
「ああ、そうだな」
白鷲は旋回したのちに、地上へと降りてくる。
脚には、皮が巻かれていた。
ヒタプが取り、リュザールが餌の生肉を与えた。
「四兄、何かあったのか?」
「みたいだ」
運河に沿って遊牧している羊飼いが、侵略者の一族に襲われていると書かれている。近くにいたらしい長男ゴーズが先に駆け付けているようだが、侵略者の一族の数が多く苦戦しているようだ。
戦いが起きているのは、ここから馬で三時間ほどの草原らしい。
「俺達の手を、貸してほしいと」
「それは構わない。だが──」
アユのほうをチラリと見る。彼女を戦地には連れて行けない。
「嫁さんはここに置いておけ。あとで、迎えに来ればいい」
「いいのか?」
「ああ。シトラも、嫁さんがいたほうが安心するだろう」
「わかった」
まず、アユに事態の説明をする。すると、アユはコクリと頷き、ここで待っていると言った。
「あとは、セナを迎えに行ったほうがいいな」
戦いは長引く時もある。セナを何日も野宿させるわけにはいかない。
「荷物は、仕方がないな。盗まれた時はその時だ」
緊急事態なので、運べない荷物は放置する。
リュザールはセナを馬に乗せ、驢馬は羊同様川に投げ込んだ。すると、器用に泳ぎだす。
身支度を整え、剣を腰に佩き、矢筒を背負う。手には弓を持った。
ゴーズが苦戦していると聞き、不安が胸の中で渦巻いている。
父よりも大きな体を持ち、今まで負け知らずだったのだ。
対する侵略者の一族が、どこの誰か書いていないのも不安の一つとなっている。
未知の相手と戦うほど、恐ろしいことはない。
「リュザール!」
アユが走ってくる。手には、焼きたてのパンと炙った肉の串焼きが入った包みがあった。
「これ、あとで食べて」
「ああ、ありがとう」
手渡された包みは温かい。できたてなのだろう。
そのぬくもりを感じているうちに、心の中の不安は淡く溶けていくような気がした。
包みは革袋に入れて、鞍に吊り下げる。
「もう行くの?」
「ああ。突然、すまない。ユルドゥスでは、たまに、こういうことがある」
「うん……」
風がさわさわと地面の草を撫でるように吹いている。
この地は驚くほど穏やかなのに、知らない土地では戦火に呑まれているのだ。
リュザールは調停者の一族である。
弱き者を、助けなければならない。
「すぐに、戻ってくるから、ここで待っていてくれ」
「わかった」
「それと──」
アユの手を引いて、抱きしめる。
リュザールの腕の中で、アユは大人しくしている。力を込めると、抱き返してくれた。
小さな手が、背中を優しく撫でてくれる。
さすれば、不安は綺麗になくなったように感じた。
「行ってくる」
「リュザール、待って」
力強く腕を引かれ、アユのほうに顔を近づける体勢となった。
何事かと思った瞬間、頬に口付けが落とされる。
「なっ──!?」
「おまじない。無事に、帰って来れますようにって。シトラお義姉さんが、教えてくれた」
ヒタプの妻シトラはアユにとんでもないことを教えたようだ。
口付けされた頬が燃えるように熱くなる。
「お前、これは、俺以外にするなよ」
「うん、わかった」
リュザールは背筋を伸ばし、アユの肩に触れる。
そして、花嫁のベールを外し、額の精霊石に唇を寄せた。
アユは目を見開き、だんだんと頬を薔薇色に染めていく。
恥ずかしくなったリュザールはすぐに背中を向け、出立の言葉を口にした。
「行ってくる」
「行って、らっしゃい……」
アユに見送られながら、リュザールは戦地へ向かうこととなった。