走って、走って、そして――走る
アユは髪を結ぶ紐を解体に使ってダメにしてしまったようで、一つに結んだ三つ編みを胸の前から垂らしている。出発前となり、ベール付きの帽子を被っていた。
火はリュザールが消す。指笛を吹き、近くの木に止めていた黒鷲を空に放った。
「よし、出発するぞ」
アユはじっと、リュザールの顔を見つめる。
いまだ、この意思の疎通には慣れない。
声を枯らさないため、普段から喋らないようにしていると言っていたが、果たして声を何に使うのか。リュザールにはピンとこなかった。
目と目が合う時間が気恥ずかしくなり、リュザールはいつも顔を逸らしてしまう。
悪いと思っているものの、このようにまっすぐ見られることはないので、仕方がない話であった。
リュザールとアユは馬に跨り、ゆっくりと並み足で進んで行く。
この速度だと、あと半日ほどでユルドゥスの夏営地に到着すると予測していた。
リュザールの前には、アユが跨っている。
今日は向かい風でふわふわと花嫁のベールが漂い、少女の馨しい香りが鼻孔をくすぐっていた。
アユは春の花畑のような、ふんわりとした柔らかな香りを身に纏っている。
昨日は同じ石鹸で体を洗っただけなのに不思議だ。
リュザールは首を傾げつつ、馬を走らせる。
と、このようにぼんやりとしていたので、背後からの接近に気付かなかった。
アユが、リュザールの手の甲を叩く。
「どうした?」
話を聞くためにぐっと身を寄せると、アユの香りが強くなる。
どうにも気が散る。リュザールは眉間に皺を寄せ、気にしないように努めた。
「何かが、接近している」
「はあ?」
間の抜けた返事をしたのと同時に、黒鷲がピィーー!! と、高く鳴いた。
あの鳴き方は警戒を意味するものだ。
リュザールは慌てて背後を振り返った。
「――なっ!?」
草原に土煙が舞い上がる。
それは、馬を全力疾走させたために、巻き上がるものであった。
黒く染め上げた帆布の旗が、ヒラヒラと揺れている。黒は異国からやってきた侵略者一族を示す証である。
旗に刺された模様には、見覚えがない。
ユルドゥスと一戦交えた部族ではなさそうだ。
馬に跨る者の数は五騎ほど。
「クソ、運が悪い!」
調停者であるユルドゥスは、侵略者一族から報復を受けることがある。
そのため、恨みを買って襲われることは珍しくない。
リュザールは褐色の肌に金色の髪という、かつて侵略者一族だった母親の容姿を強く受け継いでいた。
よって、今までユルドゥスであるとバレることもなかったのだ。
なぜ、気付かれてしまったのか。それを考えるのは無駄なこと。
今はただ、逃げることに集中するしかない。
「おい、歯を食いしばっておけ。馬を走らせる」
アユが頷いたのと同時に、リュザールは馬の腹を強く蹴った。
走って、走って、走って、走った。
だんだんと、距離が詰められている。
リュザールは舌打ちした。
鞍に荷物を積んでいるので、思うように早く走れない。
リュザールはアユに命令した。
「おい、鞍の荷物を外せ。右のほうの野菜と、左の穀物、両方だ」
アユは言われたとおり、体を捻って鞍の荷物を外す。すぐさま、二つの荷物は地面に落とされた。
体が軽くなったからか、馬の速度もぐんぐん上がる。
しかし、距離は縮まるばかりだ。
二人も乗せていたら、全力疾走も難しい。
ここで、アユがリュザールに話しかけてきた。
「リュザール」
「なんだよ、呼び捨てかよ!」
「リュザール様」
「様付けは気持ち悪い」
「リュザール」
「呼び捨てか様付けかの、二択だけかよ! って、そんなことはいい。なんだ?」
「追っ手は――」
アユは振り返って、リュザールに訴えた。
「きっと、私の叔父」
「は?」
「狙いは私だけ。だから、ここで降ろして」
リュザールを追う侵略者一族は、ユルドゥスを狙っているわけではなかった。
アユの叔父が侵略者一族を雇い、追って来ていたのだ。
リュザールは本日二度目の舌打ちをする。
「リュザール、お願い、私を、ここに」
「うるさい!!」
リュザールは大声でアユの言葉を制する。
すると、アユはリュザールに背を向けた。
キツイ物言いになってしまったが、仕方がない。
叔父はアユを都へ売り飛ばそうとした上に、命乞いの材料にもしていたのだ。
罪のない少女に対し、あまりにも惨い行いだった。絶対に、許せることではない。
それに、リュザールのために一生懸命料理を作ってくれた。そんな少女を見捨てることなどできやしない。
リュザールは鞍から吊るしていた、鉄の入った袋を落とす。
これが、一番重かったのだ。
ドサリと重たい音を鳴らしたのと同時に、馬はさらに加速する。
向い風の中なので、馬は辛いだろう。
もしも逃げ切れたら、好物の角砂糖をあげようと心に誓う。
背後から迫る馬の蹄の音が近くなっていることに気付いた。
ドッドッドと、胸が激しく鼓動する。
本当にこのまま逃げ切れるのか。
その疑問が、行ったり来たりを繰り返していた。
今まで、侵略者一族とは幾度となく戦ってきた。
戦うことへの誇りなどなく、彼らは卑劣で強欲。それから、人の命をなんとも思っていない、残酷な者達であった。
そんな侵略者一族に、アユを渡すわけにはいかない。
しかし、たった一人で守り切れるのか。
焦りから、額に汗が滲む。
ここで、アユが想定外の行動に出た。
掴んでいた手綱を、手放したのだ。
彼女の体はみるみるうちに傾いていったが――リュザールはアユの腰を掴んで引き寄せた。
「おい!! お前、何をしているんだ!! 死にたいのか!?」
この速度から落馬したら、大怪我だけでは済まされない。
思わず、怒鳴ってしまった。
それだけでは怒りが収まらず、言葉を続ける。
「お前をどうするかは、俺が決める。お前は、勝手に決めるな。黙って、そこにいろ!」
さすれば、アユは背中を丸め俯く。
追い風に乗って、キラキラと光るものが見える。
それは、アユの涙だった。
何を思って泣いているのか。リュザールにはわからない。
とにかく、逃げなければ。
そんなリュザールの目の前に、まさかの障害が現われる。
「な、なんだ、あれは――」