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リュザールの焦燥

 静かになった家屋の中に、ヒタプが入ってくる。


「今の、聞いたか? ヨーヨが、笑っていた」

「ええ、驚いたわ。今、どこから攫ってきた大草原の姫巫女かと聞いていたところ」

「だから、違うってば」

「じゃあ、あの子、どこの子? 髪の色も、目の色も、この辺では見ない色だけど──」

「……」


 アユと出逢えたのは、本当に運が良かったのだ。

 初めての邂逅のさいの、虚ろな彼女の瞳を思いだしたら、胸がずきんと痛む。

 もう、あんな目をさせてはいけない。何があっても、アユだけは守らなければならない。


 ただ、一人で守るのは無謀というものだろう。

 一応、兄夫婦にもアユの事情を話しておく。


「ここだけの話として聞いてほしいんだが──アユはハルトスの娘だ」

「ハルトスって、山岳遊牧民のか?」

「そうだ」


 草原に下りてくることは滅多にない、毛足の長い絨毯が有名な羊飼いの一族である。

 他の部族と交流することはなく、その生活は謎に包まれていた。


「そっか。ハルトスの生まれだから、ちょっと浮世離れしているような雰囲気なんだ。ヨーヨを泣き止ませた瞬間、神がかり的な何かを感じたわ」

「たしかに、この辺じゃ見ない、神秘的な娘だ」


 強い風が吹いたら消えてしまいそうな儚さがあり、精霊が好みそうだと。夫婦はアユを評す。

 その言葉に、リュザールは首を横に振った。


「違う……」

「リュザール?」

「どうしたの、怖い顔をして」

「アユは、普通の女だ。特別でも、なんでもない」


 だから、大丈夫。絨毯商はアユのことを探してないし、連れ去ることもしない。

 精霊が、妻として望むわけもない。家族だって、探してはいないのだ。

 しかし、胸騒ぎがする。

 それは、今まで深く考えないようにしていたことでもあった。

 リュザールは激しく鼓動する胸を押さえ、立ち上がる。


「おい、どうした?」

「アユを、見てくる」

「お、おう」


 ヒタプの家を飛び出し、リュザールは草原を走る。


 アユはオリーブの樹の木蔭で子守歌を歌っていた。

 優しい風が吹いている。それはまるで、精霊がアユを慈しむかのよう。

 まどろむ赤子と、歌うアユを、精霊は愛でているようだ。


 リュザールがアユに近づくと、歌は途切れ、風も止む。


「リュザール?」

「アユ……」


 ふらふらと近寄り、アユの前に腰を下ろす。

 ヨーヨはぐっすり眠っているようだった。


 アユはヨーヨをゆりかごの中に入れて、リュザールの顔を覗き込む。


「どうしたの?」

「風の精霊が、お前の傍にいた」

「歌が、下手だったから?」

「違う」


 精霊は優しくアユを見守っていた。代償などなくても、精霊はアユを祝福している。

 それを今、リュザールは目の当たりにしたのだ。


 精霊に愛される娘──それは生まれ持った才能ではなく、彼女の努力の結晶が奇跡を呼び寄せているのだろう。


「何を考えているの?」

「風が、お前を攫わないか、心配で」

「大丈夫」

「分からないだろが」

「どうして、そう思うの?」

「……」


 兄夫婦が言った。アユは特別な娘であると。

 気のせいだ。そんなことはないと否定していたが、口から出された言葉を聞いてしまい急に不安になってしまったのだ。


 アユは間違いなく、普通の娘ではない。心の奥底では、分かっていた。

 しかし、リュザールは、どこにでもいる平凡な娘であってほしいと願う。

 そうでないと、妻として傍に置いておくことができない。


 アユ自身もハルトスの特別な娘ではなく、ユルドゥスの平凡な娘であることを望んでいる。


 家畜の毛並みが良くなった。今日は洗濯物が良く乾く。料理が美味しい。

 そんなことを幸せだと思うこの暮らしを、この先もどうか守ってほしい。


「俺は……」


 この言葉は、口に出すべきではないと分かっている。けれど、一人ではとても抱えきれない。


「何? 言って」

「……」


 顔を俯かせ、奥歯を噛みしめていたが──アユの両手がリュザールの頬を優しく包む。


「悪いことは口に出すべきではないと云われているけれど、悪いことのすべてがそうではないと私は思う。その人を苦しめる悪いことは、口に出していい。聞いた相手が、半分受け止めてくれる」


 アユの言葉を聞いた瞬間、胸から熱いものがこみ上げ、瞼がカッと熱くなる。


 眦から流れる涙のように、リュザールは心情を吐露した。


「お前がどこかに連れ去られてしまいそうで、怖いんだ」

「どうして? 誰が、私を連れ去るの?」

「お前は、自分の価値を分かっていない」

「分かっている。私はリュザールの妻で、それ以下でもそれ以上でもない。それが、私の価値」


 思わず、言葉を失ってしまう。アユはリュザールの妻であることが、自分の価値のすべてだと主張していた。


「リュザールは、泥だらけで命乞いの材料にされた私に、手を差し伸べてくれた。その時に、言ってくれた」


 ――役に立つか、立たないかは、連れて行くと判断した俺が決める。お前が勝手に自分で決めることじゃない。それに、最初から決めつけるな。役に立たないじゃないんだよ。諦めずに、やるんだ!


 ──お前をどうするかは、俺が決める。お前は、勝手に決めるな。黙って、そこにいろ!


「リュザールがそう言ってくれたから、私はもう一回頑張ってみようと思った。そうしたら、妻にしてくれた」


 以降、アユはリュザールの言葉を信じ、前向きになれた。


「だから、評価や価値なんて、どうでもいい。私は私の価値を、分かっているから」


 アユはリュザールを抱きしめ、耳元でそっと囁く。


「私はどこにも行かない。ずっと、リュザールの傍にいる」

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