鈍った腕
沈みかける太陽を背に、新しい牧草地を目指して山羊と羊は移動を始める。
アユは驢馬のジャンを導く。
頭を撫でてやると、尻尾を振りながら「ヒーハー!」と鳴いていた。
「面白い鳴き声」
アユは声をあげて笑ってしまう。
ジャンは荷車を力強く牽き、遊牧についてくる。実に優秀な驢馬だった。
新しい牧草地に到着すると、リュザールとセナは家畜の囲いを作り始める。
アユとケナンは、家畜の見張り番だ。
見張りは主にケナンが行い、アユは膝に織機を置いて小さな灯りを頼りに織物をする。
羊毛を織っていると、あっという間に時間が過ぎる。
もぞもぞと白イタチのカラマルが動いた瞬間に、ハッと我に返った。
カラマルはアユの足元で、丸くなって眠っていた。くしゅん! とくしゃみをしていたので、手巾をかけてやる。
完成した織り目を手でなぞった。
やはり、思うように進んでいない。腕が、重たいような気がしていた。
「アユ」
「!」
突然名を呼ばれ、背後を振り返る。リュザールが湯気を漂わせるカップを二つ持っていた。
温めた羊乳に蜂蜜を垂らしたものを作ってくれたようだ。
リュザールはどっかりとアユの隣に腰かけると、カップを差し出してくる。
「飲め」
「ありがとう」
織機を籠に入れ、足を伸ばす。
今宵も肌寒い夜だったが、毛皮を纏っている山羊や羊は元気にバリバリと牧草を食べていた。
冷たい風が吹き、アユはぶるりと肩を震わせる。それを見たリュザールが、着ていたフェルトの上着をアユの肩にかけてくれた。
「リュザール、寒くないの?」
「今まで火の前にいたから平気だ」
「そう、ありがとう」
カップでかじかんでいた指先を温めつつ、あつあつの羊乳に吐息を吹きかける。
口にした蜂蜜入りの羊乳は優しい甘さがあり、ショウガが入っているので後味はピリッと引き締まる。しだいに、体がじんわりと温まった。
「美味しい。どうして、こんなのが作れるの?」
「母上が、寒い夜に作ってくれたんだ」
アズラが作ってくれたのは一度だけだったらしい。当時八歳のリュザールに、次からは自分で作れと突き放すように言ったようだ。
「それを聞いた時は、母上はなんて酷いなって思ったんだ。けれど、違ったんだなって、大人になってから気づいた」
旅先で体が冷え切っている夜、リュザールは何度もこれを作った。
アズラはリュザールが一人で寒い思いをしないように、教えてくれたのだ。
「しかし、もっと別の言い方もあるだろうって、笑ってしまったんだが」
「お義母さんらしい」
「まあ、そうだな」
微笑ましい話に、アユの口元は綻んだ。
温かな羊乳を飲みつつ、星空を見上げる。つられて、リュザールも空を仰いだ。
手を伸ばしたら届きそうなほど、キラキラ瞬く星である。
星空を眺めることが、夜間放牧中のアユの楽しみだった。
「綺麗」
そう零した言葉に、「そうだな」と返事があった。それは初めてのことで、じわりと温かい気持ちが溢れ心満たされる。
こんなに嬉しいことはない。
あとは、織物を織る腕が戻ってくればいいのにと思っていた矢先、リュザールが話しかけてくる。
「腕を、見せてくれないか」
「え?」
「さっきから、ずっと摩っている」
無意識にしていることだった。アユは腕をぎゅっと握り、俯く。
場所は、リュザールと傷を分けたところである。
「痛むのか?」
「ぜんぜん痛くない」
「じゃあ、見せてみろよ」
そっと、自らの腕をリュザールに差し出す。
服の上から、傷口をそっと撫でられた。
「──っく!」
「やっぱり、痛むんじゃないか!」
「ち、違う。へ、変な風に撫でるから、恥ずかしかっただけ」
「お、おう、そうだったか。すまん」
しんと静まり返る。リュザールはアユの腕から手を放さず、そっと袖を捲った。
灯火器の灯りを腕に当てる。傷口はよくよく見なければ分からないほど薄い。
特に痛くも痒くもないが、どうにも調子がでない。
「少し、むくんでいないか?」
「そう?」
リュザールはぐっ、ぐっと、アユの腕を按摩する。すると、少しだけ腕が楽になったような気がした。
「原因があるとしたら、傷だろうな」
「何の、影響?」
「お前が織物を早く織れなくなった理由」
「それは、違う!」
「違わない。認めろ」
「……」
リュザールの言う通り、調子が悪くなったのは傷ができてからだ。
日常生活を送る際にはまったく問題はない。ただし、腕の力を使う織物を織る際に多少の違和感を覚える程度だ。
「申し訳ないと思ったが、ホッとしている面もある」
「どうして?」
「お前が、働きすぎることがないからだ」
「!」
リュザールは労わるように、アユの腕を撫でる。武器を扱う武骨な男のものとは思えない、優しい手つきだ。
「今まで、人並み以上によく働いてくれた。これからは、人並みに働いてほしい。それが、お前に対する唯一の願いだ」
「どう、して?」
「ずっと言っていただろうが。お前は、働きすぎなんだと」
「だけど、私は、リュザールに返せるものなんか、何もない、のに」
「何言ってんだよ」
ぶるぶると震えていた肩を、リュザールはそっと抱き寄せる。
「お前は、こうして俺の隣にいるだけでいい」
アユはリュザールを見てどう動くべきか理解してくれるからと、耳元で囁かれた。
人並みに働き、人並みの収入を得て、人並みの暮らしをする。
それでいいんだと、リュザールは言い切った。
アユの瞳から溢れた熱い何かが、頬を伝って落ちていく。