その料理が、あなたの健康にいいように
夏とはいえ、草原の夜と朝は冷え込む。今日も、陽が沈んだあと気温はぐっと下がった。
出発前に、アズラから羊肉を貰ったので、スープに使う。
その辺に落ちている石を積んで簡易かまどを作り、木の枝を並べて火を点けた。
かまどに大きな鍋を置き、ひまわり油を垂らす。
まず、塩コショウした羊肉を臭み消しの香草とともに炒める。焼き色がついたら薄く切ったタマネギを入れて、飴色になるまで火を通した。
続いて、鍋に水、トマトの水煮とニンニク、香草を入れて灰汁を掬いつつしばし煮込む。最後に瓶詰白いんげんの水を切ってから鍋に入れて、コトコト沸騰させたら『羊肉と白豆の煮込みスープ』の完成だ。
これに、パンと白チーズが本日の夕食である。
まず、精霊の分を用意し、皿に盛りつける。巫女の代わりに祈りを捧げた。
それを、巫女の子であるセナとケナンが食べる。
食事中、リュザールが家畜を見張っていた。
「どうぞ、召し上がれ」
いつもの言葉を交わし、兄弟は食事を始める。
空腹だったからか、ケナンは勢いよく食べ始めた。喉を詰まらせないように、羊の乳を与える。
もうすぐ羊の乳は終わる。だいたい、春先から初夏まで搾ることができるのだ。
牛は冬から秋まで搾ることができ、山羊は冬から初夏の前まで搾ることができる。
家畜によって、乳を搾れる期間はまちまちだ。
搾乳の時季が終わると、家畜の繁殖期が始まる。
昼間バテると、食欲も元気もなくなってなかなか交尾を行わない。そのため、こうして夜間放牧に連れ出し、昼間に休ませて夜に移動と食事をさせるようにする。
アユはケナンに二杯目のスープを注いだ。
「ケナン、美味しい?」
「すごく美味しい!」
「そう。よかった。たくさん食べて」
「ありがと」
先に食べ終えたケナンが、アユに礼を言って家畜の世話に戻る。
もっとゆっくりしていてもいいのに、ケナンはじっとしていられない性分のようだ。
「セナ、美味しい?」
「うん」
「たくさん、食べてね」
セナが三つ目のパンに手を伸ばしたのを見て、アユは嬉しくなる。
子どもにお腹いっぱい食べさせることができるのは、幸せなことだ。
ハルトスの弟や妹にも、同じようなことができたらどんなによかったか。
「遠い目」
「え?」
セナに話しかけられ、アユはハッとなる。
「家族が死んだあと、ケナンもそんな目をしていた」
「家族は、生きているよ」
「でも、会えないんでしょう?」
「……」
弟や妹には会いたい。
けれど、ハルトスに戻りたいかと聞かれたら、複雑な心境になる。
「どれもこれも、望むものが手に入る優しい世界じゃないから」
「アユさんは、選んだんだ。ここを」
「そう」
食事を終えたセナは立ち上がり、尻の草を手で払う。
草は風に乗って舞い上がり、さらりと流れて行った。
セナはじっとアユを見て、一度会釈する。
「美味しい料理を作ったその手が、健やかであるように」
アユはお決まりの言葉を返す。
「その料理があなたの健康にいいように」
兄弟の食事を終えたあと、リュザールとアユの食事の時間となる。
白イタチのカラマルにも、羊の肉を与えた。美味しい肉だと分かるのか、嬉しそうに食べていた。
「おい、寒くないか?」
「平気。ずっと、かまどの近くにいたから」
スープを注いで、リュザールに手渡す。
リュザールは漂う湯気を見下ろし、口元を綻ばせていた。
パンにスープを浸し、零さないように食べる。
羊肉の旨みが溶け込んだスープは、極上だった。リュザールも気に入ったようで、三杯もお代わりしていた。
「つい、食べすぎてしまった」
気持ちがいいくらいの食べっぷりであった。ここでも、アユは嬉しくなる。
「なんだよ」
「私、リュザールが食べているの、見るのが好き」
「は? んなもん見るなよ」
今まで、家族がアユの料理を食べているところなど、気にしたこともなかった。
空腹の中食いっぱぐれないように、ひたすら必死に食べていて周囲を気にする暇もなかった。
人が美味しそうに食事をする様子は、見ていて飽きない。幸せに満ちた瞬間でもある。
同時に気づく。満腹にできる量の食事を用意できるのは、安易なことではない。
リュザールからもたらされるこの生活は、極めて贅沢なものであると。
お腹いっぱい料理が食べられるということは、豊かさの象徴なのだ。
「……だから私は、食事をしている様子を見ると、心が満たされる」
そう説明すると、リュザールはぶっきらぼうに「だったら好きなようにしろ」と言った。
これからも、家族に飢えを感じさせることなく暮らしたい。
アユが願うことは、ただ、それだけだった。
◇◇◇
夜が明け、地平線から太陽が顔を覗かせる。
太陽が昇ると、一気に気温が上がった。
羊と山羊は木の下にある囲いの中に追いこんで、日中は休ませるのだ。
これで、一日の仕事は終わりとなる。朝食に昨日の残りのスープを食べ、あとは睡眠を取らなければならない。
その前に、リュザールとアユは水浴びをする。
湖のほとりに二本の棒を立て、紐をかける。そこに大判の布を被せ、目隠しのような物を作った。
草原側にリュザールが腕組して立つ。
「本当に、先にいいの?」
「いいから、早く浴びろ」
「分かった。ありがとう」
目の前に見えるのは、果てない大草原。その中で、アユはオリーブ石鹸で髪を洗い、服を脱いで水を浴びた。
石鹸で汚れをすべて落とすと、すっきりなる。
大判の布で体を拭き、寝間着を纏ってリュザールに声をかける。
「リュザール、終わった」
「ああ──」
巫女が贈ってくれた、白い絹の寝間着姿だったが、それを見た瞬間、リュザールがぎょっとなる。
「何?」
「あ、いや……」
「言わないと、分からない」
「や、だから……」
「?」
「か、体が、透けている」
「え?」
リュザールは棒にかけていた布を取り、アユの体に巻き付ける。
「この寝間着で、外をうろつくな。いいな?」
「う、うん」
今からリュザールは風呂に入るのに、目隠しはなくていいのか。そう問いかけたら、男の水浴びに目隠しは必要ないと言われた。
リュザールはアユの手を引き、簡易家屋まで連れて行く。
「いいか、セナやケナンが来ても、顔を出すなよ」
「分かった」
まさか、体が透けるほど薄い布だったとは。
絹の寝間着は初めてだったので、アユは知らなかったのだ。